第二章 史料に見る義仲

 

 確実な史料が少ない事が義仲の実像が見えない要因である。『平家物語』などは作者の想像・創作が含まれている。

 

二・一 『平家物語』に見る義仲

 

 『平家物語』は軍記物語の一つで、治承・寿永の内乱の前後の、平清盛に始まる平家一門の繁栄と没落を描いている。活躍する主な人物は清盛、義仲、義経である。初期には琵琶法師の口伝とされる。数十種類の『平家物語』があり、内容に微妙な差がある。後に覚一という人が統一したものが語り本系「覚一本」である。
 『平家物語』は軍記物語である。実在の人物や実際の出来事に色々な人や話を付け加えたり、削除したりが考えられるので、事実かどうかはわからない。他の史料と比較してみる事が必要である。
 『平家物語』(覚一本)で義仲の登場する場面や関連する場面の概要は次のようである。比較のため読み本系の『延慶本』(以下『延』と記す)と『源平盛衰記』(以下『源』と記す)、その他との違いを記す。

 

巻第四 源氏汰(げんじぞろえ)


 横暴な平清盛を追討するため、源頼政が以仁王(高倉宮)に「令旨(りょうじ)を下されたら、多くの源氏が馳せ参じます」と各地の武者の名前を申し上げる台詞の中に、源氏の武将の一人として挙げられる。「信濃国には大内惟義(これよし)、岡田親義(ちかよし)、平賀義信、帯刀先生(たちはきせんじょう)義賢(よしかた)が次男木曽冠者(きそかじゃ)義仲、」と「故(こ)帯刀先生義賢の次男、木曽冠者義仲」の名がある。 (平賀義信は頼朝に味方し、重用された)
 熊野にいた十郎義盛を蔵人(くらんど)にして、行家と改名させて、令旨の使いとした。
 (解説)『愚』には「清盛は以仁王を島流しにしようとしたので、以仁王は三井寺に逃げ込み、全国の武士に決起を促す命令文書をばらまかれた」とある。

 

巻第四 那智軍(なちいくさ)


 行家は近江から始め、美濃・尾張の源氏、伊豆北条の頼朝、兄の常陸(ひたち、茨城県)国信太浮島の信太三郎先生義教、甥の木曽冠者義仲へ令旨を伝えるため中山道に向かった。
 それを聞きつけた平家方の熊野の別当湛増(たんぞう)が源氏方の新宮・那智軍を攻めたが敗退した。 

 

巻第四 橋合戦(はしがっせん)


 以仁王と源頼政を討つため平家軍が押し寄せ、宇治橋で合戦となり、以仁王と源頼政は討たれた。
 義仲の兄、六条蔵人仲家は帯刀先生義賢の長男だが、頼政の養子となっていた。仲家とその子の仲光も、この宇治橋の合戦のとき討たれた。

 

巻第四 若宮沙汰(わかみやのさた)


 義仲は以仁王の子を奉じて上京した。「以仁王の子の一人で、北国へ落下りしを、木曽義仲が上京のとき主に為まいらせんと御連れして都へ上り、元服させたので、木曽が宮、還俗(げんぞく)の宮、野依(のより)の宮と申す」
 (以仁王の子の一人で出家させられていた宮を木曽義仲が還俗(げんぞく)して元に戻し、元服させた。義仲没後には嵯峨の辺、野依に住まわれた)
 (注) 還俗(げんぞく)・・・一度出家した者がもとの俗人に戻ること。

 

巻第六 小督殿(こごうどの)


 小督(こごう)殿とは高倉天皇のお好みの美貌の女性で、清盛に迫害された。その話の最後に、ついでに義仲の誕生、生育の話が出て来る。『平家物語』は清盛一門の繁栄と没落を描く長い物語だから、義仲は時々登場するに過ぎない。
 「信濃国に木曽冠者義仲と言う源氏がいると聞こえてきた。故六条判官(ほうがん)為義(ためよし)の次男で、帯刀先生(たちはきせんじょう)義賢の子である。父の義賢は久寿(きゅうじゅ)二年八月十六日、鎌倉の悪源太義平によって討たれた。そのとき義仲は二才だった。母は泣く泣く義仲をかかえて信濃へ越えて、木曽中三(ちゅうぞう)兼遠の処に行き、『この子を何とかして育て、一人前の成人にして下さい』と頼んだ。兼遠は受け取り、頼りがいのある様子で二十余年養育した」とある。
 『延』には「信濃国の安曇(あずみ)郡木曽に、、義賢は上野(こうずけ、群馬県)国の多胡(たこ)郡に居住し、秩父次郎重隆の養君になり、武蔵国比企郡へ通い、大倉の館で義賢、重隆は共に討たれた。木曽の山下で育てた。木曽は信濃国の西南の角、美濃(みの、岐阜県南部)国の境なれば。今井は、木曽殿には乳母子(めのとご)、木曽仲三(ちゅうぞう)権守(ごんのかみ)兼遠の四男、樋口は木曽仲三権守兼遠の二男、木曽殿には乳母、巴は幼少より同様に育ちて」とある。
 『源』には「義仲の幼名は駒王丸(こまおうまる)、父義賢は武蔵国多胡郡の住人、秩父次郎太夫重澄の養子。信濃国の安曇郡に木曽という山里あり。木曽という所は、東は信濃、上野(こうずけ、群馬県)、武蔵、相模に通じ。母に抱かせて信濃国へ」とある。
 (注) 六条判官(ほうがん)為義(ためよし)・・・六条堀川に住み、検非違使(けびいし)左衛門尉(さえもんのじょう)だった。

 

巻第六 飛脚到来(ひきゃくとうらい)


 「木曽という処は、信濃にとっても南のはし、美濃(岐阜県南部)境なりければ、越後(えちご、新潟県)国の住人、城(じょう)太郎助長を越後守に任命した。これは木曽義仲を追討しようとする計略と聞こえてきた」とある。
 「九州(北九州)国から反乱を伝える飛脚が到来した。伊予(いよ、愛媛)国からも反乱を伝える飛脚が到来した」とある。
 (解説) 義仲を越後の城氏に征伐させようとした。

 

巻第六 淨海(じょうかい、清盛)死去(しきょ)


 清盛は生前、出家して淨海(じょうかい)と改名していた。治承五年(一一八一年)閏二月四日、清盛が死去した。清盛の遺言は「頼朝の首をはねて、我が墓の前におくべし」とある。
 『玉葉』一一八一年(養和元年)八月一日に、宗盛が言う清盛の遺言は「我が子孫、一人と雖(いえど)も生き残らば、骸(がい、しかばね)を頼朝の前に曝(さら)すべし」とある。かなり異なる。

 

巻第六 城太郎(じょうのたろう)


 越後国住人、城太郎助長(越後の守)、治承五年六月十五日、木曽追討のため三万余騎を率いて出発した。が、落馬して死亡した。

 

巻第六 横田合戦(よこたかっせん)


 横田河原の合戦である。「寿永元年九月二日、城四朗長茂、木曽追討のために、越後・出羽・合津四郡の兵共を引率して、都合その勢四万余騎、信濃国へ出陣した。九日、横田河原に陣を取る。木曽義仲は依田城にいたが、これを聞いて依田城を出て三千余騎で馳せ向かった。井上九郎光盛の計略で、赤旗を立て油断させ、白旗に変える作戦で勝利した」という。
 『延』『源』には「治承五年六月、城軍は六万余騎、木曽軍は二千余騎。白鳥河原から楯六郎親忠が偵察にむかい、八幡神社に祈願した。義仲も祈願した。杵淵小源太重光と言う平家方の武士が太刀を口に含み、馬より飛び降り自害した」とある。
 『玉葉』には「治承五年六月十三日、十四日。城軍一万余騎、信濃源氏等(キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田党一手)三手に分かれ、反撃す」とある。
 『吉記』治承五年六月二十七日には「越後の城資職が信濃国に寄せ攻む」「風聞に云く、越後国の住人資職(城の太郎資永弟、資永去る春逝去)、信濃国に攻め寄せ、すでに落ちたという」とある。
 (解説) 合戦の年月については、『玉葉』の六月十三日、十四日の信用度が高い。

 

巻第七 頼朝義仲不会(ふかい)


 頼朝と義仲の対決である。
 「寿永二年三月上旬に、兵衛佐(ひようえのすけ)頼朝と木曽冠者義仲の間に不快(不和)の事があった。兵衛佐は、木曽義仲を追討の為に、その勢十万余騎で信濃国に出陣した。木曽義仲は源氏同士の争いを避けるため、長男で生年十一才の清水冠者義重を兵衛佐の処へ婿(むこ)兼人質として送った」。

 

巻第七 北国下向(ほっこくげこう)


 寿永二年四月、平家は義仲追討のため、北陸道へ十万騎を派遣した。
 「先ず木曽義仲を追討し、その後、兵衛佐(頼朝)を追討しようとして、北陸道へ討手を派遣した。その勢十万余騎。寿永二年四月十七日都を立った。
 片道(の兵糧米)の追捕(ついぶ、現地調達)を許されたので、逢坂(おうさか)の関より始めて、路地(ろじ)にて会う権門勢家(けんもんせいけ)の正税(しょうぜい)・官物をも恐れず、一一奪い取り、次第に追捕(ついぶ)しながら通過したので、人民はこらえ切れず、皆山野に逃散(ちょうさん)した」とある。
 『延』には「片道の兵糧米の追捕を許されたので、路地にて会える物を、権門勢家の正税や官物、神社や仏寺の神物や仏物をも区別せず、一様に逢坂の関より、これを奪い取りするので、乱暴なる事はひどいものである。まして大津から海津に至るまで、在々処々の家々を次第に追捕した。このような状態なので、人民は山野に逃げ隠れて、はるかにこれを見やりつつ、各々声をそろえて叫んだ。昔から朝敵を鎮める為に、東国や北国に下り、西海や南海に赴く事、その例は多いとはいえども、このように、人民を費やし国土を損ずる事は無かった。それなら源氏をこそ滅ぼして、かの獣類をわづらわせるのが当然であるのに、このように天下を悩ます事はただ事ではないと申した」とある。
 『源』には「片路の追捕を許されたので、権門勢家の正税、年貢、神社・仏寺の供料・供米を奪い取りしたので、路次の乱暴はひととおりではない、在々所々を追捕したので、家々門々で安堵(あんど)の者なし」とある。
 (注) 権門勢家(けんもんせいけ)・・・官位が高く勢力のある家。
 (解説) 養和(ようわ)の大飢饉(ききん)の後なので、平家軍は将兵の食糧が不足した。やむを得ず、進軍途中の役所、神社、お寺、民家から現地調達して良いという命令を出させた。取られる側から見ると略奪に等しい。この悪法が後の源氏軍、鎌倉軍にも引き継がれた。

 

巻第七 火打城(ひうちがじょう)


 越前(えちぜん、福井県)国の火打城には北陸勢六千余騎が籠る。城内の斉明(さいめい)威儀師(いぎし)の裏切りにより落城した。
 平家軍十万余騎のうち七万余騎が加賀(かが、石川県南部)と越中(えっちゅう、富山県)の境の砺波山(となみやま)へ、三万余騎が能登(のと、石川県北部)・越中の境の志保の山へ向かう。
 木曽軍は越後(新潟県)の国府から五万余騎で馳せ向かう。木曽軍は五万余騎を七手に分ける。
 ①行家などは志保の山へ一万騎。
 ②仁科・高梨・山田次郎、七千余騎で北黒坂の搦め手として。
 ③樋口次郎兼光・落合五郎兼行、七千余騎で南黒坂へ。
 ④一万余騎、砺波山の口、黒坂のすそ、松長の柳原、ぐみの木林に一万余騎。
 ⑤今井四郎兼平 六千余騎、鷲の瀬を渡し、ひの宮林に陣をとる。  
 ⑥木曽一万余騎、小矢部の渡り、砺波山の北の外れ、埴生(はにゅう)に陣をとる。
何故か、六手しか記述がない。
『源』「北国所々合戦事」には、
 越中前司盛俊は五千余騎にて倶利伽羅山を越え、般若野(はんにゃの)に陣を構えた。今井四郎は六千余騎にて御服山に陣を構えた。
 五月九日、源氏六千余騎が般若野に攻め寄せた。平家は二千余騎を失い、三千余騎は加賀(石川県南部)へ帰った。

 

巻第七 木曽願書


 木曽義仲は埴生(はにゅう)八幡にて祐筆(ゆうひつ、書記)の覚明に願書を書かせて納めた。

 

巻第七 砺波山(となみやま)


 『延』では「行家一万余騎、志雄坂へ、今井一万余騎背後へ、義仲三万騎大手へ」となっている。
 平家軍は砺波山の山中、猿の馬場に退却し夜営した。暗くなってから、木曽軍はときの声をあげると平家軍は倶梨伽羅谷へ落ちていった。七万余騎の平家軍は二千余騎が加賀(石川県南部)国へ逃げた。
 『源』によると、「巴」は千騎の大将として、登場する。巴は木曽中三権頭の娘。横田の合戦でも手柄を立てた。また「葵」御前が砺波山の合戦で戦死した。「山吹」は登場しない。
 ①行家・楯親忠など志保の山へ一万騎。
 ②根井の二千千余騎が北黒坂の搦め手。
 ③今井四郎兼平の二千余騎。
 ④樋口次郎兼光の三千余騎。
 ⑤依田の三千余騎。
 ⑥巴の千余騎。
 ⑦木曽三万余騎。
 五百頭の牛の角に松明を付けた火牛の計を使ったとされる。
『延』には「巴」のみ登場し、「山吹」も「葵」も登場しない。

巻第七 篠原(しのはら)合戦
 平家軍は加賀(石川県南部)国篠原で態勢を立て直し布陣した。木曽軍は五月二十一日、朝八時頃、篠原に攻め入る。

巻第7 斎藤別当
 義仲の命の恩人、斎藤別当実盛が手塚光盛に討たれた。 錦の直垂を着て名を名乗らない奇怪な者を討ち取ったという報告があった。義仲は斎藤実盛だろうと見当をつけるが首は黒髪である、斉藤は七十歳を越えて白髪であるはずだ。合点がいかないので斉藤を見知る樋口を呼ぶ。 樋口は一目見て斉藤だと言う。斉藤は生前、六十歳を越えて戦場に向かう時には髪・髭を黒く染めて侮られないようにしたいと言っていた。義仲が首を洗わせると、はたして白髪になった。
 平家軍は四月十七日に十万余騎(実数は一万余騎)で都を立った、五月下旬に帰る勢は二万余騎(実数は二千余騎)に減少した。

巻第七 山門牒状(さんもんちょうじょう)
 山門(比叡山延暦寺)の衆徒(しゅと、僧兵)三千あてに、「源氏に味方せよ」との書状を右筆の覚明に書かせた。山門から、「源氏に味方する」との返書が届く。

巻第七 平家山門連署(へいけよりさんもんへのれんじょ)
 平家も山門に「平氏に味方せよ」との書を送る。遅かった。

巻第七 法皇御失都落(おんうせみやこおち) 
 七月二十二日夜半、美濃源氏・重貞が六波羅へ報告に駆けつけた。「木曽は五万騎で北国から攻め上り、比叡山の東坂本は、その軍勢で満ちた。郎等の楯六郎親忠、書記の大夫房覚明が六千騎で比叡山に登り、衆徒三千はこれに味方し都に攻め入ろうとしている」
 七月二十五日に平家軍は平宗盛以下七千騎。六波羅の屋敷や白河の在家を焼き払い、都落ちした。後白河法皇は二十四日夜、比叡山に逃れた。
 『愚』には「六波羅の家屋敷に火を付けて焼いたので、京中の物とりと名付けられる者が出てきて、火の中へ争いながら入り、物とりをした。
 その時、京中はたがいに追捕(ついぶ、掠奪)をして、物も無くなるはずであったので」とある。
 『吉記』には「七月二十六日、山僧等京に下る。路次の狼藉は数え切れない。或いは降将の縁辺と称し放火し、或いは追捕だ物取だと言う。人家で一棟完全な所は無し。眼前に天下の滅亡を見る。ああ悲しきかな。私の邸宅はこのわざわいを免れる。ひとえに仏神の冥助なり」とある。
  『玉』には「七月二十七日、木曽義仲の入京を期待。今や、義仲(木曽)、行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止、早く入京するのが適当であるか」とある。
『平』では、何の混乱も無く、平家軍が都落ちしたように表現しているが、『愚』『吉』によると、今まで治安を担当していた平家軍がいなくなったので、無警察状態となり、放火・略奪の大混乱になったことを記述している。『玉』でも士卒の狼藉を停止、混乱を鎮めるために義仲・行家軍の早い入京に期待している。

巻第八 法皇山門還御(ほうおうさんもんよりかんぎょ)
 後白河法皇は二十四日の夜に比叡山に逃れ、東塔の南谷円融坊を御所とした。
それを聞きつけて、左右の大臣以下の公卿など多くの人々が駆け付け、登山し法皇の御所に参りました。
 七月二十八日、後白河法皇は京に戻った。この時木曽義仲は五万騎で守護し、山本冠者義高(近江源氏)は白旗をかかげて供の先頭に立った。白旗が都に入るのは二十年あまり無かった事である。行家は宇治橋を渡って入京した。矢田判官代義清は大江山を越えて入京した。摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)・河内(かわち、大阪府南東部)源氏が大挙して都に乱入した。
 木曽義仲・行家は後白河法皇に拝謁した。二人は庭上でかしこまる。平家一族を追討の命を受けた。また、京での宿所として、木曽義仲は大膳大夫業忠の宿所・六条西洞院の家、行家は法住寺殿の南殿(萱の御所)を与えられた。
 法皇は安徳天皇と三種神器を都へ戻すように、西国の平家に院宣(上皇の命令)を出すが平家はこれを受け付けなかった。
 『延』には「その軍勢は六万騎に達した。入りてしかば、在々所々を追捕し、衣装を剥ぎ取り、食物を奪い取りければ、京中の乱暴はひととおりでは無かった」とある。
 『源』には「行家、義仲(よしなか)都へ入て後は、武士が在々所々を追捕し、衣装を剥ぎ取り、食物を奪い取りければ、京中の乱暴はひととおりでは無かった」とある。
 『愚』には「義仲は二十六日(二十八日の誤り)に入りました。六条堀川にある八条院の伯耆(ほうき)尼の家を与えられて宿舎にしました」とある。
『玉』『吉』によると法皇は二十七日に京へ戻った。
『延』『源』では、義仲軍だけが乱暴したように表現しているが、『愚』『吉』によると、今まで治安を担当していた平家軍がいなくなったので、無警察状態となり、僧兵、市民が放火・略奪の大混乱になったことを記述している。『吉』でも義仲を京中守護に任命し、狼藉を停止、混乱を鎮めるように命令している。

巻第八 名虎(なとら) 相撲(すもう)
 八月十日 法皇御所の殿上で除目(じもく)が行われた。
  木曽義仲は左馬頭(さまのかみ)、越後(えちご、新潟県)国を与えられた。さらに朝日将軍の称号の院宣を下された。後に越後を嫌って伊予(いよ、愛媛県)を与えられた。
 行家は備後(びんご、広島県東部)守を与えられた。後に備後を嫌って備前(びぜん、岡山県南東部)を与えられた。
  源氏の十人あまりが受領(ずりょう)、検非違使(けびいし)、靫負尉(ゆぎえのじょう)、兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられた。 
 新天皇を、競馬、相撲などの占いで決める事になった。名虎は相撲をとる武士の名前である。
 (注)除目(じもく)・・・大臣以外の官職を任命する儀式である。いわゆる人事異動。
   受領(ずりょう)・・・国司。
   検非違使(けびいし)・・・警察兼裁判官。
   靫負尉(ゆぎえのじょう)・・・衛門府(皇宮警察)の三等官。
   兵衛尉(ひょうえのじょう)・・・兵衛府(皇宮警察)の三等官。

巻第八 兵衛佐院宣(ひょうえのすけいんぜん)
 兵衛佐頼朝は鎌倉に居ながら「征夷将軍」に任命された。
「兵衛佐(頼朝)の顔は大きく、背は低く、容貌は優美、言語は明瞭」とされている。
 『延』には「兵衛佐(頼朝)容貌あしからず、顔大きく、少し引き太に見え、顔は優美に、言語は明らかにして」とある。
 『源』には「兵衛佐(ひょうえのすけ)頼朝(よりとも)、鎌倉に居ながら「征夷大将軍」の宣旨を下された。顔は大きくにして長ひきく、容貌は花美にして景体は優美也。言語は明らかにして」とある。
 (解説) 十年後の征夷大将軍の任命の様子が記されている。

巻第八 猫間中納言(ねこまのちゅうなごん)
 猫間中納言(光隆)が義仲を訪問したときのやりとりが記されている。
 「木曽左馬頭(義仲)、都の守護にて、は立居振舞の無骨さ、物言う言葉続きのかたくななること限りなし」とされている。
 身分の低い田舎者の義仲が身分の高い猫間中納言を猫殿と呼んだり、食事を強要したりの接待が無礼だと批判的である。が、かえって義仲は痛快な奴だと喜ぶ読者もいるようである。
 『延』には「木曽義仲はみめ形きよげにてよき男にて」とある。
 『源』には「木曽冠者(きそのかんじゃ)義仲(よしなか)は、見眼形はきよげにて美男なりけれども、ひどい田舎者、意外と頑固、癖がある」とある。

巻第八 木曽出仕(きそのしゅっし)
 木曽義仲が牛車で出仕する様子が可笑しいと記している。
 (解説) これは『今昔物語』の、ある侍が牛車に乗り苦労した話がある。この場面から創作したらしい。武士は乗馬は得意だが、牛車は普段乗り慣れていない。

巻第八 水島合戦(みづしまかっせん)
 閏(うるう)十月一日。木曽軍は大将として矢田判官代義清、侍大将として海野弥平四郎行広の平家追討軍七千騎を差し向ける。源氏五百余艘、平家千余艘で海上の船の戦となる。
 『延』には「平家軍五百余艘、義仲軍五千余騎、千余艘」とある。
 『源』には「平家は三百余艘の兵船を調えて、屋島の磯に漕ぎ出でた。源氏は備中(びっちゅう、岡山県西部)国水島が途に陣を取りて、千余艘の兵船を構えた。義仲軍五千余人、平家軍七千余人。両方の軍兵一万余人。天、俄(にわか)に曇って日の光も見えず、闇の夜のように成ったので、源氏の軍兵共は日蝕とは知らず、おおいに東西を見失ない舟を退いて、いづこ共なく風に従って逃げて行く。平氏の兵共(つはものども)は兼て知りければ」とある。

巻第八 瀬尾太郎(せのおのたろう)
 義仲、一万騎で山陽道を下る。北国の戦のとき、助命した瀬尾太郎が裏切った。福竜寺縄手(ふくりゅうじなわて)、篠(ささ)の迫(せま)り、板倉城を攻め瀬尾太郎を今井四郎が打ち取った。

巻第八 室山合戦(むろやまかっせん)
 木曽軍は備中(びっちゅう、岡山県西部)国万寿の庄で勢揃いし、屋島に攻めようとする。一方その頃、都の留守番・樋口から使者が到着し「行家が義仲のいない間に、法皇に告げ口している。西国の戦をしばらく差し置いて、急ぎ都へ帰れ」という連絡がくる。
 これを察知した行家は、五百余騎で丹波路を通って、木曽軍と行き違いになるように播磨(はりま、兵庫県西南部)国に下る。木曽軍は摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)国から都に入る。
 この間に、木曽を討つため平家軍二万騎が千艘の船で播磨(はりま、兵庫県西南部)国に入り、室山に布陣した。
 『玉葉』によると、室山合戦は法住寺合戦の後で、行家が独断で行い敗れた。

巻第八 法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)
 京中に源氏の軍勢が満ち満ちて、在々所々に押し入り強奪した。賀茂や八幡の御領地でも構わず、青田も刈り取って馬草にしてしまう。 民は「平家が源氏に代わって、いっそうひどい事になった」と嘆いた。これを受けて後白河法皇は京中の治安を義仲に命ずる。
 後白河法皇の命令を義仲に伝える使者が壱岐判官(いきほうがん)友康、鼓(つづみ)の名人だったので「鼓判官」と呼ばれていた。
 義仲が「鼓判官と呼ばれているのは、みんなにぶたれ(打たれ)たからか、張られたから」と聞いたので、友康はあきれて返事もせず法皇御所に帰った。鼓判官は「義仲は、おろか者です。すぐに朝敵になります。はやく追討なさるべし」と申し上げた。
 今井四郎が「法皇に降参するのがよろしい」と勧めるが、義仲は「信濃を出でし時、麻績、会田、北国には砺波山、黒坂、塩坂、篠原、西国には福立寺縄手、笹の迫り、板倉城を攻め、敵に後ろを見せた事はない。戦うべし」と言う。
『延』には「義仲、年来何度か戦をしてきた。北国は信濃の小見、会田の戦を始として、北陸道には黒坂、塩口、横田河原、安宅、篠原、砺波山、西国には備前の福龍寺縄手、佐々が迫り、備中の板倉の城を落とし、敵に後ろを見せず」とある。
『源』にも「信濃国平定の戦いから始めて、横田河原、砺波山、安宅、篠原、西国では備前国福輪寺畷の戦い、敵に後ろを見せず」とある。
 十一月十九日朝、合戦が開始された。法皇軍は法住寺殿に二万余人の軍勢(実数は十分の一の二千人か)。義仲軍六・七千騎(実数は十分の一の七百騎か)。
 合戦に勝利後、法皇の御厩(みうまや)の別当(長官)になる。
 前関白の松殿(藤原基房)の姫君を目当てにして、強引に松殿の婿になる。『源』には同様の記述がある。『延』に記述は無い。
 松殿の御子の師家(もろいえ)を内大臣・摂政になしたてまつる。
『吉記』によれば、義仲は「院厩(うまや)別当(長官)」に任命され、左馬守は辞退した。院厩(うまや)別当と左馬守は兼務しないという前例による。院厩(うまや)別当は、院に属する牧を管理し軍馬を統括し、院の御幸に際しては車後に随行して警護を担当する親衛隊長であった。当時の武士にとり左馬頭に並び、名誉な官職であった。
 『玉』によると、九月五日までは京都市内の治安が悪いと嘆いている。九月六日以後は治安が悪いとの記述は少ない。治安が悪い、または源氏軍の乱暴が法住寺合戦の原因ではない。義仲への使者は鼓判官ではなく、俊尭(しゅんぎょう)僧正、主典代大江景宗などである。松殿(藤原基房)の姫君を妻にした記述は無い。
 『愚』には「法住寺殿、法皇御所を城のように仕立て、ひしひしと義仲軍の寝返り源氏や比叡山や三井寺の僧兵を集めて、比叡山の座王明雲も僧兵を連れて参りて、ひしひしと固めつつあるので、義仲は又今はと思いきり、山田(今井)・樋口・楯・根の井と言う四人の郎従がいた。我が勢は減るばかりだ。さらに減る前に攻めようと思いました。寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎の内五百余騎など言うほどの勢にて、はたはたと押し寄せました」とある。松殿(藤原基房)の姫君を妻にした記述は無い。

巻第九 宇治合戦(うぢかっせん)
 樋口は裏切り者の行家を討とうと五百騎で河内(かわち、大阪府南東部)国の長野城へ向かった。
 鎌倉軍六万騎、大手は範頼軍三万五千余騎、搦(からめ)手は義経軍二万五千余騎である。(実数は五・六千騎である)
 寿永三年一月二十日早朝、木曽軍の配置は軍勢が少ないので、瀬田橋へは今井兼平以下の八百余騎(東国勢防御の正面・大手)、宇治橋へは仁科・高梨・山田次郎以下の五百余騎、一口(いもあらい)へは信太義憲以下の三百余騎を派遣した。
 多勢に無勢であっけなく義仲軍は敗退した。
『延』には「義経は川端の民家を焼き払った。逃げ遅れた者たちが焼死した。木曽四天王の今井・樋口・楯・根の井のうち、六条河原の戦いで、高梨、根の井が討ち死にした。」とある。

巻第九 義経入洛(よしつねじゅらく)
 九郎義経は六条河原から院御所へ駆けつけた。
 瀬田へ今井八百余騎、宇治へ仁科五百余騎、芋洗いへ志太三百余騎が派遣された。
義仲は「今井は幼少竹馬の昔より、死なば一処で死のうと約束していた」と瀬田へ向かう。主従七騎となった。

巻第九 木曽最期(きそのさいご)
 木曽殿は信濃より、巴・山吹という、二人の便女(召使、美女)を連れていた。山吹は病のため都に残してきた。なかでも巴は色白く髪長く、容貌は誠に美しかった。めったにいない強弓の精兵で、馬上の戦、徒歩立ちの戦、打物を持てば鬼にも神にも立ち向かうという一騎当千の兵である。屈強の荒馬乗りで、難所も乗り下し、戦となれば、上等な良い鎧を着せ、大太刀・強弓を持たせて、必ず一方の大将に指名された。度々の功名に肩を並べる者はいなかった。(巴は騎馬武者、薙刀は持たない)
 義仲は今井と再会したが、巴には戦場を離脱するように勧めた。巴は東国へ落ちて行った。手塚別当も落ち行き、手塚太郎は討ち死にした。
 木曽義仲は「左馬頭兼伊予守朝日将軍義仲」と名乗る。
今井四郎兼平は「木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平」と名乗る。
樋口次郎兼光は「今井の兄、樋口次郎兼光」とある。
 つまり、今井四郎兼平と樋口次郎兼光は兄弟。今井四郎兼平と樋口次郎兼光の母が同一か。
 義仲は深田に乗り入れ、動けなくなり、振り仰いだ内甲を石田次郎為久の矢に討たれた。今井四郎兼平は刀を口にくわえ、馬から飛び降り自害した。『延』と『源』には「横田河原合戦のとき、杵淵小源太重光と言う平家方の武士が太刀を口に含み、馬より飛び降り自害した」とある。
 『延』には「主従七騎中の一騎は巴という美女がいた。幼少より同様に育ち、乱戦後、主従五騎となり、巴は行方知れずとなった。義仲は石田小太郎為久に討たれた」とある。山吹は登場しない。
 『源』には「今井四郎兼平は木曽中三権頭の四男、木曽殿の御乳母子、樋口次郎兼光は今井の兄、木曽殿の御乳母子、巴は木曽中三権頭の娘で、義仲の妾。つまり、巴と今井四郎兼平と樋口次郎兼光は兄弟である。義仲は石田小太郎為久に討たれた。
 木曽殿には「葵」と「巴」という二人の女将軍がいた。葵は砺波山の戦いで戦死した。巴は戦後、頼朝に鎌倉に呼び出され、和田義盛の妻となり、朝日奈三郎義秀を産んだ。朝日奈三郎義秀の戦死後、越中の石黒氏を頼り、九十一歳で亡くなった」とある。

巻第九 樋口生害
 樋口は裏切り者の行家を討とうと河内(かわち、大阪府南東部)国の長野城へ向かったが討ちもらした。樋口は児玉党と縁を結んでおり、児玉党は樋口に使者を送り、降伏させた。これを九郎義経に申し出た。義経は法皇に奏上し法皇は許したが、側近・殿上人・女房らが助命に納得をせず、死罪と決まった。
 『延』には「樋口次郎兼光は信濃国住人木曽仲三権守兼遠が二男、木曽の左馬の守殿御乳母」とある。

巻第九 三草合戦
 一谷の合戦に備え、大手は範頼以下五万騎、搦手は義経以下一万騎が京を出陣した。義経は三草山で夜討ちの際「例の大松明はいかに」と、在家に火を付けた。野・山・草・木にも火を付けた。(以前にも夜間に民家などに火を付けた事があるか)

『延』の「梶原摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)国の勝尾寺を焼き払うこと」
 元暦元年二月四日、梶原は一の谷へ向かう途中で、民どもが勝尾寺に物を隠すとの事を聞き付けて、兵が襲い攻めかけたので、老いも若きも逃げ隠れた。三衣一鉢(衣類と食べ物)を奪うのみにあらず、たちまちに火を放ったので、堂舎仏閣ことごとく春の霞となり、仏像経巻・・・。
 (解説) 義経の目付け役として有名な梶原景時の軍勢が食糧調達のため勝尾寺に押し寄せ、衣類や食糧を奪っただけでなく、放火したことが記述されている。当時の遠征軍の兵糧は平家軍が始めた追捕(ついぶ)という乱暴な現地調達が普通となっていた。

巻第十一 遠矢
 源氏方の和田小太郎義盛が、平家方へ 遠矢を射た。 平家方の仁伊の紀四郎親清は義盛の放った矢を射返した。
 越中の次郎兵衛盛嗣が言う。「九郎(義経)は色白く背小さき、前歯の殊にさし出でて」
 『平』には「義経は色白で背低く、出っ歯」と噂されている。この噂は木曽義仲に味方した山本義経という武将と誤解したか、わざと誤報を流したとする説もある。
 『尊卑文脈』には「義経の母は九条院の雑仕女」となっていて、『義経記』によると義経の母は美人だったので、義経も美男だったかもしれない。
 『玉葉』の著者、九条兼実は義仲や義経には会っていないようだ。頼朝とは数回会談している。しかし、頼朝の容貌については記述がない。記述するほどの特徴が無かったようだ

二・二 『吾妻鏡』に見る義仲

 『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録とされる。合戦から約百年後に、執権(しっけん)となった北条氏の正統性を強調するために編纂されたという。義仲の活躍した寿永二年や、頼朝の死亡した年などの記録が無い。また北条氏に有利な文章が多いので、歴史書ではなく『物語』という研究者もいる。以下に「義仲」や関係者が登場する場面のみ記述する。

一一八十年(治承四年)

九月七日 「木曽義仲挙兵す」
 源氏の木曽冠者(かんじゃ)義仲は、帯刀(たてわき)先生(せんじょう)義賢(よしかた)の二男である。義賢は去る久寿二年(一一五五年)八月、武蔵(むさし)国大倉館で、鎌倉の悪源太(あくげんた)義平(よしひら、義朝の長男)に討ち亡ぼされた。
 その時、義仲は三歳の幼児であった。乳母(うぼ)の夫である中三権守(ちゅうぞうごんのかみ)の中原兼遠(なかはらかねとお)がこれを抱いて、信濃(しなの)国の木曽に逃れ、義仲を育てた。成人した今では、武略の素質があり、平氏を征伐し家を興そうと考えていた。
 そこで前武衛(さきのぶえい、頼朝)が石橋山で既に合戦を始めたと聞き、すぐ加わり念願の意思を表そうとした。
「笠原頼直、木曽を襲わんとし、村山義直・範覺と戦い敗走」
 ここに平家に味方する笠原平五頼直と言う者がいた。今日、武士を引率して木曽を襲(おそ)おうとした。木曽に味方する村山七郎義直と栗田寺別当(長官)大法師範覺等はこの事を聞き、信濃国の市原で向かいあい、勝負を決しようとした。両者合戦の途中で日が暮れた。しかし義直は矢が尽き、かろうじて堪(た)えていた。飛脚(ひきゃく)を木曽の陣に派遣し状況を告げた。そこで木曽は大軍を率いて急いで到着すると、頼直はその威勢を怖れ逃亡した。越後の城(じょう)四郎長茂(ながもち)の配下に加わる為、越後国に逃げたという。
 (注)冠者(かんじゃ)・・・若者
    帯刀(たてわき)・・・たちはき、皇太子の護衛
    先生(せんじょう)・・・隊長
    権の守・・・正員以外の守(国の長官、副知事)
    中三・・・中原家の三男か
    悪源太・・・この時代の「悪」は「強い」の意味
    武衛(ぶえい)・・・兵衛府(ひょうえふ)の唐名。頼朝は兵衛佐(ひょうえのすけ、次官)だった。
 (解説) 義仲の父義賢は武蔵国(埼玉・東京)大倉館で討ち死にした。義仲は三歳。乳母の夫である中三権守兼遠が義仲を抱いて信濃国(長野県)木曽へ逃れた。市原(長野市)で平家方の笠原頼直を攻めた。

十月十三日 「木曽義仲上野(こうずけ、群馬県)国に入る」
 木曽冠者義仲は亡父義賢の良い足跡を求めて、信濃国から上野(こうずけ、群馬県)国に入った。よって武士等は次第に従うようになってきた。俊綱(足利の太郎)からの妨げがあっても、恐れることはないと命じたという。
 (解説) 上野国は父義賢のゆかりの地だった。上野国で味方を募集した。

十二月二十四日 「木曽義仲上野(こうずけ、群馬県)国より信濃に向かう」
 木曽冠者義仲は、上野(こうずけ、群馬県)の国を去り、信濃(長野県)国に向かった。これは自立の志が有り、さらに上野国の多胡(たこ)庄は、亡父の遺領でもあるので、入部したのであるが、武衛(ぶえい、頼朝)の権威がすでに関東で輝くので、帰国の思いを成し、このようにしたという。

一一八一年(治承五年、養和元年)

八月十三日 「頼朝・義仲追討の宣下」
 藤原秀衡は武衛(源頼朝)を追討せよ。平(城)資永は木曽義仲を追討せよという宣旨(天皇の命令)が下された。これは平氏の指図によるものである。

八月十五日 「平経正、義仲追討に進発す」
 今日、平氏の但馬(たじま)守(平)経正朝臣が木曽冠者(義仲)を追討する為、北陸道へ出陣したという。
 (注) 朝臣(あそん)・・・五位以上の人につける敬称。

八月十六日 「平通盛、義仲追討に北陸道に進発す」
 中宮亮(ちゅうぐうのすけ)通盛(みちもり)朝臣が、木曽冠者を追討する為、また北陸道に向った。
 伊勢守清綱・上総介忠清・館太郎貞保が、東国へ出陣した。武衛(源頼朝)を襲う為である。
 (注) 中宮亮(ちゅうぐうのすけ)・・・御所の事務官庁の次官。

九月三日 「城資永急死す、義仲追討に進発する処」
 越後守(えちごのかみ)資永(城四郎と称す)は勅命に従い、越後国の武士たちを招集し、木曽冠者義仲を攻めようとした処、今朝、急死した。これは天罰を受けたのか。(注) 資永は資職の誤り。

九月四日 「義仲軍の先陣、水津にて平通盛軍と合戦す」
 木曽冠者が平家追討の為北陸道を廻り上洛しようとした。そのとき先陣の根井太郎は越前(福井県北部)国水津(敦賀市杉津)に至り、通盛朝臣の従軍とすでに合戦を始めたという。

一一八二年(寿永元年)

九月十五日 「義仲追討の北陸在陣の平氏軍帰京す」
 木曽冠者義仲主を追討する為、北陸道に出陣した平氏の軍兵等が、ことごとく京都に帰った。すでに寒気が厳しく、在国するのが難儀だと理由をつけたが、真実の処は義仲の武略を怖れたためだという。

十月九日 「義仲、城永用を破る」
 越後の武士で城四郎永用は兄の資元(当国守)の跡を継ぎ、源家を攻撃しようとした。よって今日、木曽冠者義仲が北陸道の武士たちを率いて、信濃国の築磨河(千曲川)の辺で合戦となった。夕方になって、永用は敗走したという。
 (解説) 横田河原の合戦らしい。『玉葉』には「治承五年六月十三日、十四日。城軍一万余騎、信濃源氏等(キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田党一手)三手に分かれ、反撃す」とある。

一一八三年(寿永二年) (一年分欠落)

一一八四年(元暦元年)

一月十日 「義仲が征夷大将軍を兼ねる」
 伊予守(源)義仲は征夷大将軍を兼官したという。およその先例を調べてみると、鎮守府(ちんじゅふ)将軍兼官の宣旨(せんじ、天皇の命令)が下されたのは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の中興(ちゅうこう)以後、一一七六(安元二年)三月の藤原範季に至るまで七十回に達したが、征夷使兼官の宣旨は、わずかに二回である。つまり、桓武天皇(かんむてんのう)の御代(みよ)の七九七年(延暦(えんりゃく)十六年)十一月五日、按察使(あぜち)兼陸奥守(むつのかみ)坂上田村麻呂卿が任命され、朱雀(すざく)院の御代の九四○年(天慶(てんぎょう)三年)正月十八日、参議(さんぎ)右衛門督(うえもんのかみ)藤原忠文朝臣が任命された例はあるが、これ以降、天皇二十二代、二百四十五年にわたり、絶えてこの職に任命された例がなかった処に、今ここに三度目の例が開かれた。世に希な朝恩というのが適当であろう。
 (注)中興(ちゅうこう)・・・いったん衰えた物事を再び盛んにすること。
   征夷(せいい)大将軍・・・平安初期に蝦夷(えみし)征討のため臨時に派遣された
             遠征軍の指揮官。
   鎮守府(ちんじゅふ)将軍・・・蝦夷を鎮撫(ちんぶ)するため陸奥国(むつのくに)
      に置かれた官庁の長官。
   按察使(あぜち)・・・諸国の行政を監察(かんさつ)した官。
   参議(さんぎ)・・・大中納言に次ぐ重職、四位以上から任ぜられた。
   右衛門督(うえもんのかみ)・・・右衛門府(うえもんふ、皇宮警察)の長官。
 (解説) 義仲は征夷大将軍ではなく、征東大将軍に任命されたという説が有力である。参照 『旭将軍木曽義仲軍団崩壊』。 

一月二十日 「範頼・義経が義仲討伐のため上京す」
 蒲冠者(かばのかじゃ)(源)範頼・源九郎義経等が武衛(頼朝)の御使として、数万騎を率いて入京した。これは(源)義仲を追罰する為である。今日、範頼は勢多より、義経は宇治路より入京した。木曽(源義仲)は三郎先生義広・今井四郎兼平以下の武士たちを、勢多・宇治の両道に派遣して防戦させたが、全て敗北した。蒲冠者範頼・源九郎義経は河越太郎重頼・同小太郎重房・佐々木四郎高綱・畠山次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を引率し、六条殿(法皇御所)に急いで参上し、仙洞(せんとう、法皇御所)を警衛し申し上げた。
「義仲戦死す」
 この間、一条次郎忠頼(ただより)以下の勇士は諸方に競走した。遂に近江国(滋賀県)粟津の辺に於いて、相模(神奈川県)国の住人石田次郎により義仲は討たれた。その他の錦織判官(義広)らは逃亡したという。
 征夷大将軍従四位下行伊予守源朝臣義仲(年三十一)、春宮帯刀長(とうぐうたちはきのおさ)義賢の男。寿永二年八月十日、左馬頭兼越後守に任官し、従五位下に叙せられた。同十六日、伊予守に転任した。十二月十日、左馬頭を辞任した。同十三日、従五位上に叙せられた。また同正五位下に叙せられた。元暦元年正月六日、従四位下に叙せられた。十日、征夷大将軍に任ぜられた。
 検非違使右衛門権少尉源朝臣義広、伊賀守(山本)義経の男。寿永二年十二月二十一日、右衛門権少尉(元は無官)に任じられ、検非違使の宣旨を受けた。
 (注)春宮帯刀長(とうぐうたちはきのおさ)・・・東宮(皇太子)の警備隊長

一月二十一日 「樋口兼光が生け捕りとなる」
 源九郎義経主は、義仲の首を獲ったと申し上げた。今日、夜になって、九郎主は木曽義仲の第一の郎党である樋口次郎兼光を搦め取った。兼光は木曽の使者として、石川判官代を攻める為、その頃は河内(かわち)国にいた。しかし石川が逃亡したので、空しく帰京した。その途中、八幡の大渡の付近で、主人の滅亡を聞いたが、それでも入京した処、源九郎の家人が数人馳せ向かい、戦いの後これを生け捕りにしたという。

一月二十三日 「鹿島社禰宜(ねぎ)、義仲追罰の奇瑞(きずい)を鎌倉に注進す」
 常陸(ひたち、茨城県北部)国の鹿島社の神官たちが使者を鎌倉に派遣した。申し言う、「去る十九日、社僧が『当所の神は、義仲並びに平家を追討する為、京都に行かれる。』という夢を見ました。すると同二十日御前八時頃、黒雲が宝殿を覆い、四方が全く暗くなり、御殿は大震動し、鹿や鶏等が多く群集しました。しばらくして黒雲は西方に向かいました。鶏一羽がその雲中に在るのが人の目に見えました。これは前代未聞の奇瑞です」。武衛(頼朝)はこれを聞かれると、すぐ御湯殿から庭に降り、彼の社の方を遙拝なされました。いよいよ尊敬の誠を催すという。同じ時刻に、京・鎌倉では共に雷鳴と地震があったという。

一月二十六日 「義仲らの首を七条河原に梟(きょう)す」
 今朝、検非違使(けびいし)が七条河原で、伊与守義仲および高梨忠直・今井兼平・根井行親らの首を請け取り、獄門の前の樹に懸けた。また囚人の樋口兼光も同じく連行し渡された。上卿(しょうけい)は籐中納言、職事(しきじ)は頭弁(とうのべん)光雅朝臣という。
 (注)上卿(しょうけい)・・・公卿の責任者、
    職事(しきじ)・・・実務担当者。
    頭弁(とうのべん)・・・弁官で蔵人頭(くろうどのとう)を兼ねた人。
    弁官(べんかん)・・・文書事務官。
    蔵人頭(くろうどのとう)・・・蔵人所の次官。

一月二十七日 「義仲誅伐の報が鎌倉に到る」
 午後二時頃、遠江守(安田)義定・蒲冠者範頼・源九郎義経・一条次郎忠頼らの飛脚が鎌倉に到着した。去る二十日に合戦を行い、義仲とその党類を討ち取った事を報告した。三人の使者は皆、招きにより、御所北側の小石敷の場所に参った。詳細を聞かれている処に、景時の飛脚も到着した。景時の飛脚は討ち取った人々や囚人らの名簿を持参していた。景時以外の方々の使者は参上したが、記録は持参していなかった。景時の配慮は全く神妙であると、頼朝は再三感心されたという。

二月一日「範頼が頼朝の勘気を蒙る」
 蒲冠者範頼主は頼朝の御機嫌を損ねたという。これは去年の冬、木曽義仲を征伐するために上洛した時、尾張(おわり、愛知県西部)国の墨俣(すのまた)の渡で先陣を争い、御家人たちと乱闘したためである。その事を今日、お聞きつけになり「朝敵を追討する前に、私の乱闘を起こすなど、まことに穏便ではない」と言われたという。

二月七日「一谷合戦」

二月二十日 「宗盛の返書」 
 去る十五日、本三位中将重衡(しげひら)が、前左衛門尉藤原重国を四国に派遣し、勅命の趣旨を前内府(ないふ、内大臣)宗盛に伝えた。これは先帝(安徳)と三種の宝物を、お帰し申し上げる内容である。これに対する返事が今日京都に到来した。法皇が御覧になられたという。その書状の内容は次の通りである。
・・・
 去年十月、鎮西(九州)を出発した。ようやく京都へ御帰りの途中、閏十月一日、院宣を持っていると称し、源義仲が備中(岡山県西部)国の水島にて、千艘の軍兵を率いて、万乗(ばんじょう)の君(安徳天皇)の御帰りを妨害した。然れども官兵として、凶賊(義仲)等を皆討ち取りました。
 その後、去る四日には入道相国清盛の仏事を行おうとしたが下船出来ず、輪田(わだ)の海辺にいた処、書状が届いた。「和平の相談がある。使者が京都に帰るまでは狼藉をしてはならないという御命令が関東武士に伝えられている。官軍の平氏にも知らせるように」。この命令を守り、官軍の平氏は合戦をする意志が無く、関東武士の攻撃を予想していなかった。関東武士の多くが官軍の平氏を上から下まで討ち取りました。これは一体どういうことですか。
 (解説) 平家軍は官軍として、水島で義仲軍を征伐した。その後、一谷合戦で負けたのは予想外の出来事である。いかなる理由かと質問している。

二月二十一日「尾籐太知宣に信濃中野御牧、紀伊田中・池田両庄を安堵」
 尾籐太知宣と言う者がいる。これまで義仲朝臣に従属した。しかし内々に御意向を伺い、関東に参向した。武衛(ぶえい、頼朝)は今日、直接に詳細を質問された。信濃国の中野御牧、紀伊(和歌山県)国の田中・池田両庄を知行(ちぎょう)したいと申した。
 「何の由緒(ゆいしょ)を以て伝領しているのか」と質問された。知宣が「先祖の秀郷朝臣の時より、代々承け継いできた処、平治の乱の時、左典厩(さてんきゅう、義朝)の御方となったため、牢籠(ろうろう)の身となり所領を奪われたと、義仲に嘆き申した処、田中庄は、去年八月、木曽殿の御下文を頂いた」と申した。そこでその下文を差し出させて御覧になり、知宣の知行は変わりなく認めると命じられたという。
 (解説) 尾籐太知宣は義仲に従属し、義仲の下文を持っていた。

二月二十三日 「季高・宗輔を検非違使庁に下す」
 前右馬助季高・散位(さんに)家輔らが、義仲朝臣に同意した事により逮捕され、検非違使(けびいし、警察兼裁判所)庁に引き渡されたという。
 (注)散位(さんに)・・・位階あるが官職が無い。

三月一日 「頼朝が平氏追討の下文を西国住人に遣わす」
 武衛(頼朝)は御下文を九州九国の住人(在地の武士)たちに送られた。平家を追討せよ、という内容である。およそ諸国の軍兵が召集されたが、九州の国々は平家に味方しており、未だ源氏方に味方していないためである。その御下文は次の通りである。
   下命する 九州九国の住人(在地の武士)らに。
 早く鎌倉殿の御家人として、元通りに所領を安堵するので、各々[彼の国の官兵等]を引率し、平家の賊徒を追討すべし事
 右、九州九国の者達を皆全て引率して、朝敵を追討せよという、院宣(いんぜん)を承り命じる所である。
 そもそも平家が謀叛を起こしたので、去年、追討使として東海道は遠江守(とおとうみのかみ)義定朝臣、北陸道は左馬頭(さまのかみ)義仲朝臣の両人が、鎌倉殿の御代官として、両人上京した処である。ところが義仲朝臣は平家と和議(わぎ)を結び、謀反(むほん)を起こしたことは、意外の次第である。そこで院宣の上、私の処罰を加え、彼の義仲の追討を果たした。しかし平家は四国の辺りに留まり、ともすれば近国の港や船着き場に出没し、人民の物を奪い取り、乱暴は絶えない。今や、陸地からも海上からも、官兵を派遣し、まもなく追討する処である。九州九国の住人(在地の武士)達は、元の通りに所領を安堵するので、皆彼の国の官兵等を引率するように、よく承知せよ。すぐに勲功の賞を賜るよう努めること。以上命令する。
     寿永三年三月一日       前右兵衛佐源頼朝 
 (解説) 左馬頭義仲朝臣は鎌倉殿の代官として上京した。義仲朝臣は平家と和議を結んだので謀反とみなした。頼朝が義仲を追討した理由として、法住寺御所への攻撃や法皇の幽閉を挙げる記述を平家物語や解説書で見かけるが、頼朝の義仲追討の正式な理由として平家と和議を企てた事が頼朝への謀反とされたのである。とにかく頼朝は謀反の名目で義経や範頼など平家追討に貢献(こうけん)した多くの武士を追討した。後の北条氏の業績(ぎょうせき)から推測すれば、北条氏の策略(さくりゃく)の可能性が高い。

四月十日 「頼朝が義仲追討の賞により正四位下に叙せらる」
 源九郎(義経)の使者が京都から鎌倉に到着した。先月二十七日に除目(じもく)が有り、武衛(ぶえい、頼朝)が正(しょう)四位下(げ)に叙せられた事を申し上げた。これは義仲追討の賞である。その聞書(ききがき)を持参した。
 この事は、藤原秀郷朝臣が天慶(てんぎょう)三年三月九日に六位から従(じゅ)四位下に昇った先例に准ずる。武衛(頼朝)の本の御位は従五位下であった。

四月二十一日 「頼朝が志水義高を誅せんと謀る」
 去る夜より、殿中が少々物騒しかった。これは志水冠者(義高)は武衛(頼朝)の御聟(むこ)であるが、亡父(義仲)は、すでに天皇の咎めを受け討たれた。その子として、その遺恨は尤もはかり難きにより討つのが適当であると内々に決定なされた。この趣旨を特に親しい側近の武士等に命じられた。女房等は、この事を聞き付け内密に姫公御方(大姫)に報告した。
「義高、殿中より脱出す」
 よって今朝、志水冠者は計略を廻らし女房の姿を装い、姫君御方の女房が義高を囲み御所を出て逃げ去った。この時、他所に馬を隠し置き乗馬した。人に聞かれないように綿で蹄(ひづめ)を包むという。しかるに海野小太郎幸氏は、志水と同年であり、日夜、身近に仕え、片時も離れ無かった。そこで今日は義高と入れ替わり、彼の寝床に入り、寝間着の下に寝て、髪の毛を束ねた部分だけを出していた。日が昇り、志水義高の普段の居所に出て、普段と変わらぬように独り双六(すごろく)を打っていた。志水は双六の勝負を好み、朝夕これで遊び、幸氏は必ずその相手をしていた。そのため殿中の男女は、昼間も在宅と思っていた処、夜になり事が露見した。武衛(頼朝)は大変怒り、すぐ幸氏を拘束した。また堀籐次親家以下の武士を方々の道路に分けて派遣し、討ち取る事を命じたという。姫公はうろたえて大変落胆したという。
 
四月二十六日 「志水の冠者義高を誅する」
 堀籐次親家の郎従の籐内光澄が帰参した。入間河原で志水の冠者を討ち取ったと報告した。この事は内密にしていたが、姫公はこれを聞き付け、お嘆きのあまり、飲食を断たれた。運命と謂うべし。御台所(政子)また彼の御心中を察し御哀傷は特に大きかった。そのような間、殿中の多くの男女も歎いたという。

五月一日 「故志水の冠者義高の伴類等、叛逆のとの事風聞」
 故志水の冠者義高の仲間たちが、甲斐・信濃等の国に隠れ、謀反を起こそうと企てているとの風聞があり、軍兵を派遣し征伐するように指図が有った。足利冠者義兼・小笠原次郎長清は御家人らを連れて、甲斐国に出陣せよ。また小山・宇都宮・比企・河越・豊島・足立・吾妻・小林の者たちは、信濃国に向い、彼の凶徒を探索せよと命じられたという。この外、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人たちも、同じく催促し、今月十日に出陣せよと、和田義盛・比企能員等に命じられたという。

五月二日 「志水の冠者誅殺の事に依って、諸国の御家人馳参」
 志水冠者を討ち取り事件により、諸国の御家人が群を成すように馳せ参じたという。

五月十五日 「波多野・大井ら志田義弘を誅す」
 午後四時頃、伊勢(三重県)の国の飛脚が到着して申し上げた。「去る四日、波多野三郎・大井兵衛次郎實春・山内瀧口三郎、並びに大内右衛門尉惟義の家人たちが、当国の羽取山に於いて、志田三郎先生(せんじょう)義広と合戦した。殆ど一日中、勝敗を争った。そして遂に義広の首を獲りました」と。この義広は、以前から反逆の志を抱いており、去年、軍勢を率いて、鎌倉に攻め寄せようとした時、小山四郎朝政がこれを防いだので、事成らず逃亡し義仲に従属した。義仲の滅亡後また逃亡した。その後の生死は不明だった。武衛(ぶえい、頼朝)の御憤(いきどお)りは未(いま)だおさまらなかった処、この知らせが有り、大変お喜びになられた。

六月四日 「石河義資が関東に参着す」
 石河兵衛判官代義資が関東に参着した。朝夕お仕え致しますと申した。この義資は、去る養和元年、平家に生け捕りにされた河内源氏の随一の者である。近年は、また義仲に襲われ、計略を失うという。しかし武衛(頼朝)が取り持ち、罪を許された。去る三月二日、右兵衛尉は元通りに宣下されたという。

六月二十七日 「堀籐次親家の郎従梟首せらる。志水の冠者を討つが故なり」
 堀籐次親家の郎従が梟首(きょうしゅ)された。これは御台所(政子)の御憤りによるものである。去る四月、御使として志水冠者を討つが故である。その事以後、姫公は御哀傷のあまり、すでに病床に伏され、日を追って憔悴(しょうすい)されていた。諸人驚き騒がぬ者は無かった。志水の討ち取りの事により、この御病氣となった。偏に彼の男の不始末から起こった。たとえ命令を受けても、内々に詳細を姫公の御方に知らせなかったのか、御台所が強く憤り申されたので、武衛(頼朝)は遁れることが出来ず。還って斬罪に処されたという。

十一月二十三日 「園城寺が没官領の寄進を請う」
 園城寺(三井寺)の専当(事務担当)の法師が関東に到着した。衆徒の回状を持参して来た。武衛(頼朝)はすぐに御前に呼び出し、因幡守(中原)広元に命じて、この回状を読ませた。
・・・
 しかるに去年の七月二十五日、北陸道の武将(義仲)が京に入り、六波羅の凶徒は永く退散した。世の中は皆これを喜んだ。ましてや三井寺ではなおさらです。天はこれを感じており、ましてや吾が寺ではなおさらです。ところが義仲の所行は、すでに先の平家に過ぎ、禅定法皇(後白河法皇)の御所を焼き落とし、天台両門(延暦寺・園城寺)の貫首を殺害した。事態は尋常ではなく、例の無い非常事態に在ります。誰の力命でこれを伏すか。ただ大菩薩の加護を仰ぐのみです。何人がこれを征伐出来ようか。専ら当将軍(頼朝)の出陣を待つのみです。そもそも貴下は、何代にもわたる勲功を重ねた家に生まれ、万民が頼りにする器量となられた。遂に平家追討の思いを京の周辺に廻らされ、たちまち勝ちを上都に決するの内、すぐ当寺の領に於いて自から義仲の首を獲られたので、今各々安堵の思いを成し、下宿の計を企つのが当然であるが、末寺の庄園に対する武士の妨げは静まりません。・・・
 (解説) 義仲は天台座主を殺害した。頼朝は義仲の首を獲った。

十二月二十五日 「鹿島社神主を召し祈祷の功を賞す」
 鹿島社神主の中臣親広・親盛らがお招きにより参上した。今日、御所に参り金銀の給与物を頂いた。さらに鹿島社に寄進された土地は、永く地頭の非道を停止し、すべて神主が管領するように命じられた。これは日頃から御願書を捧げ、真心からの祈りを人一倍はげむ処、去る春の頃、おごそかな神変が現われた後、義仲朝臣を討ち取り、平内府(宗盛)もまた一谷の城郭を出て、敗北し四国に向かった。いよいよ御信心を起こされ、よって、今このような次第となったという。
 (解説) 鹿島社への信心により義仲や平家を討ち取ったという。

一一八五年(文治元年)

一月六日 「西海向け兵糧米の輸送を命ず」「頼朝が範頼に消息(手紙)を送る」
 平家を追討するために西海にいる東国の武士たちが、船も無く兵糧も絶えて、合戦をする手段を失うとの情報が入り、かねてから、指図をしていた。船を用意し兵粮米を送るように東国の諸国に命令を下し、その事を西海に伝えようとしていた処、去年九月二日に出京して西海に向かった参河守範頼が、去年十一月十四日に出発させた飛脚が、今日到着した。兵粮が欠乏しているため、武士達の心が一致せず。各々本国を恋しく思い、過半の者が逃げ帰りたいと思うという。
 木曽義仲は比叡山の宮(明雲)、鳥羽の四宮(円恵法親王)を討ちたてまつり、運がつきて滅んだのである。
  重ねて命ずる。
 御下文一枚を送る。国の者共に見せられたい。人を惑わす法師は用いないように。あなかしこ、あなかしこ。甲斐の武士たちの中で、いざわ殿(伊沢信光)・かがみ殿(加々美長清)は特に大事に扱かわれたい。かがみ太郎殿(秋山光朝)は、次郎殿(長清)の兄ではあるが、平家方に付き、又木曽(義仲)方にも付くなど、良からぬ心で仕えている人なので、所領など与えるような人ではない。ただ次郎殿を大事にして、大切に扱うように。
 (解説) 当時の遠征軍には、現代の軍隊のような補給部隊が無かった。西国では兵糧米の現地調達も困難な状況となり、関東から船で食糧などを送る事になった。甲斐国の武士も頼朝の信頼のある者と信用出来ない者に別れた。

二月「屋島合戦」

三月三日 「義仲の妹の権門公領押妨を停める」
 左馬頭義仲朝臣の妹公(宮菊)がいる。これは先日、武衛(頼朝)の御台所(政子)の御猶子(ゆうし、養子)となっていた。美濃(みの、岐阜県南部)国に一村を与えられて在国していたが、上洛し、御息女としての威を借りて在京していた。ところが不良な者たちが多く付き従い、昔の破棄された古文書を捧げて、不知行になっている諸所をその姫公に寄附した後、またその使節と称して、権門の庄園や公領などで横領を働いた。この事は、当時の人々が嘆く処である。既に遠い関東にも伝わってきたので、この女性は物狂い女房と称し、その横領を停止させ、付き従う者たちを捕えてその身を進めるように、今日、近藤七国平、並びに在京・畿内(きない)の御家人らに命令を伝えた。但し源氏の御一族の中で、不良な者たちと関係を持つのは、世間の非難を恥と思われて、御書面には物狂いであると記したが、内密には哀れみの御志があり、関東に参向するように、内々に忠告されたという。
 (解説) 義仲には京都に宮菊という妹がいた。

三月二十四日 「壇ノ浦合戦、安徳帝海底に没す」

四月十五日 「頼朝、内挙なき御家人の任官を禁ず」「東士任官者の批評」
 関東の御家人が、(頼朝の)内々の推挙を受けることなく、功績もないのに、多くの者が衛府(えふ、皇宮警察)・所司(しょし、官庁の役人)等の官職に任官している。それぞれ特にけしからぬ事であると、御下文を彼らに遣わされた。彼らの名前を一枚の紙に記し、面々にその良くない事を書き加えられたという。
 命令する。東国の侍の内で任官した者たちに。
 本国に戻ることを停止し、各々在京して守衛の公務を勤めるように。
・・・
 兵衛尉(ひょうえのじょう)義兼「鎌倉殿(頼朝)は悪い主で、木曽(義仲)は良い主だ」と言い、義仲に仕えようとした。
 渋谷(重助)馬允(うまのじょう)「平家に従い、義仲に従い、・・・」
 馬允有経「木曽殿が御勘当になった・・・」  
 (解説) 頼朝の推薦も無しに勝手に官職を受けた二十人余の者を非難した有名な文書である。二十余人の内三人が義仲に追従した事がある。

五月一日 「頼朝が義仲の妹に美濃(岐阜県南部)国遠山庄を与える」
 故伊予守義仲朝臣の妹公(字は宮菊)が京都より参上した。これは武衛(頼朝)が招かれたためである。御台所(政子)は特に憐れみなされた。先日、所々の土地を横領しているとの事は、不良な者たちが自分の名を勝手に使って行う事で、全く詳細を知らないと陳謝したという。予州(義仲)は朝敵として、討伐されたが、何の過失の無い女性を、どうして憐れまないことがあろうか。よって美濃(岐阜県南部)国の遠山庄の内一村を与える処である。

五月三日 「頼朝が義仲の妹に扶持を加える」
 木曽(義仲)の妹公(宮菊)に、御援助を加えられた。御援助なさるようにとの趣旨を小諸太郎光兼以下の信濃国の御家人たちに命じられたという。これは信州が木曽(義仲)の分国のような存在であり、その住人は皆彼の恩を受けていたからであるという。

五月九日 「渋谷重助の任官は内挙なきため召名(めしな)を除かれる」
 渋谷五郎重助が関東(頼朝)の御推挙を受けないで任官した事、任官を取り消すように再び指図があった。これは父の重国は石橋合戦の時、武衛(頼朝)を射立て申したが、特別な許しにより招き仕われるの処、重助は猶も平家に属して、度々の招きに違反してきた。そして平家が都落ちした日、京都に留まり義仲朝臣に従った。義仲が滅亡の後は、廷尉(義経)の第一の家来となった。

五月二十四日「義経が腰越えより詫び状を送る」 
 源廷尉(義経)は思い通りに朝敵(平家、義仲)を平らげ、さらに前内府(平宗盛)を連れて(鎌倉へ)参上した。その恩賞は疑い無しと思っていた処、日頃から不義を働いているとの噂が有り、たちまちご機嫌を失い、鎌倉中に入る事を許されず、腰越駅でいたずらに日を送っていた。
「腰越状」
 平家の一族追討の為、上洛しました。最初に木曽義仲を討ち取りの後、平氏を攻め
・・・

十一月二日 「義経が海路逃亡のため友実に船を求めしむ」
 予州(義経)が西国に行こうとして、乗船の準備をするために、先ず大夫判官(斎藤)友實を派遣した。
「友実、旧家人庄四郎を誅す」
 この友實は越前国の齋藤の一族である。童のころは仁和寺宮(守覚法親王)に仕えた。元服してからは平家に属していた。その後(平家に)背き木曽(義仲)に従った。木曽義仲が追討された頃、義経の家人となった。

十一月二十八日 「兵粮米(段別五升)を課す」
  諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜、北條殿が籐中納言経房卿に謁し申すと。

一一八七年(文治三年)

十一月二十五日「但馬住人山口家任の本領を安堵せしむ」
 但馬(たじま)国の住人で山口太郎家任と言う者がいる。弓馬の名手で勇敢な武士である。しかし木曽左馬頭(さまのかみ、源義仲)に属して近仕の随一だった。義仲が討たれた後は予州(義経)の家にいた。予州(義経)が逃亡したとき、同じく所々に横行していたので、北条殿(時政)が生け捕り、招き進ませる所である。よって両人(義仲・義経)に仕えた事情を尋ね問われた。
 (解説) 山口家任は義仲に従ったことがある。

一一八九年(文治五年)

十二月二十三日 「義経・義仲・秀衡の子ら鎌倉に出陣すとの風説」
 奥州からの飛脚が、昨夜、参上し申した。「予州(義経)ならびに木曽左典厩(義仲)の子息、秀衡入道の息子などという者がおり、それぞれ心を合せ協力し、鎌倉に向けて出陣しようとしているとの噂が盛んにされている」。
 (解説) 義仲の子息と称する者たちがいるという。

一一九十年(建久元年)

一月六日 「泰衡の臣の大河兼任が反乱を起こす」
 奥州の故泰衡の郎従で大河次郎兼任以下の者が、去年の十二月より謀反を企て、あるいは伊予守義経と称して出羽国の海辺庄に現れ、あるいは左馬頭義仲の嫡男朝日冠者(志水義高)と称して同国山北郡で挙兵した。・・・
 (解説) 義仲の嫡男と称して挙兵したという。

六月二十九日「役夫工米の対捍につき請文を進ず」「頼朝の請文」
 諸国の地頭らが伊勢太神宮の造営の役夫工米の事について、多く納入を拒んでいるとの情報があり、造宮使が頻りに詳細を申すので、重ねて命じられた。
・・・
 義仲は東山道の軍勢として、義定は東海道の軍勢として入洛した時、遠江国には法皇が義定を任命されました。したがって頼朝が与えたものではありません。
 (解説) 義仲は頼朝軍の東山道の手先として上京したとされている。

一一九一年(建久二年)

五月三日 「定綱乱行の件、頼朝の奏状」
 法皇に申し上げる文書を高三位(泰経卿)に送る事になった。善信が草案を作成し、俊兼が清書した。
 そもそも頼朝は、天台宗の為、法相宗の為にも、忠節は有っても、全く疎略にする思いはありません。それというのも、義仲が謀反を起こした時、天台座主明雲を殺害したので、ほどなく義仲を追討しました。・・・
 義仲に貫首の明雲を殺害された時、何故、蜂起し敵対しなかったのか。その勝劣と謂うは、貫首と宮主と如何。義仲のように信仰心のない者に山門は訴えを出さず。頼朝のように崇敬している者には訴えを出した。
 (解説) 佐々木定綱と延暦寺の間で争いで死傷者が出た。頼朝が弁明文を法皇に差し上げた。その文書中に「義仲が謀反の時、天台座主明雲を殺害したのに抗議しなかった。今回は宮主の死傷者なのに抗議するのは合点がいかない」と抗議している。

十月一日 「奥州・越後の駿牛を召し進ず」
 佐々木盛綱らの指図により、奥州・越後から駿牛十五頭を招きられた。頼朝がご覧になった。
 これは法住寺殿が、義仲の叛逆の時に悪徒が乱入し、また文治元年の地震により全て倒れ傾いたため、関東の御指図で修理を加えられた。その牛屋に送るためである。しかし、この牛は適当でないとなり、結局、牛の替りに御馬とする事になった。
 (解説) 法住寺合戦の時、法住寺を焼き払ったという解説を見かけるが『玉葉』『吉記』『吾妻鑑』のいずれにも、法住寺焼失の記述は無い。

一一九二年(建久三年)

六月十三日 「頼朝、永福寺造営工事を見る」「皆河権六郎が厚免(赦免)せらる」
 頼朝が新造の永福寺の地に出かけられた。畠山次郎重忠・佐貫四郎大夫・城四郎長茂・工藤小次郎・下河邊四郎らが梁や棟を引いた。その力は力士数十人が筋力を尽くすような力仕事などを、それぞれ一度に果たした。見ている人の目を驚かし、頼朝も感心された。およそ地ならしといい、造営といい、北条義時以下が自らの手で執りおこなった。そこに土を夏毛の行騰(むかばき)に入れて運ぶ者がいた。その名を尋ねた処、景時が申し上げた。囚人の皆河権六太郎です。その功に感心され、すぐ赦免された。これは木曽義仲の随一の者であり、義仲が誅殺された後に囚人として梶原に預けられていたという。
 (解説) 皆河権六郎は木曽義仲随一の者。囚人として梶原に預けられていた。

七月二十日 「頼朝征夷大将軍に任ぜらる」
 一条能保の飛脚が到着した。「去る十二日に征夷大将軍に任じられました。その除書は、勅使を定めて進められます」と申し送られたという。

七月二十六日 「勅使征夷大将軍の除書を持参す」
 勅使として庁官の肥後介中原景良・同康定が到着した。征夷大将軍の除書(じしょ)を持参した。各々衣冠を着用した両人は、先例に従って鶴岡八幡宮の境内に列び立ち、使者を通じて除書を進上すると申した。・・・除書は次の通り。
・・・
   征夷使
     大将軍源頼朝

 将軍の事を、以前から心にかけておられたが、今まで望みを達するには至らなかった。しかし法皇崩御の後、朝政の最初に、特に指図が有って任ぜられたもので、特別に勅使を派遣されたという。
 (解説) この文により、頼朝が「征夷大将軍」を望んでいたが後白河法皇の反対で実現せず、法皇の死去により実現したとの通説が広まった。実際には「大将軍」の肩書が欲しかった。以前、上京したとき、右近衛大将(うこのえたいしょう)に任命されたが、辞退して鎌倉へ帰り、「前大将(さきの大将)」と名乗っていた。
 参照 「旭将軍・木曽義仲・軍団崩壊」)

一一九四年(建久五年)

七月二十九日「将軍家(源頼朝)の姫君(大姫)夜より御病気」
 将軍家の姫君(大姫)が夜から御病気となった。これはいつもの事であるとはいえ、今日は特に非常に重い症状である。志水殿が亡くなられた後、御悲しみのあまり、日を追ってやせ衰えている。固い契りに堪えず、まるで石となるように物思いに沈む様子である。貞女の行いであると人々は讃えた。

閏八月八日 「志水の冠者義高の追福の供養」
 御台所の御佛事が結願した。今日、志水冠者(義高)の追福の為、佛・経の副供養があった。佛・経を讃歎した後に、幽霊(義高)の生前の事などを話し合った。聴衆は皆随喜し、鳴咽して悲涙を拭ったという。

一一九五年(建久六年)

十月十三日 「義仲の右筆の覚明が箱根に住む」
 故木曽左馬頭義仲朝臣の右筆(書記)に大夫房覺明という者がいた。もとは南都(奈良)の学侶であった。義仲朝臣が討たれた後、昔の名にもどり信救得業を称した。今は箱根山に住んでいる、と頼朝が聞きなされ、山中の外へは鎌倉中や近国にも出してはならないとの書状を、今日、別当(行実)のもとに遣わされたという。

一二○二年(建仁二年)

六月二十六日 「政子、昨日の知康の言動を怒る」
 尼御台所(政子)が(頼家の御所から)帰られた。「昨日の出来事は、興趣のあるようであったが、知康が思い上がりの状態で、大変けしからぬ事である。伊予守義仲が法住寺殿を襲い合戦したので、卿相・雲客は恥辱を受けたが、その原因元は知康の悪心より起こったものである。また知康は義経朝臣に同意し、関東を亡ぼそうとしたので、先人(頼朝)は特にお怒りになり、官職を免じて追放されるよう、奏上されていた。しかし今、頼家は知康の前科を忘れ側近となるのを許し、故人(頼朝)の御本意に背いている」と、御怒りになったという。
 (注) 興趣(きょうしゅ)・・・味わいの深いおもしろみ。

「解説」義仲について、平家物語とは異なる記述もあるが、約百年後に編集されたもので、義仲が活躍した寿永二年の部分が欠けているのは残念である。


二・三 『吉記』に見る義仲の実像

 『吉記』は御所の書記官、参議、後に大納言となった吉田経房の日記である。欠落が多い。義仲が入京した年の寿永二年八月から十月分、寿永三年一月から三月分は無い。『延』『源』によると「義仲は見眼形清気にて」などとあるが、『吉記』著者の吉田経房は義仲が後白河法皇に謁見する場面に居て見ていた。ただし外見の服装などの記述は詳しく 「錦の直垂を着し、黒革威・・・」と外観の記述はあるが容貌については「年三十余、容貌は三十才くらい」のみである。以下に義仲が登場したり、関係する場面のみ記述する。

一一八一年 (治承五年、七月十四日改元 養和元年)

六月二十七日 「城資職信濃国を攻め落とすとの風聞」
 風聞に言う。越後(新潟県)国の武士・(平)資職(城太郎資永の弟、資永は昨年春に死去)が、信濃(長野県)国に寄せ攻め、すでに落ちたという。

八月十五日 「藤原秀衡陸奥守」
 朝間、前の大将(平宗盛)より教え送られる事有り。(藤原)秀衡・(平)助職等の事である。相次いで院宣(法皇の命令)が到来した。詳細は前と同じである。。
「除書(任命式)」
   太政官(だいじょうかん)謹奏、
    陸奥(むつ)国守(かみ)従五位下(じゅごいげ)藤原朝臣(あそん)秀衡
    越前(えちぜん)国守従五位下平朝臣親房
    越後(えちご)国守従五位下平朝臣助職
       養和元年八月十五日
 親房は、基親の息子で前の近江の守である。秀衡・助職の事を人々はおおいに嘆いた。
「北陸道追討使平経正進発」
 今朝、北陸道追討使・但馬(たじま、兵庫県)の守(平)経正朝臣が出陣した。郎従(家来)を五百騎ばかりを引率したという。
 (注) 除書(じしょ)・・・国司などの任命式、その文書。
   太政官(だいじょうかん)・・・最高行政機関。
   陸奥(むつ)・・・青森・岩手・宮城・福島・秋田県の一部。
   越前(えちぜん)・・・福井県北部。
   越後(えちご)・・・新潟県。

八月十六日 「北陸道追討使平通盛進発」
 今朝、中宮亮(すけ、次官)(平)通盛朝臣が北陸道の追討使として出陣した。
駒牽(こまひき)の行事は無しという。信濃国の反乱軍により領地を横領されたためである。
 (注) 駒牽(こまひき)・・・甲斐、武蔵、信濃、上野の牧場から進める馬を天皇がご覧になる儀式。

九月一日 陰晴不定 「北陸道合戦の風聞あり」
 ある者が言う。「(平)通盛朝臣は越前(福井県東部)の国府の庁舎にいる。しかるに先月の二十三日、反乱軍が国中に乱入し、大野・坂北両郷を焼き払った。加賀(石川県南部)の国の武士等の仕業である。今朝、勝敗が決まった。なお官軍を増援するようにと飛脚を差し申し上げた」という。近日、連々の風聞はこのような事である。

九月九日 「越前合戦に於いて官軍敗れる」
 夜に入り、出納(中原)国貞が報告を送ってきた。「越前の合戦はすでに終わった。官軍は敗れ、中宮亮(すけ、次官)平通盛は敦賀(つるが、福井県中南部)に退却した。今日、飛脚が到来した」という。かれこれと言う事は出来ない事か。

九月十日  「越前合戦の実説を聞く」
 越前合戦の事は実説という。去る六日、兵衛尉平清家が大将軍とし、官軍を派遣し加賀(石川県南部)の境で、合戦する処、当国の武士の新介実澄、従前従儀師最明(検非違使・藤原友実の弟)等は、初め官軍と為し出発したが、たちまち反乱軍に同意し、後ろより攻め入るとの事、通盛朝臣の郎従は主要な者八十余人が打ち出された。
 戦いに敗れた時、通盛朝臣は猶国府にいた。無勢により、重ねて攻め寄せる事は出来ない。敦賀(福井県南部)へ退却したという。詳細の実説を猶記録しなければならない。官軍が敗れた事件は、天変の符合か。朝廷の大事、何事この如しか。但し世間ごうごうか。

十一月二十日 天晴 「北陸道追討使平通盛帰京」
 北陸道の追討使、中宮の亮(平)通盛朝臣は、空しく帰京したという。

一一八二年 (養和二年、五月二十七日改元 寿永元年 )
 
二月二十二日 天晴 「人食童の風聞」
 伝聞、五条河原のあたりで、三十歳ばかりの者が死人を食うという。人が人を食う。飢饉の至極か。定説を知らずといえども、珍事であるにより、強いてこれを記録した。後聞、或る説に、その事実無しという。

二月二十五日 雨降る 「北陸道追討使」
 平中納言(頼盛)が伝えてきた。「菊池高直はすでに落ちた」。城中は大火で焼死の事が風聞した。後聞、すでにこれ無実だった。蔵人少輔が知らせを送ってきた、「新平中納言(知盛)は北陸道へ下向するだろう。追討使である」という。

三月十七日  「兵粮米徴収を検非違使庁の使に託す」
 近日、諸国の庄園に重ねて「兵粮米」の苛責が有る。検非違使庁の検非違使が付けらるようにとの事、院宣(法皇の命令)を下された。行隆朝臣が指図した。上下の人々は恐れで顔色が青ざめる事か。
 
三月十九日 天晴 「道路に死骸充満」
 道路に死骸が充満するの外、他事無し。嘆かわしき世である。

三月二十一日 天晴 「北陸・九州戦況の風聞あり」
 風聞あり。筑後(福岡県)の前吏(源)重貞が飛脚を上げた。反乱軍の源氏等は、すでに越前の国に向かったという。肥後(ひご、熊本県)の飛脚が到来した。「菊池は未だ落とされない。(平)貞能はすでに管国し公私物を没収するの外、他の営みは無いようだ」という。訴える所は無いと言うか。

三月二十五日 陰晴不定 「強盗・火事連日連夜、死骸道路に充満」
 今夜、押小路高倉で火事が有った。近日強盗・火事は連日連夜の事である。天下の運すでに尽きるか。死骸が道路に充満する。嘆かわしい嘆かわしい。

三月二十六日 「兵糧米の沙汰」
 行隆朝臣がお伝え申す命令は兵糧米の指図である。万民の愁い、全国の疲弊(ひへい)、只この事に在るか。

三月三十日 天晴 「追討使の平貞能は肥後国の国務(土地)を横領す」
 肥後(ひご、熊本県)国の目代(国司の代理)久兼の飛脚が来た。「追討使の貞能は、すでに国務を押し取り、目代を追い出した」という。いまどきの方法、驚くのが当然でもないか。

九月二十日 「近江国の飛脚が到来」
 盛職が江州(滋賀県)より飛脚を上げて報告した。「北陸の反乱軍は、すでに江州(滋賀県)を侵略しようとしている。若州(若狭、福井県)は平穏ではない」という。

一一八三年(寿永二年)

六月六日 朝雨下る 「建礼門院に参り平宗盛に謁(えつ)す」
 午後二時頃に建礼門院(けんれいもんいん、平徳子)を訪ねた。北陸の事は驚きとの事を前の内府方(平宗盛)に伝えた。朝廷の大事だからである。「延暦寺で千僧(せんそう)の御読経(どきょう)を行わるのが当然である。その行事を執行(しっこう)するように」と左中弁(さちゅうべん)の藤原兼光が語った。
「追討に就き人々に諮問する」
 左大臣の藤原経宗が昨夕に参られ、「今日、追討使の事、人々に御指図あるだろう。書き進める」と申された。右大臣の兼実(かねざね)は病気と申された。よって大蔵卿の高階泰経(たかしなやすつね)が彼の亭に参向した。内大臣の藤原実定は今日参られる。堀河大納言(藤原忠親(ただちか)は病気と申された。梅小路中納言(藤原長方)は今日参上される。広く意見を聞くようにと先ず議論したが、止められるという。
「敗軍が入洛」
 敗軍(平家)等が今日多く入京したという。

六月十二日 天晴「近江の国庄々の兵士を催さる」
 風聞に言う、近江(滋賀県)国の野・海・山を守護する為、当国の荘園の兵士を招集される。蔵人の次官の定長がこの実務を執行したという。
「法皇御所北面に東海道下向を命ず等の風聞あり」
 また北面(法皇御所の北面で、警備の武士)に仕える武士は、強弱を問わず、東海道に下し派遣するのが当然である。一人も漏れ無きように指図が有るという。叉前内府(宗盛)の家来の五位以上は文官も武官も招集した。また肥後(ひご、熊本県)守の平貞能(たいらのさだよし)は数万の兵を率い、すでに都賀辺に着いたという。

六月十三日 陰晴不定 「源氏が近江に打ち入る」
 源氏等すでに江州(近江、滋賀県)に進入した。筑後(ちくご、福岡県南部)の前司源重貞(みなもとのしげさだ)は単騎で逃げ上るという。

六月十八日 曇り雨降らず 「肥後(ひご、熊本県)の守貞能が今日入京す」
 肥後(ひご、熊本県)の守貞能が今日入京した。軍兵は、わずかに千余騎という。日頃は数万騎以上だと風聞していた。京中の人々はすこぶる不安になり、顔色が青ざめたという。

六月二十一日 去夜より雨降り 「賊徒の事により山稜使を立てらる」
 関東・北陸の反乱軍の事により、山稜使(さんりょうし)を立てられた。上卿(しょうけい)は平大納言(時)、行事は右少弁兼忠。柏原(桓武)、新中納言(頼實)。円宗寺(後三条院)、源宰相中将(通親)。成菩提院(白川院)・安楽寿院(鳥羽院)、藤三位(雅長)。清閑寺(高倉院)、右中弁(親宗)等である。先ず日時・使等を定められた。
(注)山陵使(さんりょうし)・・・山陵(みささぎ、天皇・皇后などの墓所)に告げる使い。

六月二十九日 日中降雨「藤原忠親亭を訪ね公事世事を談ず」
 例の事である。夕方になり堀川大納言の中山亭に参り、公事を談じ、近日の世間の事を申し合わせるためである。
「京中物騒の事」
 世間の口やかましい様は驚かない。京中の上下の人々が東走西馳(とうそうせいち)し、荷物を馬に負い、車に積み運ぶ。
「静巖が比叡山の動向を伝う」
 比叡山の僧の静巖が只今下京し文書を送り言う、「日頃、江州に入る源氏は末々の者である。木曽の冠者(源義仲)はすでに入りました。武芸にすぐれた僧は皆源氏に賛同した。これは比叡山の根本中堂(こんぽんちゅうどう)の衆徒(しゅと、僧兵)等である。今より前に、北陸道より帰山した。但し比叡山の衆徒(僧兵)は相談して、源平両氏は和平するのがよろしいという。僧綱(そうごう)・已講(いこう)を通じて奏聞(そうもん)しようとした。この事は、もし法皇の許可が無ければ、一山は源氏に賛同するだろう」という。その時もし猶入京の事有るかという。この事は尤も可であるという。
 (注) 僧綱(そうごう)・已講(いこう)・・・僧侶の官位・官職。
    奏聞(そうもん)・・・天子に申し上げること。

七月二十一日  「平資盛等が近江に出陣す」
 今日、新三位中将資盛(すけもり、重盛の次男)卿と弟の備中(びっちゅう、岡山県西部)守(かみ)師盛(もろもり、重盛の子)、並びに筑前(ちくぜん、福岡県北西部)守定俊等の家来を従え、十二時ころ出陣した。資盛卿の家来が宣旨を首に懸け、肥後(ひご、熊本県)守(平)貞能を連れていた。都合三千騎である。後白河法皇は内密に御見物されました。宇治路を経て江州に向かった。資盛は水干(すいかん)小袴(こばかま)を着け、弓矢を身に着けるという。
 (解説) 都合三千余騎。同日の『玉』には千八十騎とされる。

七月二十二日 「源氏は比叡山に登るとの風聞あり」
 風聞、源氏等は、すでに東坂本に着き、連れて来た味方の大衆(僧兵)等は、すでに比叡山に登るという。明け方より更に風聞した。比叡山に住む僧綱等は逃げ下るという。
「法皇御所の北面武士は甲冑を相具し祇候(しこう)」
 前内府(宗盛)の申し上げによる御命令により、北面(ほくめん)の武士達は甲冑(かっちゅう)を装着し小袴(こばかま)を着て、近くに控え待機した。
「平知盛・重衡等は勢多に向かう」
 源氏等は東坂並びに比叡山延暦寺の東塔(とうとう)惣持院に上り、陣地を構え居住するという。十二時頃、平中納言(知盛、とももり)・三位中将(重衡、しげひら)等は勢多に向かった。共に甲冑を着け、両人の軍勢は二千騎以上という。
「平頼盛が下向」
 また夜に入り按察(あぜち)大納言頼盛(よりもり)が下向した。今夜、各々山科(やましな)の辺に宿泊するという。

七月二十三日「天台座主の明雲が参院し衆徒の申状を奏す」
 早朝、比叡山座主の明雲は下京し、すぐ法皇御所に参上した。風聞によると僧兵等が申し言う、反乱軍等は、すでに山上に陣地を構えた。合戦になるという。天台の仏法は破滅したと同様か。和平するのが適当であると、御言葉下されるのがよろしいと、座主を通じて後白河法皇に申し上げようという。

七月二十四日「興福寺別当が大和国の動向を摂政(せっしょう、基通)に報告」「行家が狼藉者を処罰」
 「十郎蔵人行家は伊賀(三重県西部)を越え、すでに大和(やまと、奈良県)国の宮河原に着いた」という、興福寺(こうふくじ)の別当(べっとう、長官)、僧正(信円)が殿下(近衛基通)に報告された。「東大寺領で、いささか乱暴な事があった。この事を中綱が知らせた処、下手人の手を切り、乱暴してはならないと答えた」という。
 (解説) 行家が乱暴者を処分したという。

七月二十六日 「所々に狼藉、放火、追捕あり」
 比叡山の僧兵等が京に下った。路地での乱暴は数え切れないほどだ。落ちて行った平家武士の縁故の家と言って放火し、或いは追捕(ついぶ、官軍としての取立て)や物取と言いふらした。人家で一棟完全な所は無くなった。眼前に天下の滅亡を見る。ああ悲しきかな。私の邸宅はこの災難を免れた。ひとえに神様仏様の恩恵である。
 (解説) 平家軍の退却後、無警察となり市民や僧兵の放火・略奪が始まった。

七月二十八日 「京中の狼藉につき議定す」
 京中の神社・仏寺への乱暴、どの様に指図あるのがよいか。・・・
「義仲と行家が参上」
 武将が二人参上した。
 木曽冠者義仲、年は三十才余、故義賢の息子、錦の直垂(ひたたれ)を着用し、黒革威(くろかわおどし)の甲(こう)、石打(いしうち)の矢を負い、折烏帽子(おりえぼし)を冠る。小舎人(ことねり)童(わらわ)取染(とりぞめ)の直垂(ひたたれ)で、帯剣し、また替矢を背負い、油単を履いていた。
 十郎蔵人行家、年は四十才余、故為義の末子、紺の直垂を着用し、宇須部(うすべ)の矢を負い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子(たてえぼし)を冠る。小舎人童上髪、替矢を背負う。両人の部下は相並び七・八人で分別しなかった。
 行家が先ず門外より参入して言った。「御前に呼び出された両人は相並び同時に参るのがよいか」。「そのようにするのがよい」との事を言い付けられたという。
 次いで南門に入り相並び、行家は左に立ち、義仲が右に立って参上した。大夫尉(たゆうのじょう)知康が、これを補佐した。各々、御所の東庭に進み参り、当階隠間に蹲踞(そんきょ)した。長官は公卿の座北簀子(すのこ)の下に居た。砌下(せいか)に進むようにとの事これを言いつけられた。しかし両将は進まず、西面にて蹲踞していた。
「両人に平氏追討を命ず」
 検非違使長官が、法皇の御言葉を伝えた。「前内大臣・平宗盛の一族の追討を進めるように」と。両人は、はいと答えて退出した。
「両人の容貌に驚目す」
 たちまちこの両人の風体を見るに、夢か現実か、万人の注目は、筆で書き尽くす事は難しい。両人の退出の間に、頭弁(とうのべん)が相逢い下知し、命令を言い含めたとの事、これを尋ねるべし。
 (注)直垂(ひたたれ)・・・正面のえりの左と右がわとを垂らし引き違えて合わせる。
   威(おどし)・・・よろいのさね(小板)を糸などでつづること。
   甲(こう)・・・鎧(よろい)。
   石打(いしうち)・・・鷲の尾の両端の羽を矢羽として使用する。
   折烏帽子(おりえぼし)・・・頂を折り伏せた烏帽子(黒い袋形のかぶりもの)。
   童(わらわ)・・・髪を束ねない。
   取染(とりぞめ)・・・所々に細い横筋が出るように染めたもの。
   油単(ゆたん)・・・ひとえの布・紙などに油をひいたもの。
   宇須部箭・・・尾白鷲の尾羽の矢羽根の矢(箭)
   立烏帽子(たてえぼし)・・・中央部の立った烏帽子。
   蹲踞(そんきょ)・・・両膝を折り、うずくまり頭を垂れる敬礼。
   砌下(せいか)・・・切石のある階下の前。
 (解説) 義仲・行家に平家追討の命が下された。

七月三十日 「京中の追捕」
 京中の追捕や物取等が、すでに公卿の家に達した。また松尾社司(神職)等が相防ぐの間、社司等の家に放火した。梅宮社の神殿が追捕された。広隆寺の金堂が追捕されて、度々合戦した。行願寺また追捕されたという。その他の在々所々は書き尽くせない。天下は一時に魔滅する。すでにこの時で在るか。
「時忠に院宣を遣わす」
 成範卿が院宣(法皇の命令)をいただいて、平時忠卿の処に使者を派遣した。また内蜜に貞能の処にも使者を派遣する事等が有るという。
「義仲が京中守護を支配す」
 京中守護、義仲が院宣をいただいて、これを支配した。
源三位入道子息      大内裏(替川に至る)
高田四郎重家・泉次郎重忠  一条北より、西朱雀西より、梅宮に至る。
出羽判官光長       一条北より、東洞院西より、梅宮に至る。
保田三郎義定       一条北より、東洞院東より、会坂に至る。
村上太郎信国       五条北より、河原東より、近江境に至る。
葦数太郎重隆       七条北より、五条南より、河原東より、近江境に至る。
十郎蔵人行家       七条南より、河原東より、大和境に至る。
山本兵衛尉義経      四条南より、九条北より、朱雀西より、丹波境に至る。
甲斐入道成覺       二条南より、四条北より、朱雀西より、丹波境に至る。
仁科次郎盛家       鳥羽四至内。
義仲           九重(皇居)内、並びにこの外所々。
    以上、義仲が支配するという。
 (解説) 義仲が京中守護に任命され、治安回復を命じられた。

(八月から閏十月 欠落)

十一月十八日 天晴れ。「法住寺合戦の前日」
「後鳥羽天皇が内蜜に行幸す」
 今朝、天皇が内蜜に法皇御所に御車で到着された。ここを皇居のようにするという。未だかって無いという。
「北陸宮が法皇御所より行方をくらまし逃げた」
 高倉宮(北陸宮)は日頃、法皇御所に在った。女房を一人か二人お付でした。昨夜行方をくらまし逃げたという。
「上西門院・皇后は双林寺辺に渡る」
 上西門院(鳥羽天皇の皇女)・皇后は内密に他所にお出かけになりました。東山区双林寺の辺という。
「法皇御所中に武士が参入した」
 法皇御所中に武士は多田蔵人大夫行綱以下多く盛んな様か。義仲に連れ従った武士の大略が参入か。
「守覚法親王以下の僧侶が辻を固めた」
 仁和寺宮以下の宮様方、ならびに比叡山の座主明雲、他の僧綱・僧徒、各々武士を連れて辻々をかためた。防雑役車を引き、逆茂木(さかもぎ)を引き、堤を堀、警護の様子は言語で言い尽くせないほどだ。ただひとえにこれは天魔の企みである。
「法皇は義仲に京都退去を命じた」
 昨日、主典代(事務職員)景宗を使いとして義仲の処に御命令を伝えた。「ひとえに公家を脅し奉り、謀反を企むとの事、その聞こえが有る。元の如く追討の為に西海に向かうのは勿論、また頼朝の代官を防ぐ為に東国に向かうのが当然である、その意在るのが当然か。京において・・、早く退出するのが当然なのに、明らかに申し切らない」という。
「義仲は西海へ下向を承諾した」
 今日、西海に向かうのが当然との事を二度申した。解官あるのが当然か否か。また追討されるのが当然かの条・・・。
「頼朝の舎弟が伊勢(三重県)に到着の報告があった」
 頼朝の舎弟(義経・範頼)が伊勢(三重県)神郡に到着の事、飛脚が進まれたという。
 (解説) 法住寺合戦の前日、後鳥羽天皇が内密に法住寺御所においでになり、北陸宮が法皇御所から居なくなった。法皇御所へ義仲に従っていた多くの武士が参入した。守覚法親王以下の僧兵が路地の辻を固めた。法皇が義仲に京都から退去を命じた。義仲は西海へ下向することを承諾した。頼朝の舎弟(義経)が伊勢(三重県)へ到着の報が届いた。

十一月十九日 天晴れ。「法住寺合戦」
 十二時、南方に火が見えた。変だと思いながらこれを見る処、法皇の御所の辺という。再三進入しようとしても、戦場状態により、あえて通行出来ない。馬で馳けようとしても、参入出来ない。南方の空を見ているうちに、夕方になり、縦横の説を信じたり、信じないの処、日暮れになり、法皇の御方は逃げ落ちたという風聞が有った。むせび泣きの外更に他事の覚えが無い。
「法皇御所火災」
 後で聞いた話である。御所の四面に皆全て放火した。その煙はもっぱら御所中に充満し、万人が迷惑した。義仲軍は各所に破り入り、敵対も出来なかった。
「後白河法皇は御所から脱出」
 法皇は御輿に乗り、東方を目指して逃走された。参集の公卿は十余人であった。馬に乗り、或いは腹ばいで、四方に逃走の公卿など貴族以下その数は知れない。女房等の多くは裸形だった。武士の伯耆(ほうき)守光長とその子の検非違使光経以下は合戦した。その外の武士は戦いながらも逃げ去った。
「義仲は法皇に追いつき摂政邸に幽閉す」
 義仲は清隆卿堂の辺で追い付き、甲冑を脱ぎ拝謁した。申し上げる事有り。新御所の辺で御車に乗せた。その時に公卿の修理大夫親信卿などの殿上人四・五人が御供に付いた。摂政の五条亭に到着したという。

十一月二十一日 「義仲が検知」
 今日、伯耆(ほうき、鳥取県中西部)守光長以下の首百余を五条河原で懸けた。人々は見物し、義仲が検知したという。
「藤原師家が摂政となる」
 今夜、権大納言の師家(基房の子)を摂政と為すとの宣下があった。上卿中納言頼実卿が奉行となった。
「天下の諸政は基房の沙汰」
 天下の諸政は基房が指図するという。
 (解説) 基房の子の師家が摂政となり、諸政は基房が指図する事になった。

十一月二十八日 「国尚は書状を以て備前国の合戦を報ず」
 前兵衛尉国尚は備前守行家の従兵として西国に下向した。途中より書状を送って来た。「去る九日、三位中将重衡が大将軍として、三百余騎の軍勢で、備前(びぜん、岡山県南東部)国の東川に押し寄せた処、当国の検非違使所別当の惟資と国武者は共に合戦した。・・・」
「平氏は室泊に着くとの報あり」
 また安芸(あき、広島県西部)志芳庄より、飛脚が到来して言う。「平氏の前陣は室泊の辺に着いた。追討使は前宿に馳せ着く」という。
「解官(官職を解任)」
 中納言藤原朝方・・・、左衛門尉平知康・・・
 (解説) 『平』の「法住寺合戦」に登場する法皇の側近「鼓判官知康」も解官された。

十二月一日 「源義仲は院厩(うまや)別当となる」
 伝聞、院御厩(うまや)の事、義仲が命じられたという。
 (解説) 義仲が法皇御所の軍馬担当の長官になる。院厩(うまや)別当は、院に属する牧を管理し軍馬を統括し、院の御幸に際しては車後に随行して警護を担当する親衛隊長であった。当時の武士にとり左馬頭に並び、名誉な官職であった。左馬頭と院(法皇御所)厩別当を兼務しないという慣例があるので、後に(十日)左馬頭を辞退した。

十二月二日 「義仲は摂関家領の荘園八十五箇所を給わる」
 義仲は摂関家領の荘園八十五所を頂いた。前の摂政御家領は高陽院(藤原泰子)・京極殿(藤原師実)以下すでに多いので、元の長者に付けない。所々、押し籠めの御指図が有ったという。
 
十二月三日 「実清等が義仲に召し籠められて後免ぜらる」
 今日、解官の事あり。
「解官」右馬助源信国、左衛門尉平盛家など。
 (解説) 義仲から離れた右馬助源(村上)信国、左衛門尉平(仁科)盛家なども解官された。

十二月五日 「義仲は法皇より平家領を給わる」
 院庁御下文が到来した。平家から没収した領地を義仲が相領すべしとの事である。加判を与えた。
 (解説) 義仲に法皇より平家から没収した領地が与えられた。

十二月八日 「義仲は法皇の八幡御幸を企図す」
 明後日、八幡に法皇の御出かけあるだろう。これは義仲が申し行う処である。世以て疑う処あるか。言うまい。言うまい。

十二月十日 「頼朝追討の院庁下文を成す」
 頼朝を追討せよとの事、宣旨(天皇の命令)を改め院庁下文(法皇の命令)を成し下されたという。
「臨時除目」辞退 左馬頭源義仲
 義仲の執着により俊堯(しゅんぎょう)を天台座主に任命した。
 (解説) 頼朝追討の院庁下文を作成した。義仲は左馬頭と院厩(うまや)別当を兼務しないという慣例に従がい、左馬頭を辞退した。俊堯僧正は義仲と法皇の仲介を担当した人物である。その功により天台座主(比叡山延暦寺の長官)に任命した。

十二月十五日 「頼朝追討の院庁下文に加署す」
 院庁の御下文が到来した。書状を見ると、鎮守府将軍に任命された藤原秀衡は、早く左馬頭源義仲と相共に陸奥・出羽両国の軍兵を引率し、前兵衛佐頼朝を追討せよという。加判し、お返しいたしました。
 (解説) 頼朝追討の院庁下文に加署(サイン)した。

十二月二十日  天晴 「義仲は誓状を書き比叡山上に」
 風聞、義仲は誓状を書き比叡山上に上げたという。或る者が来て言う、平氏の入京は来る二十二・五・八日の間必然である。各家の出入り口で、休みなく、或る説に義仲と和親した、或いは、そうではないという。

十二月二十三日 「義仲は法皇の西海への臨幸を望む」
 ある人が教え送り言う。「平氏を追討の為、義仲は西海に向かうだろう。法皇が同行なさるだろうという。一昨日この事を申すといえども、御承引は無く、しかし、なお確定の気配が有り」。未だどちらに転ぶかわからない、天下は極まりに至るか。嘆かわしい哀れむべし。
 
 「解説」『吉記』は『玉葉』とならび義仲の実像を知るのに欠かせない史料だが、残念なことに義仲の活躍した寿永二年八月から閏十月、寿永三年一月が欠けている。

二・四 『玉葉』に見る義仲の実像

 『玉葉』は右大臣(名目のみ)九条兼実の日記である。義仲については伝聞のみである。(以下『玉』と略す)
 当時の右大臣(うだいじん)・九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』は信用度が高いとされる。大臣と云えば左大臣、右大臣、内大臣が権力者であり、太政大臣は名誉職である。兼実は若くして右大臣となったが、当時の権力者の後白河法皇(ごしらかわほうおう)や平清盛(たいらのきよもり)とは意見が合わず敬遠されて、殆どの会議に招集されていない。会議に出なくていいから家に居ろということだろう。朝廷の人事や行事は会議に出ていた書記官・大夫史小槻隆職が部下の一人だったので彼から内容を聞いて記録していた。その記述は詳しく正確なようだ。
 しかし、軍事情報は正確な情報が入り難く、やむを得ず伝聞など噂(うわさ)話を集めて記録していたようだ。
 その伝聞については『玉葉』一一八一年(治承(じしょう)五年)三月十七日に「かくの如き浮説(ふせつ)、先々皆以って虚誕(きょたん)である。然れども後日真偽(しんぎ)を存知せんため聞き付けるに随(したが)いこれを記録する」とあり、とにかく記録しておき、後で確認して訂正しようとした。
「有名無実の風聞」
 『玉葉』に風聞(ふうぶん)の大袈裟(おおげさ)なことを確認している記述がある。
 平家軍の騎馬武者が家の近くを通るので、家来に数えさせたら、千八十騎だった。世間の噂では、七ないし八千騎または一万騎だという。「有名無実(ゆうめいむじつ)の風聞このごとし」と世間の噂話の不正確なことを本人も証明している。また「頼朝上京」の噂話を実際の上京までに十回位記述しているが、誤りと訂正しているのは、一回のみである。
「九条兼実の容貌観察」
 頼朝に会う前のうわさでは、「頼朝の為体(ていたらく、風体)、威勢厳粛、その性強烈、成敗分明、理非断決」(寿永二年十月九日)と聞いていた。頼朝とは数回対談した(建久元年十一月九日、建久六年三月三十日、同年五月二十二日)。しかし、容貌については記述がない。なんだ、うわさほどでもないと思ったのか。もっともお互いに四十代の中年(頼朝四十五才、兼実四十二才)だから、かなりくたびれているだろう。
 容貌に無関心ではない。平惟盛(清盛の孫)については「衆人中、容顔第一」(承安五年五月二十七日)、定能の息子については「生年十五才、容貌美麗」(寿永二年四月二十九日)、実定の息子については「生年十一才、容顔美麗」(元歴二年五月三日)と観察し記述している。惟盛は『平家物語・延慶本』でも美男子(みめかたちすぐれたり)と表現されている。
 『玉葉』著者の九条兼実は義仲や義経に会った事はない。九条兼実が義仲について記述するのは寿永二年五月十六日からである。以下、義仲や関係者が登場する場面や関連する場面を記述する。

一一七五年(承安五年)

六月十三日「嫡妻、本妻、妾妻」
 明法博士(みょうぼうはかせ)の中原基広に尋ねた。妻妾の事について、例えば、人妻三人あり(嫡妻、本妻、妾妻)、その嫡妻、本妻が年数を経て一子無し。妾妻が今嫁娶(かしゅ、結婚)をなし子あり。しかるにその妻等が亡くなれば、その夫は何れを忌むや。答えて言う、嫡妻はたとい一子を生まずといえども、亡くなればその喪に服すべし。その後、数子の母亡くなるといえども、その喪に服をなさず。これ則ち夫は再び妻服を着けざる故である。
(注) 明法博士(みょうぼうはかせ)・・・法律の教官。
 (解説) 兼実には数人の妻がいた。区別せず「女房」とある。その子についても差別はしていない。

一一八○年(治承四年)

五月十五日 「以仁王配流せらる」
五月十六日 「高倉宮配流」
「三井寺衆徒以仁王を守護す」
「以仁王若宮逐電の聞こえ有り」
五月十七日 「以仁王三井寺にあり」
五月二十一日 「園城寺を攻むべき事」
五月二十二日 「頼政入道子息等を引率し三井寺に籠る」
五月二十六日 「以仁王等南都に逃げ去る」
「頼政等誅殺さる」
「宇治川橋の合戦」
「以仁王自害するか」
五月二十七日 「以仁王討ち漏らすとの疑いあり」
「南都より以仁王誅殺せらるとの告げあり」

九月三日 陰晴れ不定、「熊野権別当謀叛」
「源頼朝伊豆・駿河を押領す」
「源行家頼朝に與力」
九月十三日 朝間小雨、午後晴れ、「平貞俊東国追討使の中に入る」
「信濃の国すでに與力した」

一一八一年(治承五年、養和元年 七月十四日改元 )

一月十四日 晴「高倉上皇崩御」
閏二月五日 天晴 「清盛死去一定」
閏二月六日 天晴 「関東乱逆の事を論議した」
「清盛没後、宗盛は万事院宣(法皇の命令)に従うべき旨を奏す」
「関東の事」 先ず関東の事、兵粮すでに尽き、征伐に力無し、
「反逆をゆるすか、なお追討すべきか」
 故入道(清盛)の指図の如く、西海・北陸道等の運上物を併せて徴収し、かの兵粮米に宛てるべしと。

三月十七日 朝陰 「秀衡は頼朝を攻める為白河の関を出る」
 伝聞、藤原秀衡(ひでひら)は頼朝を攻めるため、軍兵二万余騎で、白河の関の外に出た。これにより、武蔵(むさし、東京・埼玉)・相模(さがみ、神奈川)の武士達は、頼朝に謀反した。よって頼朝は安房(あわ、千葉県南部)国の城に帰住したという。また越後(えちご、新潟県)の城の太郎助永が病死したという。但しこれ等の事、信用する事は困難である。
「このような風説、まずまず、ほとんどでたらめである。しかし、後日に真偽を確認するため、聞き付けるに従いこれを記録する」

七月一日 「城助職が信濃の国を攻める」
 右中弁の兼光朝臣(氏院別当)が話した。「越後(新潟県)国の武士で城太郎助永の弟の助職(在地の武士は白川御館と呼ぶ)は、故平清盛や平宗盛等の命により、信濃(長野県)国の追討を目指し、六月十三・四両日に、信濃国中に入るといえども敢えて防戦する者は無く、殆ど降参を請う者が多く、僅に城等に引き籠もる者も、攻め落とすに困難な事は無いようだ。よって各勝ちに乗じて、猶散在の城等を襲い攻めようとした。
「信濃源氏は反撃す」
 ところが、信濃源氏等は三手に分かれ、キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田党一手と、俄に時を作り攻撃してきたので、険しい道を進軍して旅に疲れていた越後軍等は、一矢を射る事も出来ず、散々に混乱し敗れた。大将軍の助職は、二・三ケ所の傷を負い、鎧兜を脱ぎ捨て、弓矢を捨て、元の軍勢は一万余騎だったが、僅か三百人を引き連れて、本国に逃げ帰った。残りの九千余人は、切り取られ、或いは険しい道から落ち命を失い、或いは山林に迷い込み行方不明となった。およそ再び戦うような勢力は無いという。この時、本国の在庁官人以下は、本意を遂げる為、助職を侮り排除しようとした。
「会津城」
 そこで会津の城に引き籠もろうとしたが、藤原秀衡は部下の武士を派遣し、占領しようとした。よって佐渡の国に逃げ去った。その時、伴う者は、わずかに四・五十人という。
 この事は、前の治部卿・藤原光隆卿(越後国を知行の人である)が、今日、たしかな説と言って、法皇御所で話した所である」という。
 後に聞く、佐渡の国に逃げ脱するは誤報であり、本城に引き籠もるという。
 (解説) 「横田河原の合戦」のようである。兼実の日記は漢文であるが、時々カタカナ、ひらがな(和歌)が使われる。『平家物語』の「猫間中納言」に出てくる猫間中納言光隆卿は知行国の越後についての相談で義仲を訪ねたのだろうか。キソ党は木曽勢、サコ党は佐久勢、甲斐国武田党は上野(こうずけ、群馬県)国源氏との説もある。

七月十七日 天気晴れ、「越中・加賀等国人が東国に同意すという」
 ある人が言う。越中(えっちゅう、富山県)・加賀(かが、石川県南部)等の武士等は、東国に同意し、暫し越前(えちぜん、福井県東部)にも波及したという。

七月十八日 天気晴れ、「平通盛が北陸道に下向すという」
 伝聞、(平)通盛(みちもり)朝臣(あそん)は北陸道に下向するだろうという。他の追討使は只今の処、その指図は無いという。

七月二十二日 雨下る、「城助職の勢衰えず」
 人伝えて言う。越後の助職は未だ死なない。その勢力は又強く減少せず。信濃源氏等は侵略しようとしているが、未だ侵入しないという。

七月二十四日「能登・加賀(石川県南部)は東国に与力」
 人伝えて言う、能登(のと、石川県北部)・加賀(かが、石川県南部)等は皆東国に味方した。能登の目代(もくだい、国守の代理)は逃げ上がるという。

八月十五日 朝雨、午後晴れ、「除目有り、陸奥の守藤原秀衡、越後の守平助職」
 去る夜、除目(じもく)が有った。大夫史隆職が、これを記録し知らせて来た。
    陸奥の守藤原秀衡(ひでひら)
    越前の守平親房(ちかふさ)
    越後の守平助職(すけもと)
 この事は、先日に議定した事である。天下の恥、何事もこれに及ばない。嘆かわしい嘆かわしい。大略、大将軍等は、計略を尽きたか。この中でも、親房の事は納得できない。通盛は国司として下向した。たちまち他人を任ぜられた。どうしたものだろう。尋ねなければならない。

一一八三年 (寿永二年)

四月十三日 「賀茂祭警護」「武士等が狼藉」
 武者の家来等が、近くの畠を刈り取る間に狼藉(ろうぜき)という。賀茂祭の警護の指揮をする公卿は中納言の藤原実宗卿という。
 (注)賀茂祭(かものまつり)・・・上賀茂、下賀茂神社の祭礼。

四月十四日 雨下る、「武士等が狼藉」
 武士等の狼藉(ろうぜき)は昨日と同様という、およそ近日の天下は、この乱暴狼藉により、身分の上も下も多数の人が騒ぎたてて秩序が乱れた。人や馬や荷物を、路地で眼につくものは横より奪い取る。
「平宗盛に訴えるも止まず」
 前内大臣の平宗盛に訴えるといえども、成敗することは出来ない。制止の要請が有りといえども、更に制法に違反しないという。京都以外の所の事については知ることが出来ない。京都近辺の秩序を乱す乱暴狼藉は大いに恐れおののくことである。よって前内大臣の処に使者を派遣した。制止すべしとの報告が有りといえども、更にその終始は一貫していない。実に嘆かわしい世である。
 (解説) 平家軍は義仲追討軍の出発にあたり、京都市内外で追捕(ついぶ、現地調達)を始めた。この後、『平』の「北国下向」に記述される追捕の乱暴狼藉が続くことになる。平宗盛の申請により法皇や公家は黙認したようだが、権力中枢から外されている著者の兼実には追捕について連絡、報告が無かったようである。

四月二十三日 「征討将軍が出発」
 征討将軍等は、或は以前に、或いは以後に、次第に出発した。今日、完了という。

五月十二日「官軍が加賀(石川県南部)に攻め入る」
 伝聞、去る三日、官軍は加賀(石川県南部)国に攻め入り、合戦となり、両方に死傷者が多数という。

五月十六日「官軍が越中にて源義仲等と戦い大敗した」
 去る十一日、官軍の先鋒(せんぽう)が、勝ちに乗じて越中(えっちゅう、富山県)国に進攻した。木曽冠者義仲・十郎蔵人行家や他の源氏等が迎え合戦した。官軍は大敗して今までの功績を失ない、過半数は死亡したという。(今夜、皆既月食)

六月四日「北陸の官軍が潰滅(かいめつ)した」
 伝聞、北陸の官軍は全て大敗して今までの功績を失なった。今朝早く、飛脚が到来した。官兵の妻子等が泣き悲しむ事は、この上なくはなはだしいという。この事は去る一日という。早速の風聞(ふうぶん、うわさ)疑い有りといえども、六波羅(ろくはら)の気持ちを損ずる事という。
(注)六波羅(ろくはら)・・・京都鴨川の東、五条と七条の間の土地、平家一門の居宅六波羅殿があった。
 (解説) 砺波山(となみやま)、倶利伽羅(くりから)峠の合戦の伝聞のようである。

六月五日 「中原有安が北陸の官軍が敗亡の詳細を話した」
 前飛騨(ひだ、岐阜県北部)守の中原有安が来た。官軍の敗亡の詳細を話した。
「官軍の四万余騎の軍勢のうち甲冑を付けた武士は僅か四・五騎である。その外の過半数が死傷した。残りの者は皆全て武具を捨て、山林に迷い込み、およそ先頭を争うような鎧を付けた兵士等は同様に討ち取られたという。平盛俊、平景家、藤原忠経、以上の三人はかの平家一門の第一の勇士であるが、彼らは一重物で前を結び、束ねた髪を引き下げて逃げ帰った。運良く存命しても、従者を一人も伴わないという。およそ事態はただ事ではない。誠に天の責めを受けたか。敵軍は僅か五千騎以下であるという。かの三人の郎等は大将軍等と権勢(けんせい)を争う間に、敗戦となったという」。
「官軍が大敗の事につき法皇御所で評定あり」
 今日、法皇御所より呼び出しがあった。北陸での官軍が大敗して今までの功績を失なった事を審議するためである。しかし病気を理由にして行かなかった。重病ではないが、多くの人が出る事もないからである。

六月六日「官軍大敗後の事計申すべき旨法皇より御命令される」
 大蔵卿(大蔵省長官)泰経(やすつね)が、後白河法皇のお使いとして来た。病気ぎみだが会見した。泰経が御言葉を伝えた。「北陸の官軍等が、空しく帰京した。この上、どの様に行われるのがよいか」という。申し言う、「百千万の何事も出来ない。只、天下が落ち着いた時に、徳政を施すのがよろしい。法皇の御考えより起し、御願いを立たれるのがよろしい、この他の計、一切出来る事はない」と。

七月二日 天晴「義仲・行家が四方より寄せんとす」
 伝聞、源頼朝はたちまち出る事が出来ない。ただ木曽冠者・十郎等が、寄せ手を四方に分け、寄せるのが良いと決定したという。

七月二十一日 晴れ、「追討使が兼実家の傍を経て出陣す」
 十二時頃、追討使が出陣した。三位中将(平)資盛(すけもり、重盛の次男)が大将軍となり、肥後(ひご、熊本県)守(平)貞能を引率し、私の家の近くの東小路(富小路)を経て、多原方へ向かった。家の者たちが密々に見物した。
「その勢僅か千騎」「有名無実(ゆうめいむじつ)の風聞」
 その軍勢は千八十騎という。確かに之を数えたという。かねてから、世間の噂では七・八千騎、または一万騎になるという。しかるにその軍勢の実情を見ると、わずか千騎である。有名無実の風聞、これをもって察すべしか。
 (注)有名無実(ゆうめうむじつ)・・・名ばかりで、それに伴う実質のないこと。

七月二十二日 朝間曇り 八時以後晴「江州の武士入京は実説ではない」
 午前六時頃、報告があった。江州(近江、滋賀県)の武士等すでに入京し、六波羅あたりは物騒極まりなしという。また聞く、入京は実説ではない。
「比叡山の僧綱(そうごう)が下京」
 しかるに地元の武士等は比叡山に登り、講堂前に集会しているという。日頃登山の僧綱等は下京した。無動寺の法印(慈円)は同じく下京した。但し座主明雲一人のみ下京しないという。
「行家は大和(奈良県)国に入り宇多郡に住むという」
 また聞く、十郎蔵人行家は大和(奈良県)国に入り、宇多郡に住い、吉野(高野山、金剛峰寺)の僧兵等が味方したという。よって資盛、貞能等は江州に向かわず、行家の入京を待ち構えるという。(平)貞能は昨夜、宇治に泊まり、今朝、多原の地に向かおうとしたが、この事により貞能は行くのを止め、行家の入京を待ち構えるという。
「源行綱が平家に謀反(むほん)、摂津・河内に横行」
 また聞く、多田蔵人大夫(源)行綱は従来より平家に従属(じゅうぞく)した。近日は、源氏に同意する風聞があった。そして今朝よりたちまち謀反(むほん)し、摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)・河内(かわち、大阪府南東部)両国に横行し、種々の悪行(あくぎょう)を強行し、河尻(大阪湾沿岸の港)の船等を略奪したという。両国の人民は皆悉(ことごと)く味方したという。
「丹波追討使は大江山まで引き退く」
 また聞く、丹波(たんば、京都府)の追討使、(平)忠度の軍勢は敵対する事が出来ず、大江山(京都府北西部)まで引き帰したという。およそそれぞれの事は直事ではない。今日、上皇の宮に、公卿(くぎょう)が参集し、議定が有るという。私も同じくその招集(しょうしゅう)が来たが、病気なので参上しなかった。今日、同宮に参集するように、その議定が有ったが、縁起が悪いので延引し、明後日に参集という。

七月二十三日 雨「法皇は法住寺御所に渡御(とぎょ)」
 六波羅のあたりは嘆息(たんそく)の他する事も無いという。今朝、法皇は法住寺御所に御渡りという。世間の物騒がしさによるという。

七月二十四日 晴れ、「法住寺御所に行幸」
 この一両日、江州(ごうしゅう、近江)の武士が比叡山に登った。今夜、夜打ちが有ると風聞した。よってたちまち法住寺の御所に天皇がお渡りなされた。殆ど明け方に達するという。
「兼実等は法性寺に避難」
 この辺りも恐れが有るので、私は女房を引率し法性寺(ほっしょうじ)家に移動した。

七月二十五日 晴れ、「法皇は御逐電(ちくでん、逃亡)」
 午前四時頃、ある人が知らせて来た。法皇が行方をくらまして逃げたという。これは日頃全員の願望であった。しかし今の状況では準備不足というだろうが、詳細は後で聞くことにしよう。午前六時頃、同じ情報を得た。よって女房等は少し山奥のお堂の近くへ避難させた。私(兼実)と弟の慈円(じえん)法印(ほういん)は一緒にさらに他の僧侶達と共に、最勝金剛院(さいしょうこんごういん、京都市伏見区深草車阪町)の堂に向かい、仏前で待機した。この時、参議(さんぎ)大納言(だいなごん)の藤原定能卿が来た。「法皇の幽閉(ゆうへい)場所を探しだし、密かに隠していたのです」。
「宗盛以下は安徳天皇を奉じ淀に向かう」
 午前十時頃になり、平家軍の将兵が安徳天皇を御連れし、淀地(京都市伏見区)方面へ向かったという。九州方面にたてこもる計略だという。
 前内大臣の平宗盛以下一人も残らない。六波羅・西八条などの平家一族の家屋敷は一所残らず燃え尽きた。一時の間、煙と炎は天に満ちた。昨日までは、官軍と称して、思うままに源氏等の追討をしようとした。今日は、朝廷に逆らい、天皇の辺地を目指して逃げ去った。盛者と衰者の道理が、眼に耳に満ち満ちた。悲しい事だ。生死の煩悩(ぼんのう)の果報(かほう)である。何人(なにびと)もこの難を免れようか。恐れて恐れなければならない。慎みて慎まなければならない。
「摂政は雲林院に逃れ去る」
 摂政(せっしょう)の藤原基通(ふじわらのもとみち)は自からその災いを逃れ、雲林院(うりんいん、京都市北区紫野信範入道堂辺)方へ逃げたという。
「法皇が御登山」
 ある人が報告した。法皇は比叡山に御登山されました。他の人々は未だ参らない。しばらく、秘密にせよという。
「定能は比叡山に参ず」
 平氏等が皆都落ちした後、定能卿は比叡山へ参りました。定能卿に依頼し参入は如何(いか)にと申しました。午後四時頃、落ち武者たちが、また帰京した。あえて信用しない処、この事は確かである。貞能が一矢射るのだと言うという。
「平家は九州に赴くにあたり公卿を取り具さんとする」
 或いは、又、天皇と三種の神器等を御連れし、九州に向かう時に、相応の臣下(しんか)が無くてはならない。よってそれ相応の公卿を連れて行くという。恐怖(きょうふ)限り無しといえども、すぐ逃れる手段は思い付かない。運を天に任せ、三宝を念じていた。
「平家の武士等、最勝金剛院に城郭を構えんとす」
 下人(げにん)が来て告げた。「帰京の武士等は、この最勝金剛院に防御陣地を構えるようだ」と、よって人を派遣し見させた処、既に少々の武士が向かい来るという。同居や追却するのは不適当である。よって、あわてて女房を少々引率し(その残りを山奥の小堂に隠した)、日野辺りに向かった。
「源氏すでに木幡山に在り」
 源氏軍は、すでに木幡山(京都市伏見区桃山)に在るという。よってたちまち稲荷下社(京都市伏見)辺りに宿泊した。狼藉は多すぎて数えることも出来ない。しかし社前に参り法文を唱えた。自然の参詣(さんけい)は機縁と言うのがよいか。この辺りは、なお怖れあるという。よって明朝、日野に向かおうと考えた。今朝この事の前、法印(慈円)は白河房に帰られた。今の間、使者を送り伝えた。「我が房に来なさい。今夜一緒に、比叡山に登山しよう」と。路次で怖れが有るので行き向かわなかった。寄宿の家の状態は、およそ下品の至りである。未だかって無し。自身には過ち一つ無く、今このような難に遇う。前世の所行を嘆きたい。

七月二十六日 晴れ、「日野への路塞がる」
 明け方、日野に向かおうとしたが、その道は通行出来ないので、出立する事は出来ない。この間に、昨日帰京した武士等は成す事無く、また逃げ去った。帰京の本意、未だその意図が不明である。武士の弱腰、所行の無礼、奇異の至り、例え取る物無し。
「法性寺に帰る」
 八時頃、法性寺(京都市東山区本町)に帰った。
「定能より書札あり、比叡山に向かう」
 十時頃、参議大納言の藤原定能卿より書状が届いた。「御参上の事を申し上げます。早く御参上下さい。入道関白(藤原基房)も同じく参入されます」と。
 早速、出立し午後二時頃に登山した。烏帽直衣(えぼしのうし))で、先導者・従者ともに八人、各騎が馬車の前に付いた。藤原季経、藤原経家と坂下で参会した。侍四・五人が午後五時頃に西坂下に着いた。九条より牛三頭も着いた。手こしが遅延の間、少し経って午後六時頃に輿(こし)とこしかき等が到着した。これは無動寺の法印慈円の指図である。急いで輿(こし)に乗り、西坂を登った。従者は皆全て歩行した。坂口の五・六百メートルは騎馬である。先導者等は輿(こし)の前を歩いた。
「源雅頼に出逢う」
 道端で、源(雅頼)中納言に会った。その子息の源兼忠を連れていた。こしを据えおき、従者を退け、会談した。納言は言う、三種の神器は賊臣の平家軍が全部盗み取った。とやかく言う事無く平氏を追討せよとの御命令を下されるのに大変不都合である。まず、三種の神器の安全の指図をするのがよろしい。よってこの事を申し上げ、許可が有った。右大弁の平親宗を使いとして御手紙を多田蔵人大夫行綱の処へ遣わした。この事は猶、おおまかな指図である。よって内々に女院(建礼門院)もしくは平家軍に同行するという時忠卿の処に御言葉を遣わされるのがよろしいと、重ねて申し上げた。善いようにとの御言葉が有ったという。すぐ時間が過ぎた。
「慈円の青蓮院(しょうれんいん)の房に着す」
 午後八時頃に東塔の南谷、青蓮院に到着した。これより先、院主は法印(慈円)が任命され、無動寺よりただ今到着したという。件の房は伝頭の後、未だ到着しなかった。今日は吉日により、すぐ転居をされたとの事を談ずる処である。
「法皇の御所に参る」
 私は暫し、休息の後、法皇御所に参上した。円融房(えんゆうぼう)が、これは座主の房である。道の途中、先導者等は松明(たいまつ)を取り、前を行く。その道程は四・五百メートルである。私は烏帽子、直衣で手こしに乗る。参議大納言の藤原定能卿を介して法皇との会見に入る。お招きにより、御前に参り、しばらく慎んで控えておよそ思う所を申し上げた。三種の神器と源氏入京の事である。ただ和をそしる怖れ有りといえども、なんぞこれ忠心による。納得か否かは法皇のお考えに在る。法皇は言う、「西海方面に連行されると聞いたので、密行する所である」と。
「神爾(しんじ)紛失の事と以仁王存否の事を法皇に問う」
 私は二つの不審(ふしん)の事を問い申し上げた。一は三種の神器の紛失の事で、去る治承四年の頃、盗み取られたと聞いた。一は三条の宮(以仁王)が生存か否かの事である。法皇の御言葉に言う、「二つの事は共に真偽(しんぎ)を知らない、但し、風聞であり、共に事実では無い。三種の神器は紛失していない。以仁王は生存していない」との事である。しばらくしてから退出した。

七月二十七日 天気晴れ、「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」
 風邪が発生のため、今朝は御所に参る事が出来ない。
 参議大納言の藤原定能卿が来た。また右衛門権佐の藤原定長がお使いとして来た。言う、「前内大臣(平宗盛)以下を追討の事、内々に御命令下さるといえども、なお証文(しょうもん)を、下されるのは当然だが、そこで宣旨(せんじ)か庁(ちょう)の御下文(くだしぶみ)かどちらか」。私は言う、「天皇はすでに賊の平家軍が御連れした。宣旨の件はすでに文書偽造となる。(法皇)庁の御下文がよろしい」。定長また言う、「法皇の詔書(しょうしょ)と、なすのが当然か」、私は言う、「この事は大事たりといえども、摂政(せっしょう)の詔(みことのり)を下さるに似ざるか、ただ(法皇)庁の御下文がよろしい」。
 私は質問した。「三種の神器の指図はどうしたか」。定長が答えた。「天皇と三種の神器は共にお帰り有るのがよろしいとの事、定長卿が文書にして、主典代(しゅてんだい、文書係)の大江景宗が一緒に、平大納言時忠の処へ派遣するのがよろしい」。私は言った。「この事は甚だ弱腰の指図である。たとえ御文書を遣わすといえども、御使においては止めるのがよろしい。召し使い二・三人の如きを、派遣するのがよろしい。およそこの三種の神器のこと、別の奇策を以てかの縁の人を尋ね、誘惑されるのがよろしい。事は密かに有るといえども、安穏(あんのん)に出来る事、甚だ有り難き故である」。
「義仲と行家、狼藉を停止させるため、早く入京すべき」
 私はまた言う、「今や、義仲(木曽)、行家(十郎)等を兵士の狼藉を停止させるため、早く入京させるのがよろしい。その後、早速にお帰りあるのがよろしい。そうでなければ、京都の乱暴乱雑はあえて止める事が出来ない。これらの趣旨を早く申し上げるのがよろしい」、定長は帰りました。
「法皇は京都に還御(かんぎょ、お帰り)」
 午後二時頃、定能卿が告げて言う、連々、日取り無しのため、今日急にお帰りとなります。明日は復日(ふくにち)、明後日は御衰日(すいにち)、晦日(みそか)に至るなど、甚だ怠慢の故なり。よって、ただちに法皇は、お出発されました。
 (注) 復日(ふくにち)・衰日(すいにち)・・不吉な日。
「兼実は下山し法性寺に宿す」
 私は法皇がお出発の後、同じく山を出発した。午後八時頃、法性寺に到着した。帰忌日(きこにち)のため僧の宿舎に宿泊した。法皇も同じく、帰忌日により、蓮華王院(れんげおういん)にお帰りだという。今度、中堂に参られよとの事、相存ずる処、日取りが宣しくない、さらに急の出来事の間、空しく下京した。所願(しょがん)成就(じょうじゅ)の時、この残念を晴らすと、中心より祈願(きがん)した。
 (注) 帰忌日(きこにち)・・帰宅などを嫌う日。

七月二十八日 天気晴れ 「義仲・行家が入京した」
 今日、義仲・行家等は南北より(義仲は北、行家は南)入京したという。夕方になり左少弁(さしょうべん、事務官)の光長が来て話した。義仲、行家等を蓮華王院(れんげおういん、三十三間堂の寺号)の御所に招き、平家を追討せよとの法皇の命令を下された。検非違使(けびいし、警察兼裁判官)長官の藤原実家が殿上の縁にてこれを伝えた。かの両人は御所であるため、地に膝まずいて聞いた。
「かの両人、権を争う遺恨あり」
 参入の間、かの両人は相並び、敢えて前後しなかった。ともに先を争う意思ありと知る事が出来た。両人が退出する時、頭弁(とうのべん)の兼光が、京都市内の乱暴を停止するように命令を伝えたという。
 今朝、宰相(さいしょう)中将定能卿が来た。弟の法印(慈円)は昨日、京都市内に戻った。

七月三十日 天晴「法皇御所にて大事議定」
 朝早く、大蔵卿の高階(たかしな)泰経(やすつね)卿が書状を、(和泉の守、源)季長朝臣の処に送り言う、「今日、法皇御所で、重要案件を議定します。十時頃、私も参加せよ」という。十一時半頃に冠と直衣を着け、蓮華王院の法皇御所に参上した。これより先に左大臣の藤原経宗(つねむね)、大納言(藤)実房、(藤)忠親、中納言(藤)長方等が御堂の南廊東面座(風吹くにより簾(すだれ)を垂れる)にいた。私も同じくその座頭に加わった。弁兼光朝臣が法皇のお言葉をいただいて来た。左大臣の藤原経宗が法皇のお言葉を伝えた。「色々の事を協議して、申し上げよ」という。
その三箇条の事を左に載せる。
「頼朝・義仲・行家への勧賞(けんじょう)を如何に行わるべきか」
 一、法皇のお言葉に言う、「今度の義兵は、企画・立案は頼朝であるが、ただいまの成功は義仲・行家にある。賞を行おうとすれば、頼朝の不満は不明である。彼の上京を待とうとすれば、両人への賞が遅いと嘆くだろう。両箇の間、法皇の考えは決し難い。兼ねてまた三人の勧賞(けんじょう)等に差が有るのがよろしいか。その間の詳細を、協議し申し上げせよ」という。
「頼朝の参洛待たず三人同時に行わるのが当然である」
 人々は申した。「頼朝の入京の時期を待つ事は無い。彼の賞を加へ、三人同時に行われるのがよろしい。頼朝への賞が、仮にその意に反するならば、申請に従い更新するのに何の支障も無い。その等級は、勲功の優劣により、さらに本官(正式の官職)の高下により、協議し行なわれるのがよろしいよろしい。総じてこれを論ずれば、第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家である」。
 頼朝へは、京官、任国、加級がよろしい。これについて左大臣は「京官は入京の時、任ずるのがよろしい」と言った。私は「そうではない。同時に任ずるのがよろしい」と反論した。中納言(藤)長方が賛同した。
 義仲へは、任国(にんごく)、叙爵(じょしゃく)がよろしい。
 行家へは、任国、叙爵、がよろしい。但し国の優劣を以て上下差別し任ずるのがよろしい。実房卿は「義仲従上、行家従下がよろしい」と言った。
 (注)勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または物を賜ること。
    京官(きょうかん)・・・京都に勤務する官吏 。
    任国(にんごく)・・・国司として任命された国。
    叙爵(じょしゃく)・・・初めて従五位下に叙せられること。

「京中の狼藉と兵糧(ひょうろう)用途如何すべきか」
 一、法皇のお言葉に言う、「京中の狼藉は非常に多くの兵士の致す処である。各々その軍勢を減少するのがよろしい」との事であるが、「思いがけない難の怖れが有る。これを為すのはどうか。また、たとえ人数を減少しても、兵糧が無ければ、狼藉は絶え無い。その用途又いかに。同じく判断し申し上げせよ」という。人々は申し言う、「現状では平家の仲間が大軍と成る恐れは無いだろう。士卒の人数を減少するのが最良の方策だろう」。
 兵糧の事について、すこぶる異議が有った。(大納言、藤)忠親・(中納言、藤)長方等は言う「各一ケ国を与え、その兵糧用途に宛てるのがよろしい」と。私は反論した「勧賞は任国の外、更に、国を与える事はどうか」と。両人は「その兵糧用途が終われば他の人に任ずるのに何の支障も無い」と言った。。私は「理屈はそうだ。ただ、彼らは定めて没収の恨みを持つだろう。ただ平家より没収の地の中から、適当な所を選び、あて与えるのがよろしい。あるいは、また一ケ国を両人に分割して与えるか。但しこの事は、すこぶる争いの元になる。猶、没収の所を与えるのがよろしい」。左大臣は言う、「両方の意見、各々が適当である。法皇の裁定によるのがよろしい」。すこぶる私の意見に同意されるか。
「関東・北陸の神社領等に使いを遣わし沙汰致すべきか」
一.法皇のお言葉に言う、「神社仏寺と甲乙(たれかれ)の所領は、関東・北陸に多く在る。こうなった時、各その使いを派遣し、指図を致すのが適当であるとの事を本所(本家)に命令するのがよろしいか」。
 一同申して云う、「異議無し。早く命令されるのがよろしい」と言う。兼光は人々の意見を聞き、御所へ参りました。

八月十一日 雨下る「昨日の勧賞の聞書を見る」
 昨夜の聞書(ききがき)を見た。
 義仲は従五位下(じゅごいのげ)、左馬頭(さまのかみ)、越後守(えちごのかみ)、行家は従五位下、備後守(びんごのかみ)という。
 (注)従五位下(じゅごいのげ)・・・上級貴族の子が最初に受ける位。
   左馬頭(さまのかみ)・・・左馬寮(官馬の役所)の長官。
   越後(えちご)・・・新潟県。
   備後(びんご)・・・広島県東部。

八月十二日 雨下る「行家は勧賞の懸隔に腹を立て恨む」
 伝聞、行家は、手厚い賞ではないと言い、怒り恨むという。さらにこれは義仲への賞と大差の故である。門を閉じ辞退したという。

八月十四日「践祚の事につき法皇より諮問せらる」
 夜になり、大蔵卿の高階泰経(たかしなやすつね)が、お使いとして来た。高階泰経が言う、「天皇の即位について、高倉上皇の御子息の宮様が二人おいでになります。一人は平義範の娘の子で五歳の惟明親王(これあきしんのう)、もう一人は藤原信隆卿の娘の子で四歳の尊成親王(たかなりしんのう)の間で思案する処、もっての外の大事が発生しました」。
「義仲は以仁王の王子を推す」
 今日、義仲が申し出た。「故以仁王のご子息の宮様が北陸においでになります。義兵の手柄はかの以仁王のお力であります。よって立王の事について、異議有る事も無いとの思いである」と。よって重ねて、義仲と親しい俊尭(しゅんぎょう)僧正を通じて詳細を話された。「我が朝廷の慣例により、君主の位を受け継ぐ場合には武力を使わず法律・制度を守る事を優先しますという。高倉上皇の子の宮様が二人おいでになります。その王者の子孫を置いて、強引に法皇の孫の王を求めるのは、法皇の心は測り難いものであります。この事猶そのようには出来ないか」と。
 義仲は重ねて申し上げた。「このような大事については、源氏等がこだわり申すまでもないといえども、大略の道理を思案すると、法皇が御隠居のとき、高倉上皇は清盛の権力を恐れて、実際の政治を行うことは無いも同様でございました。以仁王は親孝行のためその身を亡ぼしました。どうしてその孝行を思い忘れることが出来ましょうか。なおこの事は、その気のふさぐことを無くすことは難しい。但しこの上の事は法皇の裁定に在ります」と。「この事いかに処理し申し上げようか」。申し言う、「他の朝廷の議案については、事を許すか許さないかを顧みず、相談ある毎に私の愚かな意見を述べました。
「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
 王者(法皇)の裁断(さいだん)するのがよろしいので、臣下の指図するのはよろしくない。(中略)。
 (解説) 現代でも家の後継ぎは主人が決めるように、次の王は現王(法皇)が決めるのがよろしい。他人特に臣下(家来)が口出しするのはよろしくない。と兼実は考えている。しかし、この立王への口出しが法皇側の義仲への警戒心を大きくした。

八月十八日 終日雨降る「立王の事」
 静賢法印が人を介して伝え、「立王の事、義仲は猶不満を申した」と言う。この事は、先ず始めに高倉院の両宮にて占われた処、神祇官(じんぎかん)・陰陽寮(おんようりよう)共に兄宮が吉であると占い申した。
「法皇は女房の丹波の夢想により高倉院の四宮を立てられようとした」
 その後、女房の丹波(御愛物遊君、今は六条殿と言う)が見た夢を話して「弟の宮(四宮、信隆卿の外孫)の御出かけが有りました。松の枝を御持ちの様子を見た」と法皇に申し上げた。よって占いに反し、四宮を立てられるよう思案したという。そのような処、義仲は北陸宮を推挙した。よって入道関白(藤原基房)、摂政(藤原基通)、左大臣(藤原経宗)、私と四人が招きに応じ、三人は参入した。私は病気により参入しなかった。かの三人は各申されて言う「北陸宮は全く不適切である。但し、武士の申す処で恐れがある。よって御占いを行われ、その趣旨に従がうのがよろしい」と。松殿(藤原基房)は「一向に占いは不要である。詳細を義仲に申しつけるのがよろしい」と言う。私は「ただ法皇の裁定を尊重するのがよろしい」と申した。
「再度占いを行われる」
 よって折中(せっちゅう)の策として占いが行われた。今度は第一が四宮(夢想の事による)、第二は三宮(後高倉)、第三は北陸宮となった。神祇官・陰陽寮とも第一が最吉、第二は半吉、第三は終始不快と申したという。占形(うらかた)の結果を義仲に伝えた処、「先ず北陸宮を第一に立てられるのが適当である処、第三に立てられるのは合点がいかない。およそ今度の大功は、かの北陸宮の御力である。何故、無視されるのか。猶郎従等と申し合せ、あれこれを申すのが適当である」と申したという。およそ当然の事か。どうする事も出来ない。およそ初度の占い、この度の占いと、一二の事を替え立てられる。甚だ秘事有るか。占いは再三しないものである。しかるにこの立王の指図の間、数度お占いを行った。神は定めて、お告げ無しか。小人のまつりごとの結果である。万事一決せず。嘆かわしき世である。
 (注) 神祇官(じんぎかん)・・・朝廷の祭祀をつかさどる。
     陰陽寮(おんようりょう)・・・陰陽道により、天文・占いなどを担当する。

八月二十日 天晴「後鳥羽天皇が践祚(せんそ)せらる」
 この日、立皇の事が行われた。高倉上皇の第四の宮で御年は四歳、母は故正三位修理太夫信隆卿の娘である。前日より前、しきりに、その指図が有った。先ず高倉上皇の両宮(三宮と四宮)を、占いにより、三宮が第一に立つ処、神祇官・陰陽寮共に第一が吉を申した。その後、女房の夢想が有り(詳細は先日の日記を見る。四宮が立ちなされたとの事である)。又義仲は加賀(石川県南部)国においでの宮の肩を持った(詳細は先日の記に見ゆ)。このような間で、更に又御占いが行われた。今度は四宮を第一と立て、加賀の宮を第三に立てたという。又第一が吉と占い申した。第二は半吉、第三は不快という。占いの結果を義仲に伝えた処、おおいに怒り憤り恨みを申し言う、「先ず次第の立て様は大変不当である。御年の順によれば、加賀宮を第一に立つのが適当である。そうでなければ、又始めのように、兄宮を先とされるのがよろしい。事態は、いつわりに似ている。故以仁王の孝行を無視する事は大いに遺恨(いこん)である」という。しかれども一昨日、重ねて木曽へのお決まりの御使いとして俊尭僧正を派遣した。数回往復し、ついに御定めに従うと申した。よってその後、一決(いっけつ)したという。
 (注) 践祚(せんそ)・・・皇位の継承。

八月二十八日 天晴れ「武士十余人の首を切る」
 伝聞、今日、七条河原で、武士十余人の首を切ったという。
 (解説) 乱暴者の処分をしたかもしれない。

九月三日 曇り「義仲は頼朝の上京を迎え撃つべく支度すという」
 ある人言う、「頼朝は去る月二十七日、国を出で、すでに上京する。但し信用出来ない。義仲は必ず立ち向かうように準備する」と。
 天下は今一層の暴乱が出て来そうだ。
「四方の通路皆塞がる」
 「およそ、最近の京都市内外では、武士以外の者は、一日として生き永らえる方法が見つからない。そこで身分の上下無く、武士以外の多くの者は市外の片山や田舎へ避難したという。東西南北の四方の通路は全て通行出来ない。つまり四国や広島より西の山陽道や九州等は平氏を征伐する以前なので通行出来ない。北陸道や山陽道は義仲が不法に占領している。法皇以下の国司は、役人として一切の職務の遂行が出来ない。東山道や東海道は頼朝が上京する以前なので、通行や、国の長官としての職務(徴税)の遂行が出来ない。京都周辺諸国の近辺の所領は、田畑の段歩なども残らず刈り取られた。又京都市内や周辺の神社・仏寺・人屋・在家を全て追捕した。その他運良く京都に届いた処の庄園や公領の運上物も、多少にかかわらず、身分の高低を選ばず、全て皆横取りした。この災難は、市中にも達し、この頃は売買など商売も出来ない」と。
 どうして神様や仏様は何の罪も無い庶民を見捨てるのだろうか。やれやれ嘆かわしいことだ。
「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
 このような災難は、法皇の特に好む処の乱れた政治と源氏の奢(おご)りや法令を順守しない悪行より出たものである。このようなとき、天下のことを思う忠臣や、俗世のわずらわしさを逃れる聖人なども、それぞれ過分の不慮の災難に遭う。これでは素直に成仏出来ない。哀しむべきはただ前世の所業の善悪のみか。

九月四日 陰晴未定「義仲の処に落書あり」
 前源中納言雅頼卿が来た。世上の事等多く以て談説した。去る日、義仲の処に落書が有った。すなわち義仲の所行の不当・非道等、全て詳しく説明し記した。

九月五日 雨下る、「平氏の余勢減ぜず」
 早朝、ある人言う。「平氏の仲間の勢力は全く減少しない。四国並びに淡路・安芸(あき、広島県の西部)・周防(すおう、山口県東部)・長門(ながと、山口県西部・北部)並びに九州の諸国の全部が加勢した。旧主崩御(ほうぎょ)との事が風聞した。誤りの説という。今、周防の国に在る。但し、国中には皇居に適した家が無く、よって船に乗り波の上に浮かぶという。貞能以下、九州武士の菊池・原田たちが皆味方した」と。
「九州に内裏を立てんとすという」
 「九州の皇居から、すでに出発し、進軍するに随い京都に入るだろうという。明年八月に上京しようと用意している」と。これらは皆風説ではない。
「京中の万人存命不能」
 「近頃、京都市内の物取りは、今一層倍増した。どんな小さな物も外に持ち出す事も出来ない。京都市内の全ての人が、今や、一切生き永らえる事が出来ない。義仲軍は法皇の御領以下でも不法な横取りが日々倍増した。おおむね、僧も一般人も、身分の上下にかかわらず、みな泣いている。
「頼朝の上京を頼みとす」
 頼む所は、ただ頼朝の上京のみ」と。彼の賢いか愚かなのかもまた暗に知り難い。ただ我が朝廷の滅亡は、すでにその時に至るか。法皇は敢えて国家の乱亡を知らずに、近日、大型の建築工事を始めるという。法皇御所中の上下の人々は嘆息のほか無きか。誠に仏法・王法滅尽の秋である。
 (解説) 九月五日までは、義仲や源氏軍の乱暴があり、治安が悪いと記述している。九月六日以後には治安が悪いとの記述は無い。治安は回復したようだ。

九月二十日 「義仲が逐電す」
 夜に入り、人が伝え言う。「義仲が今日、にわかに逐電し、行方知れずになった。郎従等は大騒ぎとなり、法皇御所中もまた物騒」と。
 (注) 逐電(ちくでん)・・・素早く逃げて行方をくらますこと。

九月二十一日 「義仲の逐電は平氏追討のためという」
 伝聞、義仲は一昨日、法皇御所に参り、御前に招かれた。法皇の御言葉に「天下は静かならず。また平氏は勝手気ままに振る舞う。毎事不都合である」と。
 義仲は申し言う、「向かう事が出来れば、明日、早朝、必ず向かいます」と。すぐ法皇は手づから剣を取り、これを与えた。義仲は剣を受け取り、退出した。昨日、突然に下向したという。

九月二十三日 曇り晴不定「義仲は行家を避ける」
 定能卿が来た。雑事を談じた。人が伝え言う、「行家を追討使として派遣するのがよろしいとの事を、法皇より再三義仲に申し付けた。義仲は決定を申さないで、突然に逃げるように退出した。行家をやりこめる為」と。

九月二十五日 雨下る「頼朝は文覚を以て義仲を叱責す」
 伝聞、頼朝は文覚聖人を介して義仲たちを叱責したという。これは追討を怠け、さらに京中を損ずる為という。すぐ聖人に陳述を持たせ派遣したという。

十月二日 「頼朝は三ケ条の事を院庁官に付す」
 ある人が言う。「頼朝が申請した三ケ条の事は、
一は平家が横取りした神社仏寺の荘園領地は、確実に元の本社本寺に戻すよう、天皇の命令を下さるのがよろしい。平氏の滅亡は、神仏の加護によるとの理由です。
二は法皇、皇族、公家諸家の荘園領地も、同じく平氏が多く横取りしています。これも又元の主に返されて、臣下の心配を取り除くのがよろしい。
三は降参して来る武士たちは、おのおのその罪を許し、死刑にするのは不適当である。その理由は、頼朝は昔、罪人の身でしたが、命を完全に保つことにより、今や天皇や法皇の御敵を討伐する任務に当たります。今又降参して参る者の内で、自らこのような例が有るかもしれません。よって身を以てこれを思うに、敵軍なりといえども、降参して来る者はその罪を許し、助命するのがよろしい。この三状を文書により申し上げます」と。
一つ一つの申し条は義仲等とはかなり異なるものである。
 (解説) 神社、仏寺、法皇、宮家、公家諸家の領地、荘園は北陸、関東にも多かった。平家その他に横取りされた領地を元に返すと甘い餌をまいた。喜んだ法皇や公家は寿永二年十月宣旨で頼朝に関東の支配権を与えた。

十月八日 天晴「頼朝、義仲への不満」
 伝聞、一昨日、頼朝が飛脚を進上させ、義仲らが頼朝を伐つべき用意する事に不満を申したという。(高階)泰経卿の処に文書を送るという。
 また聞く、平氏等は九州に入ろうとした処、猶在地の武士等を恐れ、又周防(すおう、山口県東部)国に戻ったという。

十月九日 天晴「頼朝たちまちに上京出来ない故を申す」
 静賢法印が来て、世間の事を話した。「頼朝が使者を送って来た。すぐ京都へ上るのは不適当である。
 一は京都へ上る跡に陸奥の藤原秀衡や関東の佐竹隆義等が鎌倉へ攻め込む恐れがある。
 二は数万の軍勢を率いて、京都へ上ると京都市内の兵粮が不足し堪えることが出来ない。
 この二つの理由により、京都へ上るのは延期するという。
 およそ、頼朝の為体(ていたらく、風体)は威勢厳粛、其の性は強烈、成敗は明らか、理非を断決する」という。
「志田義広の上洛を欝申す」
 今度、使者を進上し、不満を申す処は、「三郎先生志田義広(本名義範)の上京である。叉義仲等は平氏を追わず、朝家を乱した。尤も奇怪である。しかるに忽ち賞を行われた事はおおいに理由が無い」という。申し状等にその道理は有るか。この他多くの雑事を談じた。詳細には記録し尽くせない。
 伝聞、義仲は播州(ばんしゅう、播磨、兵庫県西南部)に滞在し、もし頼朝が上京するならば、北陸方へ逃げるように、もし頼朝がすぐ上京しないならば、平氏を討つように用意するという。
「頼朝本位に復す」
 叉、頼朝が罪人扱いから元の兵衛佐(ひょうえのすけ)に復帰する命令を下されたという。
 (解説) 現在、京都に駐在している義仲軍は食糧調達を追捕(ついぶ)もしくは諸国への兵粮米徴収によっている。そこへ鎌倉軍が入り重ねて食糧調達のための追捕もしくは諸国への兵粮米徴収をしたら、京都市内の食糧が不足し堪えることが出来ない。もし鎌倉軍が持参する食糧のみで間に合い、追捕をしないならこのような事は言わないはずである。義仲軍と同様の追捕方式で進軍しようとする証拠である。つまり、当時の大軍の遠征で食糧調達のための追捕は当然の軍事活動であった。頼朝は反抗した志田義広への不満を抱いているようだ。また頼朝は約二十年前、兵衛佐(ひょうえのすけ、兵衛府の次官)だったが、平治の乱の結果、死罪になる処を運良く助けられ流罪となっていたが、それを解除し、復職した。

十月十七日 天晴「義仲の勢無し」
 伝聞、義仲の軍勢の中の少数の部隊が備前(びぜん、岡山県南東部)国を超えた。しかるに備前国と備中(びっちゅう、岡山県西部)国の在地の武士たちは軍勢を起し、皆全て伐り取った。すぐ、備前国を焼き払い帰り去ったという。又聞く、義仲の軍勢はあまり多くないという。

十月二十三日 天晴「俊尭僧正の諌言(かんげん)により法皇は二国を義仲に賜う」
 ある人が言う、「義仲に上野・信濃を与えるのがよろしい。北陸を横領するのは不適当であるとの法皇の御言葉が伝えられた。又頼朝の処へも、件の両国を義仲に与える。和平するように、御言葉が伝えられたという。この事、ある下級職員の申し状により、俊尭僧正が一昨日、御持仏堂の行事の時、法皇御所に参り、この事を法皇に申し上げた。「よし」と言い、すぐ僧正の諌言(かんげん)に従い、この綸旨(りんじ)を降されたという」。この事は愚案である。一切不可能である。およそ国家滅亡の満願、ただこの事に在る。嘆かわしい。
 (注)綸旨(りんじ)・・・蔵人が勅命を受けて書いた文書。

十月二十八日 天晴「頼朝は十一月頃入京か」
 伝聞、頼朝は去る十九日に出陣した。来たる十一月一日に入京するだろう。これは確定の説という。
「義仲は頼朝と雌雄を決すという」
 又、義仲は去る二十六日(あるいは二十八日つまり今日である)出国した。来月四・五日の間に入京する。頼朝と雌雄を決する為という。これにより法皇御所中以下、天下の人々皆あわただしいという。人々皆言う処有りか。恐ろしいことだ。

閏十月一日 天晴「日蝕」
 この日、日蝕である。
「時刻が勘文(上申書)に相違す」
 (予定時間と約四時間の差があった)。(天文博士の)上申書の記載によると、午前八時に欠け始め、十二時頃に復するという。しかるに十二時頃欠け始め、午後四時頃に復した。計算違いか。先々時刻相違するといえども、今日、特に上申書と異なった。これを尋ねなければならない。日食の御祈りの僧徒を別室に控えさせた。
 (解説) 倉敷天文台の館長を務めた人や、その他の解析によると、この日の日食は金冠食だったようである。この日は「水島合戦」の日である。日食がある事を義仲軍は知らなかったが、朝廷には天文博士がいて、日食がある事を上級貴族には知らせていた。平家軍にも識者がいたかもしれない。日食は不吉とみなし、御祈りの行事をしていた。

閏十月二日 天晴「平宗盛は降伏の使者を義仲に遣わすという」
 午後四時、頭弁藤原兼光が来た。語り云う、「平氏は始め九州に入ったが、在地の武士等が善しと取り上げないので、逃げ出して、長門(山口県北西部)国に向かう処、又国中に入れず、よって四国に押し寄せた。平貞能は出家し、西国に留まる」と。この事は周防・伊予両国より飛脚が進上し申したという。
 又、ひそかに義仲は兼光の処に使いを送る。その男の説の如く相違無し。その上申し言う、「前内府(平宗盛)の処より義仲の処に使者を送り言う、今に於いてひとえに帰降するのがよろしい。ただ助命を欲す」という。この上、三種の神器を支障無く、迎え取り奉られ難き事、第一の大事である。次第の指図又以て説に背くか。

閏十月六日 天晴「頼朝は上京成り難し」
 伝聞、頼朝の上京は困難の間、その実はよろしく無いという。又、義仲は今二・三日の間に帰京するだろう、又滅亡するだろうという。

閏十月十三日 天晴「平氏は讃岐(香川県)の国に」
 晩になり、太夫吏隆職が来た。世間の事を話した。「平氏は讃岐(香川県)国に在る。或る説に女房の船に主上(安徳天皇)並びに剣爾を御乗せし、伊予(愛媛県)国に在る。但しこの事は未だ実説を聞かない」と言う。
「頼朝は義仲と和平すべし」
 又語り云う、「法皇のお使いとして庁官の泰貞が、去る日再び頼朝の処へ向かった。御言葉の趣旨は、特別な事無く、義仲と和平せよとの事である」と。
「頼朝の申請により東海・東山道の荘園公領を本ののように領知すべき宣旨あり」
 そもそも東海・東山・北陸三道の荘園・公領は、元のように領知するのがよろしいとの事、宣下されるのが適当であるとの事、頼朝が申請した。よって宣旨を下された処、北陸道だけは、義仲を恐れて、その宣旨を下されなかった。頼朝はこれを聞くと定めて不満に思うだろう。おおいに不都合な事である。この事未だ聞かず。驚き思うこと少なからず、少なからず。この事に、大夫史隆職は不審に耐えず、泰経に問う処、答えた。
「義仲を恐るるにより北陸道は入らず」
 「頼朝は恐れるのは当然だが遠方にいる。義仲は現在、京にいる。討伐の恐れが有る。よって不当といえども、北陸道を除かれた」という。天子の政事が、どうしてこのようなものか。小人が近臣となり、天下の乱は止むだろうとの期待は無いか。

閏十月十四日 天晴「平氏の兵強し」
 午後四時、人が告げて言う、「平氏の兵は強く、官軍の前陣は多く敗れた。よって播磨(はりま、兵庫県西南部)より更に義仲は備中(びっちゅう、岡山県西部)に向かうとの風聞があった。よって又御使いを派遣して上京を制止された。承知したとの事を申した。しかるに、たちまちに上京した。今夕から明朝の間に入京するだろうとの事である」。昨夕に飛脚が到来した。
「京中騒動す」
 その後、法皇御所中の男女は上下あわてふためき極まり無く、あたかも戦場に交わるようだという。その事を聞きつけて、京中の人屋では、昨夜から今朝の間、荷物を東西に運び、妻子を片田舎に送り、万人は色を失ない、一天の騒動は、敢えて云う事も出来ない。私は遅くこれを聞き、使いを(藤原)範季(院の臣)に尋ね遣わす処、すでに事実であるという。

閏十月十五日 夜より甚雨、終日止まず 「義仲が入京す」
 今日、義仲が入京した。その軍勢は甚だ少ないという。

閏十月十六日 「義仲が法皇御所に参る」
 今日、義仲が法皇御所に参入した。色々の御言葉を頂き、又申し上げたという。詳細これを尋ねるのがよかろう。

閏十月十七日 曇り「義仲の法皇への申状」
 静賢法印が内密に報告してきた。昨日、義仲は法皇御所に参り、申し上げた。「平氏は一旦勝ちに乗るといえども、事態は不安になることではない。九州の者に、平氏に味方するのは不適当であるとの御言葉を伝えた。又山陰道の武士たちも備中(びっちゅう、岡山県西部)国にいる。さらに恐れる事はない」という。
「頼朝の弟が上京という」
 又「頼朝の弟九郎(源の義経、実名知らず)が大将軍となり、数万の軍兵を引率し、上京を企てるとの事、承知する処である。その事を防ぐため、急ぎ上京した処である。もし事一定ならば行き向かうのが当然である。事実でないならばこの限りではない。今二・三日の内に、その指図を承るのが当然である」という。以上、義仲の申し状である。只今の処、外聞に出来ない。密かに報告する処という。平氏は案ずる事は無いとの事申し上げの件、はなはだ漠然として要領を得ない事か。
「秀衡は東西より頼朝を攻むべき旨を義仲に示すという」
 ある人が言う、「頼朝の郎従たちが多く秀衡の処へ向かった。よって秀衡は頼朝の士卒に異心が有ると知り、内々に飛脚を派遣して義仲に伝えた。この時、東西より頼朝を攻めるのが良いとの事という。この報告を得て、義仲は平氏を無視して、迷いながらも帰京した」という。このような事、事実か否かは知り難き事だ。

閏十月十八日 雨晴「四方皆塞がり」
 晩になり、範季が来た。世上の事を談じた。この次、くだんの男が言う、「四方皆塞がり、中国の上下は、すべて餓死するだろう。この事一切疑ってはならない。西海は、謀反の地では無いといえども、平氏は四国に在り、交通が出来ないので、又同じ事である。
 加えて義仲の考えは、君(法皇)がひたすら頼朝を強く頼り、ほとんど彼を使って、義仲を殺そうとするかの事、偏った推量を成すか、将に告げ伝える人が有るかということだ。このような間、法皇を怨みなされ、兼ねて又、御逐電の事を疑う。これによりたちまち大敗して今までの功績を失なった官軍を捨てて、迷い上京する所である。しかれども、たちまち平家を討つ事は不可能である。
「法皇は自ら西国に赴かんとす」
 平氏はなお西国に存在するので、西国からの運上は、又不可能である。よって平氏を討ち果たす為、さらに義仲の遺恨に妥協するため、法皇の御考えより起り、早く西国に御向かいするのがよろしい。ただ先ず、播磨(はりま、兵庫県西南部)国にお出かけ有るのがよろしい。しからば南・西国等の在地の武士たちが皆風に向かう子のごとく来るだろう。その時、九州の軍勢を出発させ、平氏を征伐するのがよろしい。以後、お帰り有るのがよろしい。この他、およそ他の計略は無いという。すぐこの旨を泰経に伝えた。泰経は感心し、又静賢法印に伝えた。静賢も心にとどめて忘れない。しかるに未だこの事は法皇の御耳に達していない」という。
「西国臨幸は頼朝にそむく恐れあり」
 私が、これを思案するに、立つ処の次第、その道理はその通りか。但し、もし西海にお出かけ有れば、ひとえに義仲等に利用され、頼朝に相反する事が決定してしまうか。この天下は猶一日といえども、頼朝が執権するだろうの運有るかとの事、素より思案する処である。それなら偏えにかの頼朝を変ぜられる事、尤も思慮するのが適当である。愚意の考え、只道理を以て御言葉を聞かれ、かれこれ神仏に祈請し、決してこの武士たちを恐れず、正道を天下に行われば、多くの人の災難は消えるだろう。只先ず、猶平家を討つのが当然である事、義仲に命じられ、別の使者を頼朝の処に詳細な御言葉の使いを派遣するのがよろしい。義仲の意向のままに御下向の事は、猶王者のふるまいではない。然れども口外は出来ない。範季の議案は少人の考えである。嘆かわしい世である。

閏十月十九日 「義仲は法皇以下を奉じて北陸に向かうとの風聞」
 有る人が言う、来たる二十六日、御遠行有るだろうという。これは昨日、範季が話した所の意見か。まさに又義仲は、法皇以下の主要な公卿等をお連れし、北陸に向かうだろうとの事が風聞した。この両事の間か。およそどうする事も出来ないという。

閏十月二十日 天晴「静賢が法皇の使として義仲亭に向かう」
 早朝、大外記頼業が来た。昨日の呼び出しによる。粗く教え命ずる事有り。申す所当然である。
 今日、静賢法印が法皇のお使いとなり、義仲の家に向かい、御言葉を伝えた。「その心は説(よろこ)ばざるとの事お聞きなされた。詳細はいかに。身の暇を申さず、突然に関東に下向するだろうという。この事等驚き思いなされる所である」ということだ。
「義仲は十月宣旨のことにつき遺恨を申す」
 申し言う。「法皇を怨み奉る事は二ケ条あります。
その一は、頼朝を頼り御招きする事、よろしくないとの事申すといえども、御承引無く、猶以て御招きの使いを派遣された。
その二は、東海・東山・北陸等の国々に下された所の宣旨に、もしこの宣旨に従わない者は、頼朝の命に従い追討せよ、という。この事は、義仲は生涯の遺恨である」という。
「頼朝軍を防がんとして義仲は東国に赴くという」
 又「東国に下向の件については、頼朝が上京すれば、迎え討ち、一矢射るだろうとの事、もとより申す所である。しかるに、すでに数万の精兵を差し上げ、(その身は上らず)上京を企てたという。よって防衛のため下向しようとした。更に驚き思いなさる事ではない。そもそも法皇をお連れなさり、戦場に臨むだろうとの事、議論し申すとの事お聞きなされた。返すがえすも恐れ申す。極まり無き無実なり」と言う(以上は義仲の申し状)。
 静賢法印は帰り、御所に参り、この事を申し上げようとする処、御行法の間により、申し入れる事は出来なかった。そのような間、義仲は重ねて使者を静賢の処に伝え送り言う、「猶々、関東へ御出かけの事、特に恐れ申す。早く取り次ぎ申し上げの人を承るのが当然である」という。
「源氏一族は義仲宅に於いて会合す」
 くだんの事は、昨日、行家以下の源氏一族等が義仲宅で会合し、議定の間、法皇をお連れなさるのがよろしいとの事、その議案が出て来た。しかるに行家・光長等は、一切よろしくない。もし、この議案を実行するならば、違反するとの事、激論の間、その事は成立しなかった。
「源行家は密かに委細を天聴に達せしむ」
 事の詳細を、行家は法皇の耳に密かに伝えたという。義仲は無実を申した。定めて偽りか。恐れを為す。兼ねて又義仲は特に申請の事があるという。頼朝を追討せよとの事、一行の証文を頂き、東国の郎従等に見せたいという。この事すでに大事である。どうする事も出来ないという。
「平氏は優勢」
 又伝聞、平氏の党類は、九国を出て四国に向かう間、甚だ弱勢だった。しかるに今度、官軍が大敗して今までの功績を失なう間に、平氏はその勢力を増して、勢いは甚だ強盛となり、今では、すぐ追伐は出来ないという。しかるに義仲等は甚だ安平との事を申した。これ又偽言という。天下の滅亡は只今の処、来月に在るか。

閏十月二十一日 雨降る「頼朝追討の院宣を義仲請う」
 義仲の所望の二か条は、頼朝を討つのがよろしいと事の御教書(みぎょうしょ)を頂く事、並びに宣旨の趣は、御定めに無いという事で、奉行の人は、いささか叱責有るのがよろしいとの事で、共に許さないという。
 およそこの二か条の望みは、太いに不当である。許容が無い事、尤もその理由有りか。
 あるいは言う、平氏は、すでに備前(びぜん、岡山県南東部)国に到来した。おおむね美作(みまさか、岡山県北東部)以西は全部平氏になびいた。殆ど播磨(はりま、兵庫県西南部)に達したという。疑う事は、もし義仲と平氏は同意かという。
「基家の逐電は義仲を恐れる」
 又言う、(藤原)基家卿が逐電したという。頼盛の聟なので義仲は遺恨が有るという。その事を恐れて隠居したか。

閏十月二十二日 天晴、「頼朝の使者は伊勢(三重県)の国に来る」
 伝聞、今日、義仲が法皇御所に参上した。又聞く、頼朝の使いが伊勢(三重県)国に到来したといえども、謀反の事ではない。
「先日の宣旨を施行せんが為なり」
 先日の宣旨を言う、「東海・東山道等の荘園や公領に、服従しない者があれば、頼朝に伝え、指図せよ」と。よって、その宣旨の施行のため、且つ国中にお言葉を知らしめる為、使者を派遣する処であるという。しかし国民等は義仲の郎従等の暴虐(ぼうぎゃく)を憎み、事を頼朝の使いに寄せ、鈴鹿山を切り塞ぎ、義仲・行家等の郎従を射たという。
「義仲の郎従等を伊勢(三重県)に派遣す」
 これにより、義仲は郎従等を伊勢(三重県)国に派遣した。

閏十月二十三日 天晴「義仲は三ケ条の事を法皇に奏す」
 十二時、静賢法印が来た。語り言う。「昨夜、義仲が法皇御所に参り、静賢・泰経等を介し取り次ぎ申し上げた。その申し状に言う、先ず法皇を御連れし、北陸に引き籠もるとの事が風聞した。もっての外の無実で、恐れ極まり無き事である。この事は連携する所の源氏等(行家以下を指す)が取り次いで申し上げる所か。返すがえす恐れ申す。早く証人を承るのがよろしい」という。
「志田義広を以て平家を討たしめんと欲す」
 次いで、現在、平氏の追討使がいないので、尤も不都合である。三郎先生義広を追討使としたい。さらに又平氏の入京を恐れるため、法皇御所中の上下、京下の貴人も市民も、資材を運び妻子を隠すなど、おおいに穏便ではない。早く御制止有るのがよろしい。この三ケ条である」という。
 お言葉に言う、「先ず法皇を御連れなされる事、全く源氏等の取り次ぎ申し上げではない。只世間が普く申す為に御聞きなされた所である。然れども全く御信用は無いので、指図の必要がない。次いで義広を追討使にしたいとの事、御言葉切られるといえども、頼朝が特に遺恨が有る者かということである。静賢又言う、実に法皇をお連れなさるとの事は、必ずしもよろしく無い事である。事の道理が無く、又その必要も無い事である。
「義仲に遺恨を存する輩あり」
 只、毎事、腹を立て恨み許さないので、もし北陸に逃げ籠る時、遺恨を持つ者は、武士や法皇の近臣など、自ら怨みに報復するか。そうであるならば定めて物騒しいかと。武士の中には、葦敷重隆が特に遺恨を持つという。又、法皇の近臣の泰経のように、同じく内々に怨むという。そうではあるが、その恐れは、他人には達し無いという。又言う、かの宣旨の趣の事、定長が命令を伝え、兼光が命令を下したという。兼光に問われる処、すぐ改め直した。しかるに直す前の宣旨を聞いたのか。全く用いられない事である。その事を義仲に伝えられるのがよろしいとの事、兼光が申すという。久しくありて帰り出でた。
 伝聞、義仲の郎従等の多くは伊勢(三重県)国・美濃(岐阜県南部)国等へ派遣した。京中の軍勢は少ないという。尹(いん)明が語り言う、平氏は再び繁盛するだろうとの事、衆人の夢想等が有るという。範季が申し言う、昨日、義仲に会った。申し状の
如くなら、謀反の事は無いという。

閏十月二十四日 天晴「義広に備後国を賜い追討使とすべき事を義仲主張す」
 伝聞、義仲は法皇に重ねて申し上げた。義広を派遣して平氏を追討するのが適当であるとの事、申請を許されないとの事、未だその同意を得ない。猶まげて義広を派遣したい。兼ねて又備後(広島県東部)国をかの義広に与え、その勢力を使い平氏を討つのが適当であるという。
 法皇の御言葉に言う。全く許さない事はない、義広は強者ではないと聞いていた。よって不可能と思い、すぐ命じないのである。しかれども猶適任との事、考え申すなら、異議は無い。国事又お聞きなさる。但しすぐに宰吏(国司)に任命する事は出来ないという。
 奈良僧正(信円)が書札を送り言う、「法皇より内密に呼び出し有り。よって明日、ちょっと上京するだろう」と。

閏十月二十五日 天晴「頼朝、相模鎌倉城を起つも秀衡の襲来を恐れ参京せず」
 伝聞、頼朝は相模の鎌倉の城を立ち、暫く遠江の国に住むだろう。これを以て精兵五万騎(北陸一万、東山一万、東海二万、南海一万)が義仲等を討つだろう。その事を指図する為という。当然その身が上京するのが当然である処、奥州の秀衡が同じく数万の軍勢を率い、すでに白河の関を出たという。よって彼の襲来を疑い、中途に逗留し、形勢を伺うだろうという。去る五日鎌倉の城に赴くという。

閏十月二十六日 天晴「義仲、興福寺に頼朝討伐を語らうも衆徒は承引せず」
 伝聞、義仲は猶平氏討つのが当然であるとの院宣が有り。ねがいに承諾したという。又聞く、義仲は興福寺の衆徒(僧兵)に伝えて言う、頼朝を討つ為に関東に行こう。同行しようという。衆徒は承引しないという。

閏十月二十七日 天晴「行家は来月一日に進発すべし」
 夜に入り、武者が来て言う。源氏の武者で源義兼・石河判官代と言う。故兵衛尉義時の孫で判官代義基の子である。「平氏を討つため、行家は来月一日出陣する。彼に同行する為、明日、先ず河内(かわち、大阪府南東部)の所領に向かう」。
「義仲と行家は不和」
 その次語り言う、「義仲と行家すでに不和である。果たして不快な事が出で来たるか。返すがえすも不都合である。その不和の理由は、義仲が関東に向かう時、同行するように行家に伝えた。これを辞退するの間、かねてから頗る不快の上、この二・三日は特に言い争いの状況である。その間に行家は来月の一日に下向が決定した。
「義仲その功奪わるるを恐れて行家に具して下向せんと欲す」
 義仲又その功績を行家に奪われない為、連れだって下向するだろうとの事が風聞した。只今の処は、外相は悪しからずといえども、その実、必ず相互に隙を指すか」という。又云う、「行家は頼朝に立ち会いするのが不適当であるとの事、内々に議した」という。

閏十月二十八日 「行家・義仲等は征伐のため下向」
 伝聞、行家・義仲等は征伐のため下向する。来月一日は法皇の御衰日(すいにち、不吉な日)の為に延期し、或る説では二日、或いは八日という。

閏十月二十九日 「信円が法皇に召さる」
 この日、奈良僧正(信円)が来られた。去る二十五日夕、上京された。法皇の招きによるという。よって二十七・八日の二日参上した。
「大和(奈良県)国兵士を平家追討に遣わすためか」
 そのようにはに全く特別の命令は無いという。大略、大和(奈良県)国の兵士等を招集し、平氏の強者に用意せられるように、指し派遣するのが適当である故という。
 始めて衆徒を招集すのが適当である事の命令が有った。しかし大衆を発すれば、悪僧等が力を得るは必定である。乱行や非道を致すか。
今は、随分と奔走し、特に大衆の狼藉の聞こえは無い。今この院宣の趣旨を聞き付ければ、衆徒の濫吹は全く制法に対抗出来ない。この事重ねて御言葉により、指図致すのがよろしい。後日の恐れの為詳細を申す所なりと。重ねて御言葉に言う、申す所尤も当然である。大衆の事、重ねて御定めに従うのがよろしい。
「寺家より末寺荘園の兵士を催すべし、其の用意致すべし」
 先ず只寺家の力により末寺荘園の兵士を招集し、その用意をせよという。
「法皇と行家が双六の間信円空しく退出す」
 先ず二十七日参上の処、行家と御双六の間、他事無し。見参に入ろうとしたが、空しく退出し、昨日参上し御言葉を頂いたという。御堂御八講の次、又上京するのがよろしいとの事を伝えた処である。すぐ下向された。今度は入道関白(基房)の処へは参らなかった。その余裕が無いためという。

十一月一日 曇り「法皇の御衰日により追討使進発延引す」
 この日、義仲・行家等は平氏を討つ為、出陣するはずだったが、たちまち延期した。法皇の御衰日の為だという。来たる八日に出陣するだろうという。

十一月二日 天晴「義仲は法皇御所に参る」
 ある人言う。今日、義仲は法皇御所に参るという。

十一月四日 天晴「頼朝代官が不破関に着く」
 伝聞、頼朝の上京は中止が決定した。代官の入京である。今朝という。今日、布和の関に着くという。先ずこの事を申し上げ、御定めに従い上京するだろう。義仲・行家等は相防ぐについては、法に任せ合戦するのが当然である。そうでなければ「過平?」の事、有るべからずの事御相談されたという。

十一月五日 天晴「義仲、頼朝の軍兵と雌雄を決すべし」
 伝聞、来たる八日、行家は九州に下向と決定した。義仲は下向しない。頼朝の軍兵と雌雄を決するだろうという。

十一月七日 曇り「義仲を法皇御所中警護の人数に入る」
 伝聞、義仲は征伐せらるのが適当であるとの事により、特に用心し不安のあまり、このように承りなさるとの事、法皇に申さしむという。よって法皇御所中の警護の武士中に入れられ申したという。行家以下、皆全てその宿直を勤仕した。しかるに義仲一人その人数に漏れるとの事、特に奇を成すの上、又告げ口する者が有るか。行家は明夕に必らず下向が決定したという。
 頼朝の代官が今日、江州に着いたという。その軍勢は僅か五・六百騎という。たちまち合戦の事は無い。只、法皇に供物のための使いという。次官中原親能(広季の子)並びに頼朝弟(九郎)らが上京したという。

十一月八日 天晴「平氏追討のため行家が二百七十余騎進発」
 今日、備前守源行家が、平氏追討の為に出陣した。見物者が語り言う、その軍勢は二百七十余騎という。おおいに少なしと為す。どうしたものだろう。
 今日、義仲すでに打ち立ち、只今乱に逢うかの事のようだ。法皇御所中以下、京都の諸人はどの家も騒ぎ立てた。

十一月十日 曇り「頼朝の使い。九郎」
 伝聞、頼朝の使いが供物のために江州に着いた。九郎は猶近江に在るという。澄憲法印を御使いとなし、義仲の処に遣わした。頼朝の使いの入京は、不案に思う事は無いとの事という。喜ばない気色有りといえども、ねがいに承諾か。軍勢が少ない場合は、あえて相防ぐ事は出来ないと申すという。

十一月十三日 雨下る「義仲、頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」
 藤原季経朝臣が来た。語り言う、法皇御所の庁官康貞が、一昨日上京したという。ちまたの説に言う、秀衡は頼朝を追討するだろうとの事、院宣が有る旨、義仲は秀衡の処に教え遣わし、秀衡は件の証文を以て康貞に付き進覧したという。但しこの事は定めて浮説かという。追って尋ね聞かねばならない。
「今朝、行家は鳥羽を出発」
 今朝、行家は鳥羽を出発したという。

十一月十四日 天晴「平氏に使いを遣わし勅命を以て神器を返還せしめんとす」
 午後四時、頭弁兼光が法皇の御使いとして来た。御言葉に言う、「三種の神器、城を出て外に在り、わが朝の大事これに過ぎたるなし。よって試みに御使いを派遣し、誘うに勅命を以てするのはどうだろうか」。この事は天下の変が有った時、人々は議論し申し上げ、あらかじめその指図が有りといえども、自然に年月を送る。
 しかるに去る九月の日、前内大臣(宗盛)が法皇に書を上げた。その書状に言う、「臣(宗盛)は全く君(法皇)に背き奉る意志は無し。事態が意図しない事となり、あわてふためき、旧主(安徳天皇)は、当時の乱を逃れるため、お連れなされ京都外土に都落ちした。この上の事、偏に法皇の御考えに任すのが当然である」という。この書状のようなら、いよいよ和親の事を表し、彼の三神を迎えなさるのがよろしい。
 しかるに義仲が追討の時、官兵は大敗して今までの功績を失ない、この時に臨み、御使を派遣されるのは、辺民の愚である。恐らく士卒の弱勢にへつらいによるとの事を思うか。この事いかに。能く思量し計らひ申し上げるのがよろしいということだ。申し言う、この事は安徳天皇が都落ちの時に、速やかにこの論議有るのが当然である。しかるに延びて今になった。
 おこたる事、悔いて益無し。況や彼の漏達の趣あるに於いてをや。御使いを派遣される事に異議は無い。そもそもかの報奏の旨、密かにして豫議有るのがよろしい。遠境の間、御使い更に帰参の後、重ねてその事有らば、なまける処、自ら変る事有るか。よって知恵の到達する所、然も議定有り、御使いに言い含められるのが適当である」ということだ。
 兼光は言う、摂政(基通)が申された。「御使いの上、自筆の書を女院(建礼門院平徳子)に献上されるのがよろしい。疑いを殆ど避けるためである」。左府(経宗)申されて言う、「御使い二人有るのがよろしい」という。私は言う、「この事は共によろしい。そもそも器量の人を撰び、その人を献せられるのがよろしい」ということだ。兼光は退き帰った。

十一月十五日 天晴「義仲は頼朝代官の入京を承伏す」
 夜になり宰相(藤原定能)中将が来て院中の事を語った。「武士の守護は、毎日怠らないという。院中の上下の人々は感心する者、或いは感心しない者、両様である」という。又云う、「頼朝の代官九郎、入洛するのが適当であるか否か。おおいに議論が有った。大略は進上する処の物並びに使者等、帰国するのが適当である様にその指図があった。そのような間に、又問題が出て来た。澄憲を介して重ねて義仲の処へお言葉を伝えた処、その軍勢が少数ならば、入京を許すのがよろしいとの事、願いに承伏した」という。
 又言う、「只今、主典代景能が来て入る。頼朝の処に派遣した御使いである。この一両日に入京したという。よって頼朝の申し上げの趣旨を問う処、大略は御返事を申すまでもなく、専ら悦ばない気色が有る。詳細については、始めの御使いの庁官康直に申した。今の御言葉は只前と同じである。早く帰参せよという。あえて饗応の気は無く、殆どいきどおると謂ふのが適当であるか」という。

十一月十七日 雨下る「京中騒動」
 夜明けのころ、人告げて言う、法皇御所中に武士が群集した。京中は騒動という。何事かを知らず。
「義仲が法皇御所を襲うとの事、法皇御所中に風聞あり」
 しばらくありて又人言う、義仲は法皇の御所を襲うだろうとの事、法皇御所中に風聞した。
「法皇が義仲を討たるか」
 又、法皇より義仲を討たれるだろうとの事が彼の家に伝聞した。両方が偽詐を以て告げ言う者有るか。このような浮説によって、彼是騒ぎ立てた。敢えて言うべからずという。もし勅命に背くなら、罪の軽重に従い、罪科を行われるのが通例である。又たとい王化に服従しない者有りといえども、一州を占領し、外土に引き籠もる、おおむね先例は有る。未だ京中の至近の間で、このような乱が有るのは聞いた事が無い。この事は謀(はかりごと)である。義仲がたちまちに国家を危うくする理由はない。
「君が兵を集むるは志愚の政なり」
 只、君(法皇)が城郭を構え、兵を集め、人々の心を驚かされることは、専ら愚かな政治の結果である。是は少人の計より出たか。果たして以てこの乱有り。王政の軽きは、是非を論ずるまでもない。やれやれ嘆かわしい。午後になり、いくらか落ち着いたという。
「義仲の処に法皇の使者を遣わす」
 主典代(大江)景宗が御使いとなり、義仲宅に派遣された。その書状に言う、謀反の件、争い申すといえども告げ言う人は事実と言う。今では逃れ申す事は出来ない。
「義仲の京中に逗留するを勧めず」
 もし、無実なら、速やかに勅命に従い、西国に向かい行き平氏を討つのが当然である。たとい又、院宣に背き、頼朝の使いを防ぐといえども、宣旨を願い申さず、一身のみ早く向かうのが当然である。京中に在りながら、場合によっては天子の耳を驚し奉り、諸人を騒がせるのは、おおいに不当である。なお西方に向かわず、京都に逗留するならば、風聞の説が事実として処理されるのが当然である。よく思量して進退せよという。その報奏の趣旨は未だ聞いていない。
「兼実は使者を以て物騒の詳細を法皇御所中に尋ねる」
 私は使者の国行を法皇御所に進め、定能卿に伝え送り言う、病気のため早く参入出来ない。物騒の詳細を詳しく告示されよという。返事の趣旨は、概ね風聞と同じだ。 晩になり、左少弁光長が来て話した趣旨は、又前と同じである。この夜、八条院(暲子内親王)は八条殿に御帰りという。おそらく、明朝、義仲を攻められるだろうという。何も出来ない。
「義仲の勢は僅かといえども勇なり」
 義仲の軍勢は多くは無いといえども、その集団は、おおいに勇敢であるという。京中の征伐は、古来より聞かない。もし不慮の恐れ在らば、後悔はどうであるか。
「近習小人により此の如き大事に至る」
 小人等が近習の間、遂に此の大事に至る。君(法皇)の人士の器量を見る目が無い結果である。日本国の有無は、一時に決すべきか。罪過の無い身は、只仏神に奉仕するのみである。

十一月十八日 天晴「兼実は良通と共に法皇御所に参る」
 早朝、大将(良通)を連れて法皇御所に参ろうとすると、泰経卿が奉行となり、只今参るのがよろしいとのお言葉があった。承知したとの事を申した。すぐ良通と共に法皇御所に参った。時に八時である。
 泰経卿を介してお言葉を下されて言う。世上の物騒は逐日倍増した。その間に流言が多く出て来た、御所の警護は法に過ぎる。義仲は叉命令に服従する意思が無いように見える。事すでに大事に到達した。
 よって昨日、主典代景宗を御使いとなし、御言葉に言う、征伐の為西国に向かうのが適当であるとの事、度々命令下された。しかし、今でも下向していない。
 又頼朝の代官を攻めるのが当然との事を申すという。しからば早く行向かうのが当然である。しかるに両方とも出立しない。すでに君(法皇)に敵対しようとしている。その遺恨はどうであるか。もし謀反の意志が無ければ、早く西海に行くのが当然であるということだ。
 義仲は申し上げて言う、先ず君(法皇)に立ち会い奉るだろうとの事、一切存知しない。これにより度々起請文を書き進上しました。今尋ね下される事は、生涯の慶びである。西国に下向については、頼朝の代官が数万の軍勢を引率して入京するだろう。それならば一矢射るだろうとの事、前から申す所である。頼朝の代官が入らないならば、早く西国に下向するのが当然だという。
「法皇は条々の事を兼実に諮られる」
 この上、頼朝の代官の事はどの様に命令するのが適当であるか。兼ねて又この騒動により、法皇御所に天皇のおいで有るのが適当であるか。将にたちまちそのようには出来ないか。これらの件について判断し申しあげよということだ。
「義仲に敵対するは王者の行いに非ず」
 申し言う、先ず法皇御所中のご用心の事、すこぶる法に過ぎたり。是何故か。ひとえに義仲に敵対されることである。おおいに身苦しい。王者の行いではない。もし罪過が有れば、只その軽重により、刑罰を加えられるのが当然である。又お言葉下されるようなら、申し状は、いまだ穏便か。しからば先ずそれなりの御使いを派遣され、流言の次第を尋問され、所行の不当を叱責せられ、もし告げ口を言う者を指し申すなら、法に任せ刑罰に行われるのがよろしい。
 先ず今、敵対の事を止められるのが最もよろしい。義仲もし道理に伏し和顔が有れば、どうして征討に行く事があろうか。たとい罪科が有るといえども、出境の後、その指図が有れば、今の恐れ有る出来ないか。京中の至近の間で、君に敵対される事、今、後代において、朝廷の恥辱であり、国のきず、之に過ぎる何事も無い。もし又猶勅命を受けるに背くなら、かの時は法に任せて科断有るのが適当であるか。今の指図のようならば、王化は無いに等しい。甚だ以て見苦しい。
 頼朝の代官の件について、軍勢が少ないならば入るのがよろしいとの事、義仲が申す旨、先日風聞有り。更に変じ申してはいけないか。又巨多の軍兵を引率ならば、停止するのがよろしいとの事、かの代官に命令されるのがよろしいか。天皇のおいでの件、たちまちそのようにしてはいけないということだ。
 泰経卿が御前に参りました。その後、人々が多く参集し、左大臣以下、大略残る人無きか。定長卿を介して暫く待機せよと命じられる。よって近くに待機した。

十一月十九日 曇り、時々小雨「義仲は法住寺御所を攻む」
 早朝、人告げて言う。義仲は、すでに法皇宮を攻撃しようとするという。私は信用しないの間、暫く音沙汰無し。基輔を法皇御所に参らせ、詳細を尋ねさせた。十二時頃に帰り来たり言う。すでに参上との事、その聞こえ有りといえども、未だその事実は無い。およそ法皇御所中の軍勢は甚だ少ないと為す。見る者は興違の気色有りという。光長が又来た。法皇に申し上げる為退出した。然れども義仲の軍兵、すでに三手に分かれ、必必ず寄せるの風聞あり、猶信用しない処、すでに事実である。私の亭は大路の頭たるにより、大将の居所に向かった。幾程を経ず黒煙が天に見えた。是は河原の在家を焼き払うという。又時を作る事二度、時に十四時頃である。或いは言う。吉時と為すという。
「官軍は大敗す」
 十六時頃になり、官軍は全て大敗して今までの功績を失ない、法皇は保留され逃げる事は出来なくなった。義仲の士卒等は歓喜限り無しという。
「義仲法皇を取り奉り五条亭へ渡る」
 すぐ法皇を五条東洞院の摂政(基通)亭に御連れした。武士の外、公卿・侍臣で矢に当たり死傷の者は十余人という。夢か現実か。たましいは消え、万事に覚えがない。
「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
 およそ漢家や本朝の天下での乱逆、その数有りといえども、未だ今度のような乱はなかった。義仲はこれ天の不徳の君(法皇)を誡(いまし)める使いである。その身の滅亡、又以て突然か。ねがひに生きてこのような事を見た。只前世の行いを恥じるのがよいか。やれやれ嘆かわしい。
 (解説) 「義仲はこれ天の不徳の君(法皇)を誡(いまし)める使いである」ここだけ読んで、兼実は義仲をほめている。と喜ぶ義仲の擁護者がいるが、あわててはいけない。義仲が義経軍に討たれると「天は逆賊を罰した」と記述している。

十一月二十日 天晴「基房が五条亭へ参る」
 伝聞、入道関白(藤原基房)が昨夜より五条亭に参宿し、義仲が迎えに寄せるという。
 (注)五条亭・・・五条南東洞院西、基通の邸宅、元は藤原邦綱亭。

十一月二十一日 天晴「義仲は今後、世間の事は基房に申し合わす」
 又義仲は内々教えて言う、世間の事を松殿(藤原基房)に申し合わせ、毎事、指図を致すのがよろしいという。頗る静賢は詳しからざるか。
「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」
 私は密かに願かけして言う。今度、義仲が、もし善政を行なうなら、私はその仁に当たると。この事は極まり無き不吉であった。よって今度の事、その中に入る事が出来ず、義仲に従う必要がない事を、いささか仏神に感謝した。言うまい。言うまい。

十一月二十二日 天晴「義仲の処へ使者を遣わす」
「藤原師家内大臣に任じ摂政とす」
 早朝、太夫吏隆職が告げ送りて言う。権大納言(藤原)師家が内大臣に任じ、摂政たるのがよろしいとの事、御言葉下されたという。昨夜、二時頃という。
「後鳥羽天皇が閑院に御す」
 晩になり、大夫史隆職が来て話した。「主上(天皇)は閑院(かんいん、藤原冬嗣の邸宅)においでになるという。今朝、新摂政に参る人々は多く盛んである。前摂政の居所の近々、事甚だ目立つという。私は今度の事を免れた。第一の吉慶である。
「合戦により天台座主明雲と円恵法親王は殺害さる」
 伝聞、座主明雲は合戦の日、その場で切り殺された。又八条円恵法親王は、華山寺辺りで伐ち取られた。
「武士等は頼実を経宗の処に送り纒頭を賜る」
 又権中納言頼実(左大臣藤原経宗の息子)卿は、直垂・折鳥帽子等を着け逃げ去る処、武士等は卿相である事を知らず、引っ張って斧で切ろうとする処、自らその名を名乗るといえども、衣裳などの風体は普通の人には見えなかった。偽って貴種を称する者であると、猶首を打つのが適当であると、各指図する処、下人の中に見知る者がいて、本当ですと言う。よってすぐ死を免れた。
 武士等は父の左大臣(藤原経宗)の処に連れて行くという。大臣は喜びと心配が相半ばし、ほうびを武士等に与えたという。
 そもそも今度の乱、そのつまる処は只明雲・円恵の誅殺にある。未だ貴種高僧が、このような難に遭うのを聞いた事が無い。
 仏法の為、希代の瑕瑾(かきん、きず)である。やれやれ嘆かわしい。又人の運報、誠に測り難き事か。
 前摂政(基通)は去る七月の乱の時、専らその職を去るのが適当である処、法皇の艶気により、動揺無く、今度は何の過怠により所職を奪われたか。
「基房に札を送り師家の吉慶を賀す」
 入道関白(基房)の処へ書札を送り、その子の吉慶の事を祝賀した。本望の事の報札が有った。
「義仲の処へ使者を遣わす」
 又、義仲の処へ使者を派遣した。是等は今の害を遁れる為である。

十一月二十三日 天晴「藤原実定の内大臣を借用という」
 伝聞、内大臣(藤原実定)は解官ではなく、借用という。およそ欠官は三である。所謂、死欠・転任・辞退である。
「借官これに始まる」
 借官はこれに始まる。このころ禅門(藤原基房)の計略である。それが当然であろう。

十一月二十七日 「前摂政(基通)の所領等を義仲が大略所領」
 今日(源)宗雅朝臣が話した。「前摂政(基通)の辺りの事、義仲が大略所領等の事、相違有る事は出来ないとの事を申した。然れども、又万事、松殿(藤原基房)が強いて指図した」。今日、仏厳聖人が来た。
 伝聞、借り(任)大臣の事について、天下の人々が騒ぎ立てる事について、禅門(藤原基房)は頗る恥じる気配が有るという。

十一月二十八日 天晴「基通の所領八十余所を義仲に賜わらんとす」
 範季・光長等が来た。世上の事等を話した。「前摂政(基通)の家領等、違乱有る事は出来ないとの事、義仲が本所に伝えた。そのような間に新摂政(師家)が皆全て下文を作成し、八十余個所を義仲に与えた」という。犯乱の世である。
 伝聞、借り(任)大臣の次第、先ず入道関白(藤原基房)が、少将藤原顕家を使いと為し、内大臣(実定)に伝えられたという。希異の又奇異、更に言いつくせない処であるか。

十二月一日 天晴「大江公朝は頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」
 伝聞、去る二十一日、法皇御所の北面に仕える下郎の二人(大江公友)が伊勢(三重県)国に到り、乱逆の次第を頼朝の代官(九郎並びに斎院次官親能等)に告げ伝えた。すぐ飛脚を頼朝の処へ派遣した。彼の帰来を待ち、命に随い入京するだろう。今の九郎の軍勢は、僅かに五百騎、その他伊勢(三重県)の国人(在地の武士)たちが多く従うという。又和泉(大阪府南部)守平信兼も同じく味方したという。信性という僧が帰って来て、比叡山から法印(慈円)の返事を伝えた。先日私の使となり登山する所である。
 (注)斎院(さいいん)・・・賀茂神社に奉仕した未婚の皇女の居所。

十二月二日 天晴「義仲は平氏と和親」
 伝聞、義仲が使いを平氏の処に派遣し、播磨(はりま、兵庫県西南部)国の室の泊りにあり、和親を願うという。
「室山にて平氏と行家軍が合戦す」
 又聞く、去る二十九日、平氏と行家が合戦し、行家軍はたちまち大敗して今までの功績を失ない、家臣の多くが伐ち取られた。すぐ上京を企てたという。
 又聞く、多田蔵人大夫源行弘(綱)は城内に引き籠もり、義仲の命に従わないという。

十二月三日 天晴「義仲は摂関家領八十六ケ所を賜るという」
 伝聞、義仲は摂関家領を与えられ、八十六ケ所を所領したという。
「藤原師家政所始め」
 又、新摂政(藤原師家)の政所始めは去る二十九日という。右中弁光雅が執事家司(けいし)となったという。光長を棄て置くのはいかがなものか。拝賀は来る八日という。晩になり大夫史隆職が来た。前に呼び雑事を命じた。
 (注)家司(けいし)・・・三位以上の家の事務をつかさどった職員。
         執事(しつじ)・・・事務を執りしきる者。

十二月四日 天晴「女車に至るまで検知を加える」
 定能卿が退出し、法皇御所より来て語り言う。「昨日、義仲は法皇に申し上げた。頼朝の代官がかねてより、伊勢(三重県)国にいる。郎従等を派遣し追い落とした。その中の主要人物を一人、捕虜にした」。又語り言う、「法皇御所中の警護は、近日は、かねてよりは倍増し、女車に至るまで検知を行う」という。

十二月五日 天晴「南海・山陽両道は大略平氏に同じたり」
 伝聞、平氏は猶室に在り。南海・山陽両道は大略平氏に味方したという。又頼朝と平氏同意するだろうという。平氏は密かに法皇に申し上げ許可が有るという。又義仲は使いを差し遣わし同意するのがよろしいとの事を平氏に示すという。平氏は承引しないという。

十二月七日 天晴、「義仲と平氏は和平するや否や」
 早朝、仏厳聖人が来た。相次いで、範季朝臣が来た。世上の事を話した。「平氏が入京するだろう事決定した。能圓という僧が報告を送って来た。義仲と和平するか否か。未だ決定しない」。
 伝聞、平氏と和平の事、義仲は内々では意地を張るといえども、外から見た様子は受けないとの事を示すという。
「義仲は法皇を奉じて八幡辺に向かわんとす」
 晩になり宰相中将(定能)から報告を送って来た。「来たる十日、義仲は法皇をお連れなさり、八幡の辺に向かう。彼より平氏を討つ為、西国に赴くだろう」という。又範季も同状のを報告を送って来た。およそどうにも出来ない事か。或いは言う、明日法皇の御出かけあるだろうという。しかし、誤りの説か。

十二月八日 天晴「法皇御幸を問う」
 使者を静賢の処に送り、法皇の御出かけの次第を訊ねた。返事に言う、およそどうする事も出来ない。決定のお言葉を下された。今では異議は無い。天下は今一層滅亡した。京都も叉安堵出来ない。女房等を少々、遠所に派遣するのが適当であるか。おおむね京中の上下の人々は慌てふためく事限り無しという。叉宰相中将が退出した。法皇御所より御出かけに参るのが適当であるにより、出立のため退出した所である。件の相公の室家、この二・三日は女院御所に宿泊された。新御所の北対辺である。
「法皇御幸につき御占い行わる」
「五条殿に怪異あり」
 今の御所たる五条殿は、怪異を頗りに伝えた。よって八条院に御帰りを望んだ処、義仲は受け付けず、たちまちに八幡へ御出かけの事が出で来たという。およそ怪異を嫌われる事は、亡ぶような事あるか。今では、法皇の御身、何より惜しみ御思いなさるのがよろしきや。嘆かわしい。
「法皇御幸に他の人参らず」
 私の女房、大将の妻等を、密々に明朝、南都(奈良)に派遣するのがよろしいと、内々その指図を致した。然れども事猶穏便ではない。よって法皇御所辺に訪ね伺う処、十日の御出かけは頗る不定である。叉、公卿等が参入し、御出かけの事を尋問されるとの事、夕方以後これを聞いた。叉たとえ御出かけありといえども、法皇の外に他人は参る必要はない。天皇のお出かけは必要はない。入道関白以下、諸卿は京中に留まり、万事指図を致すのがよろしい。京都を損亡させないため、御出かけを申し行うとの事、義仲は称しているという。よって明朝の下向は停止した。かつまた占いを行う処、頗る不快の故である。叉左少弁光長が同じく、すぐによろしく無いとの事を申した。
「日頃、山門衆徒が蜂起す」
 午後十時になり、或る人告げて云く、「明日、延暦寺を攻めるという。驚き奇限り無し。およそ、かねてから、比叡山延暦寺衆徒(しゅと、僧兵)の蜂起、甚だ感心していなかった。
 世の為、時に、訴訟も遺恨も有るのが当然な事である。近日の事、ただ知らないかのように見えないかのように有るのが適当である処、大衆(だいしゅ)蜂起の事、還りて後鑒の恥を為すのが適当である所たるか。当時またこの蜂起により、寄せ攻めらるという。誠に比叡山の仏法は滅尽の期に至るか。やれやれ嘆かわしい。頼輔入道は今日南都に下向した。

十二月九日 曇り 頗る風雪、
 伝聞、昨日、左大臣(経宗)並びに忠親卿が法皇御所に参りました。(中納言)成範卿を介し左大臣に問われて言う、義仲は申し言う、「西国を討つ為、向かうのが適当である。しかし法皇の御在京は、不案があります。比叡山の騒動の事が風聞した。よって法皇をお連れなさり、下向をしたい」という。この事はいかがなものか。御占いが行われた処、不快との事を申した。これを為すのはいかがなものか。左大臣が申し言う、「御占いの事は指図の必要は無い。義仲の申す所は当然である。早く御出かけ有るのがよろしい」という。又静賢法印を介して忠親卿に問われた。申し状は左大臣に同じ。但し密かに申し言う、「平氏と和平の儀、義仲に命じられるのがよろしい」という。然れども件の事を義仲おおいに不快のとの事、外相に表すという。よって御命令下さるに達しないという。
「長方の言により八幡御幸停止せられる」
 しかる間、(中納言)長方卿がひそかに使者を派遣し義仲に伝えた、「穢(けが)れ中に八幡への御出かけはいかがなものか。たとい御参社が無しといえども、なお神慮の恐れが有ります。おおいによろしくない」という。これによりたちまち延期し、穢(けが)れ以後に御出かけ頂くとの事を定め命じたという。猶、長方は賢名の士である。
「慈円が下京す」
 今日、山の法印(慈円)が、ちょっと京に下られ、「大衆の蜂起は火の燃えるように盛んだ」と言う。実にただ、天台の仏法の滅亡するだろう時である。
「俊尭が天台座主に補さる」
 伝聞、俊尭が天台座主に任命されたという。

十二月十日 天晴「慈円が登山す」
 法印(慈円)が比叡山上に登り帰られた。百日の入堂(無動寺なり)の中断は残念なので、澄憲を介し義仲に伝えて、許しを受けて登られた。これまた私の慶びである。昨日、京に下ったのは、世間の物騒により、下官(げかん、兼実)の辺の事が不案の故に下京したという。又比叡山延暦寺は既に城郭を構えた。よって城中に籠もる事は甚だ穏便ではない。しかのみならず、すでに比叡山を攻めるだろうとの事が風聞した。よって下京されるのがよろしいとの事、私は伝え送った所である。しかし比叡山を追討の事、またたちまちそうではないという。よって義仲に伝えた処、案のように許しが有った。たとい又内心は許さないといえども、この願いは、すでに退き難き故、万事を顧みず、山に帰り、下官相共に能く議評せしむるものである。山王大師(山王権現)の知見の証明あらんか。大願の趣旨は、詳細に記録し難きものか。只仏法の興隆・政道反素の趣である。
「慈円が入堂して兼実等の大願を祈願す」
 法印(慈円)・下官(兼実)・観性(法橋)三人の大願は、すでに年数を積んだ。今の入堂は、この事を祈るためである。よって百千の事は顧みる必要はない。ただ諸天、諸神に任せ奉るのみ。
「臨時除目、義仲は左馬頭を辞退」
 この夜、臨時の除目が行われた。
参議藤俊経、藤隆房、(即任右武衛)、藤兼光、左大弁兼光、左中弁光雅、右中弁行隆、権光長、左少弁源兼忠、右少弁平基親、右中将忠良、
義仲が左馬頭を辞退した。また天台座主(俊尭僧正)を御命令下さるという。
 (注)山王大師(山王権現)・・・日吉(ひえ)神社の祭神。
    知見(ちけん)・・・物事を悟り知る智慧。
    下官(げかん)・・・官吏が自分のことをへりくだっていう称。下級の官吏。
    法橋(ほっきょう)・・・法眼の次に位。

十二月十一日 天気晴れ、「大衆(僧兵)は天台座主(俊尭僧正)に反対」
 早朝、法印(慈円)が伝え送り言う、「無為無事に登山した。夜の内に護摩以下の所作等を全て勤行(ごんぎょう)した。悦びをなす事少なからず」という。「大衆(だいしゅ、僧兵)の事、義仲に立ち会う事は停止し、座主を用いない事は決定し、盛なるだろう」という。
(注)護摩(ごま)・・・護摩木を焚いて祈る。
   勤行(ごんぎょう)・・・勤めて仏道修行するこという。

十二月十三日 陰晴れ不定、時々風吹き、「平氏・義仲の和平」
 伝聞、平氏の入京は、来たる二十日という。或いはまた明春という。義仲と和平の事は決定したという。
 
十二月二十七日 「法皇は天王寺に幸すべし」
 法皇は正月十三日に天王寺に御出かけするだろうという。この事は親信卿と(平)業忠等が、義仲に追従するため申し行う所という。
(注)天王寺(てんのうじ)・・・四天王寺の略。大阪市天王寺区にある

十二月二十九日 天晴「平氏と義仲の和平」
 大夫史隆職が来た。世上の事を話した。「平氏・義仲の和平は決定との事、忠清法師の説を聞いた」。

一一八四年(寿永三年、元歴元年)一月

一月五日 陰晴不定「義仲久しからず」
 前源中納言(雅頼)が来て話した。「頼朝の軍兵は墨俣に在り。今月中に入京するだろうと聞いている」。
 右中弁行隆が来て言った。「義仲の勢いは長く保たれまい。頼朝もまたそうであろう。平氏はもしかすると運が有るかもしれない。すべてはその所行に依るだろう」。

一月六日 天晴風吹く「坂東の武士すでに美乃に」
 或る人が言った。「坂東の武士が、すでに墨俣を越え美濃に入った。義仲は大いに怖れを懐いている」。

一月九日 「義仲と平氏と和平」
 伝聞、義仲と平氏は和平の事すでに決定した。この事は去年の秋の頃よりずっと噂があり、様々な異説もあったが、急に決定した。
「義仲鋳す鏡の事」
 去年の、年末の頃、義仲は一尺の鏡を鋳て、八幡(或る説熊野)の御正体を線刻し、裏に起請文(仮名という)を鋳付け、これを(平家に)遣わした。それで和平したという。

一月十日 「義仲、北陸に」
 夜になって、人が告げてきた。「明日の明け方、義仲は法皇をお連れして、きっと北陸に向かうだろう。公卿も多く連れていく事になるだろう」と。これは根拠のない噂話ではないという。

一月十一日 朝間雨下る、午後天晴「義仲は近江の国に」
 今日の明け方、義仲の下向は急に中止になった。物の告げがあったからであるという。来たる十三日に平氏が入京するらしい。法皇を彼の平氏に預け、義仲は近江国に下向するという。

一月十二日 朝間雨下る、晩に及び大風「義仲、北陸に」
 伝聞、平氏は、この二・三日以前に使いを義仲の処に送って、「義仲から再三の起請による申し入れがあったので、和平の義理立てを感じていた処、やはり法皇をお連れして、北陸に向かうらしいとの話を聞いた。すでに謀叛である。然れば同意の事は慎重に用意するだろう」という。よって十一日の下向は急に中止した。今夕から明日の朝までに、義仲の第一の郎従(字は楯という)を派遣する予定である。すぐに法皇御所中を守護している兵士等を呼び返したという。

一月十三日 天晴「九郎の勢僅かに千余騎」
 今日、明け方から十四時に至るまで、義仲は東国に下向する事が、有るのか無いのかについて、変る事七・八度、とうとう下向しなかった。これは近江に派遣した郎従が飛脚を使って「九郎の軍勢は僅かに千余騎だという。わざわざ義仲の軍勢に敵対しないでしょう。よってすぐに御下向なさる事はありません」と申し上げたので、下向は延期されたという。
「平氏は入京せざる三つのとの事緒」
 平氏がきっと今日入京するだろうと思われていたのに、そうならなかった事には三つの理由があるという。
一、義仲は法皇をお連れして、北陸に向かうつもりだという風聞があったから。
二、平氏は武士を丹波国に派遣し、郎従等を動員しようとした。よって義仲もまた軍兵を派遣し防ごうとさせた。その間に、平氏との和平が決定した。よって和平が決定の後、飛脚を遣わし引き退くように命じた処、猶合戦が起こり、平氏方の郎従十三人の首が討たれてしまったという。これにより用心し遅れてしまった。
三、行家は渡野陪(わたのべ)に出て行って、一箭(矢)射るだろうと称したという。この事に因って遅れた。縦横の説は信用出来ないが、噂話ではないので、これを記しておく。

一月十四日 天晴「義仲は法皇を具し奉り、近江へ」
 十六時、人伝えて言う、「明後日、義仲は法皇をお連れして、近江国に向かうつもりだ。この事はすでに決定だという」。

一月十五日 天晴「義仲は征東大将軍」
 早朝、人が告げてきた。「法皇の御出かけは中止した。御赤痢病のためです。義仲は独り向かうようです」と。或は「向かう予定はない」ともいう。
「義仲を征東大将軍となすという」
 大夫史隆職が来て、話した。「昨夜、御斉会の内、論議は無し。即位以前だからです」。また「義仲を征東大将軍にするという宣旨をを下された」と。

一月十六日 雨下る「義経勢は数万に達す」
 昨夜より京中は騒がしかった。義仲が近江国に派遣した郎従たちが全て帰京した。敵勢は数万に達し、あえて敵対に出来ないという。今日、法皇をお連れして、義仲は勢多に向かうだろうとの風聞があった。その方針は急に変更し、ただ郎従たちを派遣し、元の通り法皇御所中を警固し近くで待機するだろう。
「義仲は行家を追伐す」
 また軍兵を行家の処に分けて派遣し追伐するだろうという。およそ昨夜より今日の十四時に至るまで、決定がころころと数十度も変わった。手のひらを反すようなものだ。京中の慌てぶりは例えようがない。しかし晩になってすっかり落ち着いた。関東の武士が少々勢多に到着したという。

一月十九日 「志田義広を大将軍として宇治田原を防ぐ」
 昨今の天下はたいそう物騒がしかった。武士たちの多くは西方に向かった。行家を討つ為だという。或いはまた宇治にいるのは田原地の軍勢を防ぐ為だという。(志田)義廣(三郎先生)が大将軍だという。
 
一月二十日 天晴「東軍が入京」
 六時頃、人が告げてきた。「東軍がすでに勢多に到着した。未だ西地に渡らず」。相次いで人が言った。「田原の手勢はすでに宇治に到着した」。その言葉が未だ終わらないうちに、六条川原に武士たちが馳走するという。よって人を派遣し見させた処、事実であった。
「義広は大敗す」
 義仲方の軍兵は、昨日より宇治にいた。大将軍は美濃守義広という。しかし宇治の軍勢は敵軍の為打ち敗られ、東西南北に散りじりになった。
「東軍が入京」
 すぐ東軍等が追い来たり、大和大路より入京した。九条川原の辺りでは、一切の乱暴が無かった。この上なくありがたい。東軍は踵(きびす、かかと)を返さずに六条の末に到着した。義仲の軍勢は、もともと少数だった。それなのに勢多・田原の二手に分け、その上に行家を討つ為にまた軍勢を分けた。義仲は独り身で在京していたので、この殃(わざわ)いに遭った。
「義仲は法皇の御幸を促すも成らず」
 先ず法皇御所に参り御出かけを申し入れ、御輿を寄せようとした処、敵軍がすでに襲来した。よって義仲は法皇をお連れする事も無く、あわてて対戦の間、従う軍勢は僅かに三・四十騎のみである。敵対する事は出来ず、一矢も射ずに落ちていった。
「義仲は敗走し近江国粟津にて討たる」
 長坂方に懸けようとしたが、さらに戻って勢多の軍勢に加わるために、東に行く処、阿波津野の辺りで打ち取られたという。
「東軍の一番手は梶原景時」
 東軍の一番手は九郎義経の軍兵で加千波羅(梶原)平三だという。その後、多くの軍兵が法皇御所の辺りに群参したという。法皇と側近の者たちは危機を逃れた。実に三宝(仏・法・僧)のお助けである。
「天の逆賊を罰す」
 およそ、前から、義仲の計画では京中を焼き払って、北陸道に落ちる予定であった。しかし一軒の家も焼かず、一人も殺さず、独り討ち取られた。天が逆賊を罰したのだ。もっともなことである。
「義仲の天下は六十日」
 義仲が天下を執ってから六十日が経った。(平治の乱の)信頼の前例に比べて、やはりその期間は長かったと思う。今日、公卿たちが参院したが、門の中に入る事が出来なかったという。
「師家は参院すれど追い帰される」
 入道関白(藤原基房)が藤原顕家を使者として、二度法皇に書を上げたが、共に答えは無かった。また甘摂政(藤原師家)は顕家の車に乗り参入したが、追い返されたという。非難されよう。私は風邪により参入しなかった。大将又(良通)もまた病気で参入しなかった。恐れを抱いている。

一月二十二日 天晴「兼実院より尋ねらるる条々」

「義仲の首の事」
 一、「義仲の首は大路を渡した方がいいのか、よくないか、いかがですか」。
「どちらでも問題にはならない。但し道理からすれば、渡された方が良い」と申し上げた。

一月二十五日 天晴「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」
 君臣共に幼稚(天皇、四才、師家、十一才)であり、未だ成人の器量に達していない。法王もまた禁固のような状態だったから、彼らは政務を行っていない。ただに義仲一人の手中にあったのだ。どうして木曽義仲の命令を、歴史の証拠とする事が出来ようか。この事は法皇がきちんと承知してなくてはならない。処が一切考えておられない、側近の人もまた進言していないのだろう。

二月八日 天晴 「一谷合戦の詳細」
 未明に、人が走って来て言った。「式部権少輔範季朝臣の処より申して云く、梶原平三景時の処から、飛脚を進上し申し言う、『平氏を皆全て伐ち取りました』という。その後、十二時頃に、定能卿が来て、合戦の詳細を語った。一番に九郎の処より報告してきた。九郎は搦手である。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落としたという。次いで加羽(蒲)冠者が状況を報告してきた。加羽(蒲)冠者は大手である。浜地より福原に押し寄せたという。八時から十時になるまで、それでも一時もかからず、程無く責め落とされた。多田行綱は山の方から寄せ、最前に山の手を落とした。おおむね城中に籠もるの者は一人残らず。但し最初から乗船の人々は四・五十艘ほど島の辺りいた。しかし廻る事が出来なかったので、火を放ち焼死した。疑う処では内府(宗盛)たちかという。伐ち取った者の名簿は未だ注進してないので進上する事が出来ません。
「劔璽神鏡の安否未だ聞かず」
劔璽・内侍所の安否も、同じく聞いていないという。
(注)搦手(からめて)・・・城の裏門を攻める軍勢。
   大手(おおて)・・・城の正面に攻めかかる軍勢。
   劔璽(けんじ)・・・三種の神器のうち、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)。宝剣と神璽。
   内侍所 (ないしどころ)・・・八咫鏡(やたのかがみ)。三種の神器の一。巨大な鏡の意。

二月十日 天晴 「義経等は義仲と平氏の首に差あるを不満申す」
 夜になって蔵人右衛門権佐定長が来て法皇の御言葉を伝えた。御言葉は「平氏の首をを渡すのはよろしくないと思う。しかし九郎義経と加羽(蒲)の範頼らが『義仲の首を渡され、平氏の首を渡さないのは、まったくその理由がありません。何故、平氏を優遇されるのか、特に憂慮し申し上げます』と言ってきた。この事についてどうしたらいいか考えを聞かせてほしい」という。申し言う、「その罪科を取り立てて問題にするならば、平氏は義仲と同じではありません。また帝の外戚(がいせき)として、その身は或者は卿相に昇り、或者は近臣となりました。誅伐を遂げたとしても、首をお渡しになるという事は、道理に外れた事となりましょう。近例では、則ち、信頼卿の首が渡されませんでした」。
 (注) 渡す・・・大路を引き回す。

二月十一日 雨降り「平氏誅罰の事により人々参院す」
「基房は法皇の不興を蒙る」
 伝聞、入道関白(基房)は法皇のご機嫌を損ねているという。
「摂関家領は分かち難し」
 義仲が乱逆を起こした時に、十二歳の摂政を補任し、数百の荘園を領有した。これは法皇が先日、摂政家領は簡単に分けられないと言った。この言を逆手にとって、一箇所も残さず横領してしまった。こうした基房のやり方を疎ましく思っている。
「基房は義仲に与し西国御幸を勧め申す」
 法皇の御言葉は、「また去年の冬に西国へ御幸するようにと、義仲が言ってきた時、澄憲を使いにして、禅門(藤原基房)は頗りに勧めてきた。この事も忘れ難い」と。これらの事は確かな情報を聞いた所である。
 また聞く。平氏の処に書札を遣わして、連絡を取り合った人は、数えきれない。王侯・卿相以下、身分の高い者もそうでない者も、およそ都の人には残る連中(連絡を取らなかった者)がいない程である。中でも、法皇の近臣に大変多かったという。私はこの事聞いても、まったく驚かなかった。一切この恐れが無いからである。この事を通じて思うには、正しく真っ直ぐな道こそが、もっとも望ましいということだろう。

二月二十三日 「法有りて行わず。法無きに如かず」
 大夫史隆職が、近日に下された宣旨(天皇の命令書)を書き送ってきた。よってこれを続け加える。この宣旨を施行することは全く出来ないだろう。「法有りて行わず。法無きに如かず」。法が有ってもそれを(武士たちが)施行しないのは法が無いのと同じである。
「宗盛追討宣旨」
 まさに散位源朝臣頼朝、前の内大臣平朝臣以下の党類を追討せしむべき事。
右、左中弁藤原朝臣光雅が命令を伝え、左大臣が命令する。天皇の命令を承り
前の内大臣以下の党類、近年より以降専ら邦国の政を乱した。皆これ氏族の為なり。遂に王城を出て、早く西海に赴く。なかんずく山陰・山陽・南海・西海道の諸国の土地を横領し、偏に年貢を奪い取る。この政途を論ずるに、事常篇に絶ゆ。
宜しく彼の頼朝をして件の輩を追討せよということである。
     寿永三年正月二十六日     左大史小槻宿祢
 (解説) 義仲にも去年、類似の平家追討の命令が出たはずだが、安徳天皇が不在なので、院宣(法皇の命令)だったかもしれない。

「源義仲党類追討宣旨」
 まさに散位源朝臣頼朝、源義仲の余党の身を捕え進上せしむべき事。
右、左中弁藤原朝臣光雅が命令を伝え、左大臣が命令する。天皇の命令を承り
謀反の首領義仲の仲間が、逃げて都や田舎にいるとの事、ひろくその聞こえ有り。宜しく彼の頼朝をして件の者たちを捕え進上せよということである。
     寿永三年正月二十九日     左大史小槻宿祢
   (五幾内七道諸国同じくこれを下知す)
 (解説) 義仲の仲間にも、平家追討と類似の追討の命令が出た。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の典型である。

「武士押妨(おうぼう)停止の宣旨」
 まさに源の頼朝の威力による命令により、詳細を調査し意見を申し上げる方法で、武士達の神社・仏寺、並びに法皇・皇族・国司や貴族等の領地で横領することを停止させるべき事。
 右近年以降、武士達が天皇の定めた法令を無視し、みだりに武士達がその武力をひけらかし、自由勝手に命令文書を下し諸国七道で行動した。ある者は神社の神物を横領し汚し、仏寺の供え物を略奪した。まして法皇などの皇族の領地、多くの国役所の領地や公家達の所領でも略奪した。ついに天罰が下り、人民の愁いは救われた。前に述べた所業は、以後、武士達は慎むのが当然である。左中弁の藤原朝臣光雅が天皇の命令を伝え、左大臣が命令する。天皇の命令により、これから以後、永久停止に従い、あえて更に従来通りではならない。但し理由が有るに場合には、彼の頼朝と詳細を相談し、朝廷に申し上げよ。もし戒めに従わず、なお違反する場合は処罰し、罪科(ざいか)を許さない。
     寿永三年二月十九日     左大史小槻宿祢
 (解説) 『平家物語』の解説者が言うように義仲軍のみが乱暴狼藉を働いていたのなら、義仲軍が滅亡してから、このような宣旨を出す必要は無い。要するに殆どの武士が兵糧調達のため乱暴な取り立てを行うのが当たり前だった証拠である。「一ノ谷合戦」後に、従来の年貢以上に兵粮米(ひょうろうまい、将兵の食糧、武具、道具)の調達と称して、武士達があちこちで所構わず、自由勝手に取り立てを行なう「路次追捕」を停止せよと命令している。ただし必要な場合は頼朝を通じて申請せよという。つまり路次追捕という調達方法自体は認めている。要するに天皇または法皇の命令書(宣旨または院宣)が無く無断でやるなと言うことである。
 義仲追討のため北陸道に出発した平家軍は「路次追捕(現地調達)」をしながら進軍した。平家軍に追従した武士のほとんどが義仲軍に鞍替えし、同じく路次追捕をしたようだ。さらに後に鎌倉軍に鞍替えした武士たちは同じく路次追捕で進軍した。

「公田(くでん)庄園(しょうえん)への兵粮米を徴集停止の宣旨」
 まさに速やかに諸国の長官に命令する。公田(くでん、国有地の田畑)や荘園(しょうえん、貴族や寺社等の所有地)の田畑への軍用米の割り当て徴集を停止する事。
 右、治承(じしょう)年代以降、平氏の武士達が暗黙(あんもく)のうちに軍用米と言いたて、法皇の命令を無断で作成し、みだりに全国の国有地の田畑や荘園の田畑に割り当てた。神様や仏様の尊い教えを無視している。国家社会の衰退や人民の疲弊(ひへい)はこれが原因である。まして「源義仲はこれを改めず、益々この悪法を続行した」。すっかり朝廷の権威(けんい)を失い、共に冥土(めいど)に背くものである。ここに源頼朝が、永い年月をかけず両賊(平家と義仲)を討滅(とうめつ)した。そこですぐに兵火(へいか)は永く収まり、天下は平穏になった。権大納言の藤原朝臣忠親が宣言する。天皇の命令をいただき、すみやかに諸国の長官に言いつけ、よろしく軍用米の割り当て徴集を停止すると諸国は承知せよ。天皇の命令により、これを行うものである。
     寿永三年二月二十二日     左大史小槻宿祢
   中弁藤原朝臣
 (解説) つまり当時の官軍は平氏軍から、義仲軍、さらに頼朝軍と変わったが、その食糧の調達方法には二種類があった。国有地であろうと私有地であろうと所構わず入りこんで取り上げる「路地追捕」と、国有地や荘園のみから徴収する「追捕」である。
 一ノ谷合戦後、武士達の「自由押妨の禁止」と、「公田庄園への兵粮米の徴収禁止」を宣言した。ここで注目すべきは「まして源義仲はこれを改めず、益々この悪法を続行した」という文面から推理すると、義仲は「武士達の自由横領」つまり「路次追捕の禁止」のみはつとめたが、この「公田庄園への兵粮米の徴収」は逆に継続・強化したようである。つまり弱者たる庶民に被害のある路次追捕(略奪)は禁止したが、強者たる法皇、皇族、貴族、寺社、諸国の国司(長官)からは兵粮米の徴収を継続・強化したようである。そのため彼らと繋がりのある京都近国の武士の離反を招いたようである。「法有りて行わず。法無きに如かず。」と、悪法による追捕の乱暴を辞めるように下された法も武士が厳守しなければ意味がないと嘆いている。結局、内乱が終わるまで続いた。頼朝は、さらに増税した。一一八五年(文治元年)十一月二十八日 「兵粮米(反別五升)を課す」。

一一八五年(文治元年)

八月十六日 天晴 「義経は伊豫の守」
 今夜、除目有り。頼朝が申すに依ってなり。受領(ずりょう、国司)六ヶ国、皆源氏なり。この中、義経は伊豫の守に任ず。兼ねて大夫の尉を帯すの事は、未曾有(いまだかってあらず)々々々。

十月十七日 天晴「義経は行家の謀反に同意す」
 「義経頼朝追討の宣旨を欲す」
 義経が頼朝追討の宣旨を要求した。私は申し言う。追討の宣旨を下される事は、八つの重罪を犯し、国家に敵対した者は、この宣旨を受ける者である。頼朝に、もし重科があれば宣旨を下さるのが当然である。何も異議は申しません。もしまたさしたる罪科が無いならば、追討せらるのが適当であるの事は更に量り申し難し。
 ただし平家や「義仲」等の時、法皇の御考えより起らずといえども、暗にこの宣旨を下された。天下の乱逆は、すぐこのような漸にあり。

十一月二十八日 「兵粮米(反別五升)を課す」
 伝聞、頼朝代官の北條時政が、今夜、吉田経房に会見したいという。定めて重要な事等を示すのか。又聞く、件の北條時政以下の家来等に、京都近国・山陰・山陽・南海・西海の諸国をそれぞれ分けて与える。
 庄園(貴族や寺社の私有領地)、国有地を区別せず、軍用米(一反あたり五升)を割り当て徴収するという。たんに軍用米の徴収のみではない。全ての田地を支配するという。全く何とも言う言葉が無い。

十二月三十日「法皇逆鱗(げきりん)謝申事」
 定親卿を招き、法皇の逆鱗(げきりん、天子の怒り)の事について相談した。すぐその息子の親能卿を通じて、申し入るのが適当である事を教え付けた。これは「義仲」の時、入道関白(基房)が朝務を執りし例に準じ思いなされる事、極めて訴え無きなり。天帝は頂きにあり。さらに過怠無き者なり。

一一八六年(文治二年)

閏七月十五日 曇り雨降る「前の摂政の基通は閉門して出仕せざるは不便」
 午前十時頃、左少弁定長が法皇の御使として来た。御言葉を言う、前の摂政(基通)、かねてから門戸を閉じ出仕を止めた。この事そのようには出来ないとの事、頼朝卿は申せしむ。そうではあるが猶恐れを成し蟄居した。しかのみならずたちまち出仕せば、人の口は定めて安からざるか。仍って猶予すといえども、始終黙止すべからず。今に於いては密々に仙洞に参り、次第に門戸を開くのが適当であるとの事、呼び寄せ御言葉を下したい、いかがでしょう。
「基通に出仕を仰せ下さるべし」「木曽乱逆」
 前摂政は度々忠節を表わした。平氏が都落ちの時、彼に伴わず京都に留まった、並びに「木曽乱逆」の時、法皇が南都においでだろう事を聞き、遮りて京を下る等などである。

一一八七年(文治三年)

十一月一日 天晴 「義仲の乱逆」
 この日、陰陽師たちを呼び集め、興福寺の棟上げの日次について尋ねた。先日、在宣は二十九日を選び申した。しかし宣憲や季弘たちは丑(うし)の日は支障があると言う。本文快からざる上、最近の例でもまた不快、法皇の七条殿の御所は丑日に建てた。その後程なく「義仲の乱逆」があった。八条院の御所も同じく丑日に建てた。その後、故仁和寺宮(覚性)の事により追捕の如き事があったという。

一一九二年(建久三年)

一月五日 晴「義仲行家の禍乱」
 国家の治まったり乱れたりは、病に例えて知る。急病ありといえども、即時平然、即ち更に余残無し。少しずつ進む病が年を積み、覚えずして衰微し、すなわち病を治すために祈り更にやまず。天下を治めるも、また、かくの如し。敵賊が境に入り、暴悪が国に満つといえども、追罰が烈しければ、即ち一時に退散し、元の如く旧に復する。当世の貴賤の人々が、目に見、耳に聞く処である。平家と九郎の反逆、「義仲と行家の禍乱」、皆もってかくの如し。頼朝の勇は、鋒(刀)を争う者無し。

『解説』
 一一六四年から一二○三年まで、ほぼ毎日記録され、全巻が現代まで残ったのは奇跡に近い。義仲の実像を知る史料として欠かせない。義仲については伝聞のみである。義仲の入京から最期まで記述している。出来れば同様な史料が数人分発見されると更に正確になる。『玉葉』の一部の文章のみ取り上げて、例えば法住寺合戦の後、「義仲は天の不徳の君(法皇)を戒めめる使いである」のみを読んで、兼実は義仲の擁護者だとか、寿永二年九月三日と五日のみを読んで、義仲軍は乱暴者だとか、極論する人がいる。全体を見て、さらに他の著書と比較して結論をだすべきだろう。


二・五 『愚管抄』に見る義仲の実像

 『愚管抄』の著者・慈円は『玉葉』の著者・九条兼実の弟である。幼くして僧籍に入り、兼実の推薦により天台座主(比叡山延暦寺の長官)にも就任した。晩年に書いた歴史書が『愚管抄』である。神代から、承久の乱前までの記述があるが、義仲に関係する治承・寿永の内乱の頃のみについて記述する
 『愚管抄』の義仲が登場する場面や関連する場面のみ取り上げた。著者の慈円は義仲入京当時、比叡山にいて、時々、兄兼実を訪ねている。世間の体感はしているだろう。ただし、晩年に書いたものなので、所々ミスがあるようだ。

「愚管抄」からの抜粋「現代語訳」

「武者(むさ)の世」
 さて、大治(だいじ)から久寿(きゅうじゅ)までの間はまた鳥羽法皇が白河法皇の後をついで世をお治めになったが、保元(ほうげん)元年(一一五六)七月二日、鳥羽法皇がお亡くなりになって後、日本国始まって以来の反乱ともいうべき事件が起こり、それ以後は武者(むさ)の世になってしまったのである。

「高倉宮追討」
 治承四年五月十五日、清盛入道は高倉宮(以仁王)をうむを言わせず流そうとして、頼政源三位の子で兼綱という検非違使を逮捕に向かわせた。高倉宮は三井寺に逃れた。二十二日、頼政は子息の仲綱・兼綱などを連れて三井寺に向かった。宮は吉野に向かった。二十四日、宮は宇治に到着された。二十五日、平家の軍勢が押し寄せて合戦となり、仲綱は平等院で自害した。平家方は宮と頼政を討ち取った。

「南都焼き討ち」
 十二月二十八日に南都へ押し寄せて、東大寺・興福寺を焼き払った。南都焼き討ちの大将軍は三位中将平重衡であった。

「頼朝の旗挙げ」
 高倉宮は三井寺に七・八日御滞在された。その間に宮の命令を伝えるものとして、武士の決起を促す文書を書いて全国各地にばらまかれた。
 その一つが持ち運ばれて、伊豆にいた頼朝の処へ届けられた。頼朝は梶原平三景時、土肥次郎実平、妻の父で伊豆の北条四郎時政などをひきいて東国を討ち従えようとした。

「木曽義仲挙兵」
 北陸道の国々では、帯刀先生(たちはきせんじょう)(源)義方(よしかた、義賢)の息子で、木曽冠者(きそかんじゃ)義仲という者などが呼応して挙兵した。
 義仲のもとには、高倉宮(以仁王)の御子(みこ)という方が都からのがれ、かくまわれていた。
 清盛は高倉宮以仁王(もちひとおう)を討ち取り、ますます増長し、(福原に都を移したりしたが)、東国に源氏(げんじ)の勢力がおこり、国の大事になってきたので、小松内府(重盛)の嫡子で三位中将の維盛(これもり)を大将軍として、頼朝を征伐せよという追討の宣旨(せんじ、天皇の命令)を下して、治承四年(一一八○)九月二十一日、東国に向かった。人々は見物していたが、駿河(するが、静岡県)の浮島原(うきしまばら)で、合戦にもならないうちに、配下の東国の武士達が、皆逃亡して敵方へ行ってしまった。帰り上(のぼ)る者は逃げまどうような姿で入京した。
 その後、平相国入道(清盛)は熱病が重体となり、治承五年閏(うるう)二月五日、薨逝(こうせい、死亡)した。その後に国の政治の実権は後白河法皇に戻り、平家は内大臣宗盛が家を継いで治めることになった。
 清盛の死に先立ちて高倉上皇は正月十四日にお亡くなりになった。
 かくて日増しに、東国、北陸道と都の間の交通はみな塞がってしまった。この軍(いくさ)に平家が勝とうと指図していたが、上下を問わず人心は皆(みな)源氏に傾いていった。
 源氏の軍勢が次第に都にせめ寄せる噂の中で、入道清盛が死んでから、寿永二年(一一八三)七月までは三年の時が過ぎた。
 先づ北陸道の源氏が進出して近江国(滋賀県)に満ちあふれるほどになった。これより前に、平家は越前(福井県)の方へ一門の軍勢を派遣したのだが、散々に追い返された。その戦いを砺波山(となみやま、富山県小矢部市)の戦いという。
 そうこうするうちに、七月二十四日の夜になり、事態は急を告げ、六波羅(ろくはら)へ安徳天皇をお連れした。平家一門の者どもが集まって、京都の山科(やましな)口を警固するために、大納言頼盛を派遣することにした。しかし頼盛は再三辞退(じたい)した。「治承三年の冬の頃、良くない噂を立てられたので、永く軍事には携わらないと、故入道殿(清盛)に申し上げました。福原に遷都(せんと)のころ高倉上皇にも申し上げました。今はこのような軍事には従事出来ません」と言いました。しかし、内大臣宗盛はその言い訳を聞き入れなかった。頼盛は人々に説得され、やむを得ず山科へ向かった。
 こうするうちに、今日明日にも、義仲や東国の武田(甲斐源氏)などという軍勢が京都に攻め入りそうな情勢となり、さらに京中で大合戦が起こるだろうと、恐れおののいた。二十四日の夜半に法皇はひそかに法住寺殿を抜け出された。鞍馬(くらま、京都市左京区)の方をまわり横川(よかは)へお登りなり、近江(おうみ)の源氏のもとへこの事を連絡された。北面の下級武士の知康(ともやす)、この男は鼓(つづみ)の兵衛と呼ばれていた。この男だけが御輿(みこし)担ぎなどして御供していた。明け方になって、この法皇の行動を怪しみ出して六波羅は大騒ぎになった。そして、どうしようもないので午前八時から正午の間に、安徳天皇をお連れして、内大臣宗盛の平家一族はそっくり鳥羽の方へ落ちのび、船に乗り四国(しこく)の方へ向った。
 六波羅の邸宅は火を放って焼いてしまったので、京都中の盗人が出てきて争って火の中に入り、物をとった。
 (注) (原文は「六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり」。

「平家都落ちと義仲の入京」
 その中に、宗盛は都落ちのことを山科にいる頼盛に知らせていなかった。平家の都落ちを聞いた頼盛は、先ず息子の兵衛佐(ひょうえのすけ)為盛(ためもり)を使者にした。為盛は鳥羽で追い付き、「どうした事ですか」と問いただしましたが、宗盛は返事も出来ず、茫然自失に見えたので、急いで帰り、その事を報告した。頼盛はただちに後を追い落ちて行きましたが、心の内では都にとどまりたいという思いが強かった。又この騒ぎの中で、三位中将資盛(すけもり、重盛の次男)は、そのころ後白河法皇にかわいがられて羽振りがよかったので、法皇の御意向を伺いたいと思っていた。そこで頼盛と資盛の二人は鳥羽から引き返し、法住寺殿に入り様子を見ていた。京中は天地を返すような騒ぎであったが、比叡山へ二人とも事の次第を申し上げた処、「頼盛には、たしかにお聞きとどけになりました。日ごろから気にかけておいでになりました。人目につかぬように、八条院(鳥羽天皇の皇女、暲子内親王)の辺に控えていなさい」と御返事が伝えられた。
 もとより八条院の乳母で御乳(おち)の宰相と呼ばれた寛雅(かんが)法印の妻は、頼盛の妻の母であったから、頼盛は八条院の御後見役でもあった。それで頼盛は都にとどまることにした。しかし資盛は取り次ぎする者もなく、御返事をもらえなかったので、又落ちのびて宗盛らに加わることにした。
 さて二十五日、後白河法皇は延暦寺中心の東塔の円融房へ御移りなられた。前から天台座主明雲は平氏に親しく、安徳天皇の護持僧(ごぢそう)を務めていたのに、平家に同行せず、京にとどまった事を悪く言われていた。比叡山へは登りながら法皇のもとには参上しなかった。
 また京の人はみな摂政の近衛殿(基通)は必ず平家と共に西国へ落ちていったと思っていたが、案に相違して近衛殿は京都にとどまり、比叡山に登ってきた。松殿入道(基房)も九条右大臣(兼実)も皆比叡山に登り後白河法皇のもとへ集まりました。
 その時、京都の中は落ちていく平家と入ってくる源氏が略奪を行い、物もなくなってしまいそうであったから、
 (注) (原文は「その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ」)
「残りなく平氏は落ちていきました。もう恐れる事は無いだろう」ということで、法皇は二十六日(二十七日の誤り)の早朝に、山を下り京都へお帰りなった。するとまず近江に入っていた武田勢が都に入り、続いて義仲は二十六日(二十八日の誤り)に入京した。義仲は六条堀川にある八条院の女房で伯耆尼(ほうきあま)の家を頂きそこを宿舎とした。

「後鳥羽新帝の出現」
  こうして京都中がひしめきあっていたが、「何としても、安徳天皇が神璽(しんじ)・宝剣・神鏡(三種の紙器)と共に西国の方へ連れていかれた。この京に天皇がおいでにならないのはいかがであろうか」という問題になりました。
 「父(祖父の誤り)の後白河法皇がおいでになるのだから、新しい天皇は西国の安徳天皇の安否の判明の後に」など様々な意見が出された。この間、法皇は左右大臣(経宗と兼実)、松殿入道(基房)などいう人に相談なされたが、右大臣の意見が、特に細かくて筋が通っているとのお考えにより、その意見を採用された。
 そこで、何としても新しい天皇を位につけなければならないということで、候補は高倉上皇の皇子は三人おいでになった。一人(守貞親王)は六波羅の二位(清盛の妻、時子)がお育てし、今は西海の船上にお連れしていたが、あとの二人は京都にお住まいになりました。
 法皇はその三宮(惟明親王)と四宮(尊成親王)を呼び寄せてご覧になった処、四宮のほうが人見知りもせず、又御占いの結果もよいと出たので、寿永二年八月二十日、この四宮(後鳥羽天皇)の即位の事が行われた。
 万事始めての事なので、法皇は相談をなさり、特に右大臣(兼実)が事をとりしきって、ここに新しい天皇の御出現となった。

「無能な関白近衛殿」
 本来こういうことは摂政(せっしょう)または関白(かんぱく)が処置することなのであるが、実際に事を運んだのは右大臣(兼実)であった。摂政の近衛殿(基通)はさきに、法皇が比叡山から下山なさるとすぐに、摂政をもとのとおり続けるようにという御言葉を受けていたのである。

「後白河法皇の形勢判断」
 さて贈左大臣範季(のりすえ)の話によると「すでに源氏の軍勢は近江国に満ち満ちて、六波羅は大騒ぎしていた時、後白河法皇は今熊野(いまくまの、新熊野神社、京都市東山区)に参籠しておいでになりました。私も側近の者に呼びつけられ、良い機会なので『どんなことがあっても、もう今となっては、この形勢を覆すことは出来ないと存じます。東国武士は人夫に至るまで弓矢に慣れております。この平家がかなうはずもございません。平家からお逃れになる御指図があってもよろしいでしょう』と法皇に申し上げた処、法皇は微笑まれ『今がその時である』と御言葉になりました」ということでした。
 この範季は後鳥羽天皇の御養育に当たり、位につかれた時にも中心になって事をおこなった人である。

「法住寺合戦」
 そのうちに、この義仲は頼朝を敵(かたき)と思い始めた。平氏は西海(さいかい)にいたが、京都へ帰ろうと計画していた。この平氏と義仲とは連絡をとり、共に関東の頼朝を攻めるだろうという噂などが流れ、ひそひそ話などしていたが、これも確実な事は無いようだとなった。
 後白河法皇に仕えていた北面の下級武士の友康(知康)・公友(公朝)などという者がいた。ひたすら武士を立て、頼朝こそ真の武士と心から考えて、人柄も理想的と伝えられて来たので、それに希望を託して頼朝の上京を待ち望んでいた。又義仲など何するものぞと思い込み、法住寺殿の後白河法皇の御所を城のように構えた。人々が大勢集まり、義仲に味方した源氏や延暦寺や園城寺の僧兵を召集した。延暦寺天台座王の明雲も参上し、比叡山の悪僧(僧兵)を率いてきっちりと守りを固めた。 
 義仲には山田・樋口・楯・根の井という四人の郎従がいました。(山田は今井の誤りか)
 義仲は又今はと決断した。このままでは我が勢力は減るばかりだ。減る前にと判断したのだろう。
 寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ義仲軍千騎の内五百余騎ばかりの軍勢にて、押し寄せた。
 義仲方に三郎先生(せんじょう、義広)という源氏の武士がいた。こうなったので、義仲に味方していた武士も皆法皇の御方(みかた)へ行ってしまったが、なお義仲に心を合わせた。最勝光院の方を固めている天台座主の軍勢の内に、座主の兵士が何人かいたので、びしびしと射た処、ばらばらと逃げ落ちた。散々に追い散らされて、相当な公卿・殿上人・宮なども皆武士に捕えられた。
 殿上人以上の人では、美濃(岐阜県南部)守信行という者はその場で殺された。その外は死去の者は身分の高い人々の中にはさすがにいなかった。相当に立派な武士も皆逃げてしまった。
 法皇は清浄光院(しょうじょうこういん、東山区)の方へ逃れた。武士が追い付き丁重に六条院の木曽義仲の邸の近くにあった信成の家にお連れした。今の六条殿はこの御所である。

「天台座主明雲の最期」
 さて比叡山の座主明雲と、後白河法皇の御子で三井寺の円恵法親王(親王八条宮)と呼ばれた方、この二人は討たれて亡くなりました。明雲の首は西洞院河で探し出され、延暦寺の顕真(けんしん)が受けとった。
 天台座主明雲の首をとった武者は木曽義仲にかれこれと手柄を語ったが、義仲は「そんな者の首がなんだ」言ったので、そのまま西洞院川に捨ててしまったもののようである。
 どう考えてみても、この後白河法皇と木曽義仲との戦いは、天狗(深山に住むと思われていた怪物)のしわざであるとしかいいようがない。天狗が荒れるのを鎮める事の出来る仏法も、このように人の心が悪く成り果てては、もう何とも仕方がない。

「松殿の政権運営」
 さて義仲は、松殿(基房)の子で十二歳の中納言(師家)をやがて内大臣に昇進させ、さらに摂政・藤原氏の氏長者にした。この人は八歳で中納言になられたので八歳の中納言というあだ名を付けられていた。この時には大臣の欠員もないので内大臣の実定(さねさだ)から、しばらくの間といって借りての昇進であった。世間では師家に「借るの大臣」というあだ名を付けた。
 こうして政務は松殿がとり行なわれることになった。かってあのように平家の為にひどい方法で摂政の地位を失われたので、せめてこの時だけでもなどという気持ちだろう。
 さて松殿は除目(ぢもく、人事異動)を行い、善政と考えて、俊経(としつね)を宰相(さいしょう、参議)にとりたてなされた。かゝる次第なれば、摂政関白家の所領や文書は松殿が皆すべて管理なさるのが当然であるから、近衛殿(基通)の権威はもろくも失われた。
 後白河法皇は近衛殿をこの上なくかわいく思っていた。賀陽院(かやいん)の所領は、近衛殿の父中殿が、賀陽院の養子になって相続していた、それだけは近衛殿に領有を許してはどうかと、なお後白河法皇より御言葉にされた。それなのに、松殿は認められないという返事をなされたので、法皇は悔しく思われた。
 松殿ほどの人も、こうして木曽義仲の権力のもとで、いつまでも政務をとろうと考えたと思うと、この上なく残念である。
 九条殿(兼実)は賢明で、その時、木曽義仲に選ばれず松殿(基房)が選ばれたことについて、「表向きには十二歳(師家)の仮面を立てたというのは、あきれた興ざめな話だが、実際は松殿が再任したということである。あぶない、あぶない」といって、自分が逃れたのは仏神の助けであると喜ばれた。

「義仲の最期」
 このようにして、やがて次の年、寿永三年(一一八四)正月、頼朝は、法住寺合戦の事を聞くと、弟の九郎(義経)という者に、土肥実平・梶原景時・次官(すけ)(中原)親能(ちかよし)など付けて都へ上らせた。義経は正月二十日、たやすく京都へ進入し、その日の内に義仲を打取り、首を取った。
 それより前に、関東の武者が攻め上ると聞いて、義仲は郎等どもを、勢多(せた、滋賀県大津市)・宇治(うぢ)・淀(よど、京都市伏見区)などの方面へ分けて防ごうと、手びろく布陣する作戦を立てた。
 ところが九郎、親能は素早く宇治の方より駆け入った。すでに賀茂の川原に敵軍が立ったと聞いて、義仲はわづかに四・五騎を従えてで駆け出した。やがて落ちて行き勢多の手勢に加わろうとして、大津の方へ指して落ち行く処、九郎の軍勢が追いつき、大津の田の中に追い込んで、伊勢三郎という郎等が打ち取ったと聞こえてきた。
 義仲の首を持って参りましたので、後白河法皇は御車(おくるま)に乗り御門(ごもん)へ出でて御覧(ごらん)になりました。

「一の谷の合戦」
 さて平氏の宗盛内大臣は、我が主とする安徳天皇をお連れして、義仲と連携する作戦で、西国より京都をめざして進軍し、福原に着き滞陣していた。
 やがて寿永三年二月六日、この頼朝の郎従等が押しかけて行き攻撃した。その戦いは一の谷という処で、搦(からめ)手としては、九郎義経(よしつね)という、後の京極殿(良経)の名と読みが同じであったため、後には義顕(よしあき)と変えられた、この九郎が、その一の谷より打ち入り、平家の一族、東大寺焼き討ちの大将軍重衡(しげひら)を生けどりにして、その他十人ばかりが、その日の内に討ち取られた。教盛(のりもり)中納言の子の通盛(みちもり)三位や忠度(だだのり)などである。そして宗盛はあわてふためき船に乗り込み、又落ち延びて行った。

「神殿の造営」
 寿永三年四月十六日に、崇徳(すとく)上皇と宇治贈(ぞう)太政大臣(頼長)を祀る神殿が出来上がった。神社の敷地は春日河原(京都市左京区)の保元の乱の戦場跡に定められた。
 この神社の造営のことが短期間に決せられたのは、「木曽義仲が起こした法住寺合戦のことを人々かもっぱら天狗のしわざ」であると思っていたからであり、間違いなくこの新院(崇徳上皇)の怨霊(おんりょう)のせいであるなどと言われていたからである。
 (注) 贈(ぞう)・・・死後におくられた事をあらわす。

「義経の謀反」
 九郎義経は検非違使五位伊予守というように官位を進められ、関東の鎌倉の館に赴き、また都に戻ってきたころから、頼朝に背く悪心を抱くようになった。
 義仲は入京してから敵対する人々を捕えて絞め殺そうと思い、まずはじめに頼盛がねらわれたので、頼盛大納言は頼朝のもとへ逃げ下って行った。
 十郎蔵人源行家という武士は、先には木曽義仲に付いていた。今度は九郎に合流していたのに、それも離れて、北石蔵(きたいわくら)で討たれた。


二・六 結論

 木曽義仲に関する通説(俗説)は殆ど『平家物語』や『源平盛衰記』、『市町村誌』「地方の伝説」によるものであり、真実かどうか不明である。
 『平家物語』の作者は複数いるようである。義仲の入京までは中立的な作者。京都在中は義仲に批判的な公家などの作者。義仲の最後の場面は義仲に同情的な作者が考えられる。
 現実の裁判でも現物証拠があると判定しやすい。現物証拠が無いと状況証拠のみとなり、判定は困難である。歴史では確実な史料が現物証拠に相当し、確実な史料が無い場合は『物語』や「伝説」に頼ることになり真偽不明である。
 木曽義仲の存在は確認出来る。しかし生誕地、生育地、戦いの詳細などは不明である。それは木曽義仲側の記録がほとんど見つからないためである。「義仲の下文」など若干の史料があるのみである。
 しかし期待はある。京都の公家や地方の旧家の倉庫や国立図書館などの倉庫に眠っているかもしれない。
 「義仲は征東大将軍」説は文学博士の櫻井陽子氏が国立公文書館から見つけた史料によるものである。国立公文書館蔵の『三槐荒涼抜書要(さんかいこうりょうぬきがきのかなめ)』は『三槐記』と『荒涼記』からの抜書きである。
 巴・山吹は存在自体も不明である。『源氏物語』の紫式部、『枕草紙』の清少納言などのよほど高名な作品の著者や高貴な身分の女性でないと記録に残りにくい。紫式部や清少納言の本名は不明である。今後の新史料の発見に期待する。

「参考文献」
 一、『訓読玉葉』   高橋貞一    高科書店
 二、『玉葉精読』   高橋秀樹    和泉書院
 三、『全訳吾妻鏡』  永原慶二監修  新人物往来社
 四、『現代語訳吾妻鏡』 五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館
 五、『吾妻鏡・玉葉データベース』 福田豊彦監修 吉川弘文館
 六、『新訂吉記二』  高橋秀樹    和泉書院
 七、『愚管抄全註解』 中島悦次    有精堂
 八、『愚管抄全現代語訳』 大隅和雄  講談社
 九、『古代文化』六十三号 「木曽義仲の畿内近国支配と王朝権威」 長村祥知 
 十、『立命館文学』六二四号 「治承・寿永内乱期の在京武士」 長村祥知 
 十一、『軍記と語り物』四十八号「木曽義仲の上京と『源平盛衰記』」 長村祥知 
 十二 『信濃』信濃史学会 六十五・十二 「木曽義仲の発給文書」 長村祥知 
 十三、『史学義仲』 第四、八、十二号 木曽義仲史学会
 十四、『朝日将軍木曽義仲洛中日記』 高坪守男 オフィス・アングル
 十五、『旭将軍木曽義仲軍団崩壊』  高坪守男 オフィス・アングル
 十六、『市河文書』 長野県立歴史館 古文書一覧 
 十七、『名月記研究』九号(頼朝の征夷大将軍任官をめぐって) 櫻井陽子 
 十八、『日本の中世の歴史三』(源平の内乱と公武政権) 川合康 吉川弘文館
 十九、『源義経』 元木泰雄 吉川弘文館
 二十、『武力による政治の誕生』 本郷和人 講談社
 二十一、『平安遺文』 東京堂出版
 二十二、『木曽路大紀行』 田中欣一  一草舎出版


あとがき

 長野県民でも、「義仲か、あいつは悪い奴だ」と誤解している人は少なくない。「いや、そんなことは無い」と反論している。
 著者が木曽義仲に関心を持ったのは、職場の同僚に「木曽義仲を知っているか」と聞かれ、「うん。隣村だな」と答えた。著者の生まれは新開村(木曽町新開)である。夏に義仲・巴の松明祭りのポスターを見て、義仲と巴は関係がある。日義村(木曽町日義)に義仲館が出来たという程度の知識だった。
 「あいつは京都で悪さしたらしいな」と言う。えっ、そんな話は聞いたことが無い。しかし反論した。「『勝てば官軍、負ければ賊軍』ということを知らないのか。歴史では負けたほうが悪いことをしたようにされるものなんだ」。しかし何をしたのか全く知らなかった。
 日義村に移り、「義仲ガイド講習会」の案内が入った。NHKの大河ドラマ「義経」が始まるので、義仲ガイドの要請が増えるかもしれない。そこでガイドを増やそうとしたという。これを受ければ疑問が解決するかと思い受講した。木曽義仲史学会長の今井弘幸氏が講師だった。
 今、振り返ると木曽義仲の養父とされる中原兼遠の屋敷跡は小学校、中学校の対岸の地にあった。しかし、小学校、中学校でも歴史の時間に義仲は出てこなかった。これは著者の記憶違いでもない。木曽義仲史学会の会長の今井弘幸氏は「中学校で歴史を担当したが、義仲の「よ」の字も教えたことが無い。反省している」と話しておられた。義仲は悪者とされていたから、歴史の時間に取り上げる必要は無いという方針だろう。