旭将軍木曽義仲
         (その実像と虚像)

はじめに

 木曽義仲に関心を持つ者にとって大きな疑問は、軍記物語の『平家物語』や『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』、また『市町村誌』や「地方の伝説」などによる木曽義仲像は何が実像で何が虚像なのかという事である。
 実像を求めて、当時の右大臣「九条兼実(くじょうかねざね)」の日記『玉葉(ぎょくよう)』、公家の「吉田経房(よしだつねふさ)」の日記『吉記(きっき)』、「中山忠親(なかやまただちか)」の日記『山槐記(さんかいき)』、僧侶(そうりょ)「慈円(じえん)」の歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』、鎌倉政権編集の『吾妻鏡(あずまかがみ)』、その他の歴史論文や著書などにより考察してみた。
 第一章は義仲の実像や虚像についての概要をまとめたものである。
 第二章は各種の著書・論文を入手しにくい読者のために多くの引用文を解説したものである。

目次

第一章 木曽義仲の虚像と実像

一・一 木曽義仲の虚像と実像 
一・二 義仲の概要
一・三 義仲の虚像と実像
一・四 義仲の謎
一・五 合戦の謎
一・六 巴御前の謎
一・七 ゆかりの地の伝説
一・八 木曽家のその後
一・九 松尾芭蕉と新井白石と芥川龍之介

第二章 史料に見る義仲像

二・一 『平家物語』に見る義仲
二・二 『吾妻鏡』に見る義仲
二・三 『吉記』に見る義仲
二・四 『玉葉』に見る義仲
二・五 『愚管抄』に見る義仲
二・六 結論

「参考文献」
あとがき


第一章 木曽義仲の虚像と実像

一・一 木曽義仲の虚像と実像 

一・一・一 義仲の虚像

 木曽義仲は武蔵(むさし、東京都、埼玉県)国で生まれた。父は源義賢(よしかた)、母は小枝(さえ)御前、幼名は駒王丸(こまおうまる)という。父・義賢は頼朝(よりとも)の兄の義平(よしひら)に討たれた。義仲は信濃(しなの、長野県)国の木曽に逃れ、権守(ごんのかみ)・中原兼遠(かねとお)に養育され木曽で成長した。
 十三才で元服し、木曽次郎義仲と名乗った。正式名は源義仲である。二十七才のとき以仁王(もちひとおう)による平家追討の命により挙兵した。信濃の横田河原の合戦、北陸の倶梨伽羅(くりから)峠の合戦に勝利し、さらに平家軍を京都から追放した。平家軍退却により、無警察となった京都は放火・略奪の混乱状態となった。『平家物語』では、この略奪が義仲軍のしわざとされている。今井、樋口、根井、楯(たて)の木曽四天王以下の木曽軍五万騎を従え入京した。義仲軍は放火・略奪の鎮圧、治安回復、平家追討を命じられた。後白河法皇や頼朝と敵対し、法住寺御所を攻めた。      
 征夷(東)大将軍に任命されたが、頼朝軍の攻撃により琵琶湖のほとりの粟津原(あわつはら)で討ち死にした。三十一才であった。
 以上は、ほとんど『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語や『市町村誌』「地方の伝説」などにより作られた通説(俗説)つまり虚像である。
 さらに木曽義仲の虚像としては、次のような悪評が横行している。
① 木曽義仲軍は京都で乱暴狼藉を働いた。
② 田舎育ちの礼儀知らずの、無作法者であった。
③ 後白河法皇に逆らい、法住寺御所を焼き討ちした。
 総じて、悪者、乱暴者、国賊のイメージである。

一・一・二 義仲の実像

 それでは実像はいかに、というと残念ながら確実な歴史史料が少ないため、確かな実像は意外に少ない。
① 義仲、行家の実在は確かである。
 『平家物語』などの軍記物語への登場だけでは存在は証明されない。それ以外の歴史史料や公家の日記『玉葉(ぎょくよう)』や『吉記(きっき)』、僧侶の歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』、鎌倉政権編集の『吾妻鏡(あづまかがみ)』などにも記述があるので、通称「木曽義仲」、正式名「源義仲」や通称「十郎行家」、正式名「源行家」が存在した事は確かなようである。
② 今井兼平、樋口兼光らの実在
 義仲・行家と同じく、『平家物語』以外の『吾妻鏡』にも記述があるので、存在した事は確かなようである。『愚管抄』には「山田・樋口・楯(たて)・根の井と云う四人の郎従あり」とある。山田は今井の誤りだろう。『玉葉』には「義仲の第一の郎従(字は楯という)」「(志田)義廣(三郎先生)」などの記述がある。
③ 木曽義仲軍は京都で乱暴狼藉を働いていない。
 当時の京都の警察(治安維持)は平家軍が担当していた。七月二十五日に平家軍が西国へ退却したので、京都市内は無警察となり、元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民などが放火・略奪を始めた。その混乱の鎮圧を近くに来ていた義仲軍に期待し命令した。七月二十八日に入京したが、『玉葉』の伝聞には九月五日まで時々市内の乱暴が記述されているので、その鎮圧には約一か月を要した。『平家物語』ではこの混乱・乱暴が義仲軍のしわざとされている。「乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である」。
 参照『史学義仲第八号』、『朝日将軍木曽義仲洛中日記』。
④ 「木曽軍五万騎」の実数は十分の一の五千騎である。
 『平家物語』には木曽軍五万騎とある。実数を十分の一とする根拠は、公家の日記『玉葉』に「世間のうわさ話では一万騎だという平家軍の実数を数えたら千騎だった」。「有名無実の風聞かくの如し」と風聞のあいまいさを記述している。世間のうわさ話による『軍記物語』は約十倍に誇張されていると推定した。これには未だ確かな史料の発見が必要である。
 義仲と同時に入京した将兵は信濃からの義仲直轄軍が約約二千騎、北陸地方から数百騎、近畿地方の反平家の源氏軍、平家軍からの寝返り組など数千騎が加わり、合計約五千騎と推定される。参照『史学義仲』第十四号、『旭将軍木曽義仲軍団崩壊』。
⑤ 義仲軍の洛中での兵糧調達は貴族や寺社からのみにした。
 義仲軍の洛中での兵糧調達は持てる者、すなわち貴族や寺社への追捕(ついぶ)のみにした。持たざる者、すなわち庶民に被害の及ぶ路地追捕(ろじついぶ)は取り締まった。 参照『玉葉』寿永三年二月「武士押妨(おうぼう)停止の宣旨」、「公田(くでん)庄園(しょうえん)への兵粮米を徴集停止の宣旨」、『史学義仲』第八号、『朝日将軍木曽義仲洛中日記』。
⑥ 法住寺御所は焼け落ちていない。
 法住寺御所は焼け落ちていない。周囲の民家が燃えただけである。
「法住寺合戦」の原因は。『平家物語』では「義仲軍が乱暴の間、鼓判官(つづみほうがん)知康(ともやす)が使者として義仲を訪ね、侮辱されたので合戦となった」とされている。
 『玉葉』によれば、義仲軍の京都からの追放を企画した法皇側に義仲が反発した。合戦前の使者は鼓判官(つづみほうがん)ではなく、澄憲法印(じょうけんほういん)または主典代(しゅてんだい、大江)景宗である。
 参照 『史学義仲第十号』、『朝日将軍木曽義仲洛中日記』。
⑦ 義仲は王朝の制度に無知な反権威的な人物ではない。
 義仲は武士の統制に有効な方法として官位の意味を理解して、王朝権威を積極的に利用しようとした。
 参照「木曽義仲の畿内近国支配と王朝権威」長村祥知『古代文化』六十三号。
⑧ 義仲は「征東(せいとう)大将軍」に任ぜられた。
 木曽義仲は「征夷(せいい)大将軍」に任ぜられたというのが従来の通説である。『平家物語』や『吾妻鏡』にも木曽義仲は征夷大将軍の記述がある。しかし、最近の研究では木曽義仲は「征東大将軍」に任ぜられたという説が有力である。
 『玉葉』によると、義仲は最初は従五位下(じゅごいのげ)、左馬頭(さまのかみ)、越後守(えちごのかみ)に任命された。後に『吾妻鏡』によると伊与守に転任した。「法住寺合戦」後、『吉記』によると院厩(うまや)別当(長官)に任命され、左馬頭を辞退した。さらに『玉葉』によると「征東大将軍」に任ぜられた。
 参照『史学義仲第』十二号、『旭将軍木曽義仲軍団崩壊』。
⑨ 巴、山吹は実在か否かは不明である。
 巴、山吹は妾ではない。義仲の妻かもしれない。当時は一夫多妻が多い。貴族の一部には嫡妻、本妻、妾妻と区別する者もいた。
⑩ 巴は薙刀を持たない。
 『平家物語』によると、巴は騎馬武者であり、弓矢・刀が主要武器である。

一・二 義仲の概要

 木曽義仲は、平安時代の末期(約八百五十年前)、「源平合戦」つまり「治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱」の頃、平家(清盛一門)を京都から追放し、結果として頼朝(よりとも)の鎌倉政権(幕府)の成立に寄与したが、頼朝と敵対し三十一才で討ち死にした。後に義経(よしつね)も頼朝と敵対し三十一才で討ち死にした。
 頼朝と義経は兄弟であり、彼らと義仲は従兄弟(いとこ)になる。頼朝や義経の父は義朝(よしとも)、義仲の父は義賢であり、義朝と義賢は兄弟である。清和天皇を祖とする清和源氏の一族であり、義賢の祖父は八幡太郎義家、為義(ためよし)の長男が義朝、次男が義賢である。さらに志田(三郎)義弘や十郎行家などは義仲の叔父になる。義朝の子供には義平(長男)、頼朝(三男)、範頼(のりより、五男)、義経(九男)などがいる。頼朝の子供には頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)などがいる。

為義--+--義朝---+--義平
         |               |--頼朝--+--頼家
         |               |--範頼    |--実朝
         |               +--義経   +--大姫
          +--義賢---+--仲家
          |               +--義仲-----義高
          +--義広(志田)
          +--行家(十郎)
                      
一・二・一 義仲の活躍の概要

「上皇(法皇)による院政」
 義仲が活躍した平安時代の末期は、天皇が政治の実権を握る「天皇親政」から「院政」という天皇が子に位を譲り、上皇(じょうこう、○○院)となり実権を握り政治を行う変則の時代である。法皇(ほうおう)とは上皇が出家した場合をいう。
「現在の自衛隊や警察が無い」
 平安京に都を移す二年前(七九二年)、桓武(かんむ)天皇は朝廷の正規軍を変更し、死刑制度も徐々に廃止した。平安な都を目指したというが、かえって治安は悪化した。            
 その警備役として源氏や平氏の武士が使われ、京都や地方で勢力争いをしていた。  
 義仲の父・義賢も兄の義朝と関東地方で勢力争い中に、義朝の長男の悪源太義平に討たれた。(当時の悪は強いの意味である。悪僧=僧兵) 義仲(駒王丸)も危うい処を、斎藤実盛(さねもり)などに助けられて木曽へ逃れた。
「保元(ほうげん)の乱」・「平治(へいじ)の乱」
 天皇方と上皇方が武士を使い争う権力闘争が起こり、まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代となった。勝ち組が政治の実権を握り、負け組は死罪または流罪(るざい、島流し)となった。「平治の乱」で義朝、義平は負けて死亡し、頼朝は伊豆へ流罪となった。『愚管抄』によれば「武者(むさ)の世」となった。
 以後二十年間は勝ち組の後白河法皇(ごしらかわほうおう)と「清盛平家」の時代となり、清盛一門の繁栄が続いた。清盛の縁戚が高倉天皇となり、一一八○年(治承四年)に高倉天皇は上皇となり、清盛の孫の安徳(あんとく)天皇が誕生した。
「以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ、王の命令)」
 後白河法皇の子で「以仁王」は平家追討の令旨を各地の源氏の武士などに発した。これを清盛に知られ以仁王は討たれた。
「各地で挙兵」
 京都近国など各地で反平家の反乱が起こり、平家軍はその鎮圧に追われた。八月になると伊豆(いず、静岡県)の頼朝が挙兵し、九月には信濃(しなの、長野県)の義仲も挙兵した。頼朝は「石橋山の合戦」で敗れ千葉方面に逃れた。千葉や関東の武士が追従し、次第に勢力を盛り返し数万の軍勢となり鎌倉を根拠地とした。
 義仲は信濃の中部、東部や上野(こうずけ、群馬県)の一部の武士を集め丸子(上田市)の依田(よだ)に陣を構えた。
「富士川の合戦」
 清盛は孫の惟盛(これもり)を大将軍として頼朝への討伐軍を送った。だが平家軍は数千騎しか集まらなかった。頼朝は関東の武士を数万騎集め、富士川で対決した。『平家物語』や公家の日記『山魁記(さんかいき)』には、平家軍は水鳥の羽音を敵襲と勘違いし、あわてて退却したという、うわさ話の記述がある。実際は『玉葉』によると甲斐(かい、山梨)源氏の武田軍が対抗し、その多さに恐れ、前夜に退却したという。
「高倉上皇、清盛没」
 一一八一年(治承(じしょう)五年、養和(ようわ)元年)に高倉上皇と清盛が亡くなった。
「横田河原の合戦」
 平家は木曽義仲の討伐を越後(えちご、新潟県)の城(じょう)氏に命じた。一一八一年(養和元年)六月、城氏は越後・奥羽の武士を集め、数万騎(実数約一万騎)の軍勢で信濃へ侵攻した。義仲軍は数千騎(実数二千騎未満)で迎え撃ち、横田河原(川中島近く)の合戦で撃退した。以後、北陸地方の武士は義仲に追従するようになった。
「養和の大飢饉(ききん)」
 一一八一年(養和元年)から一一八二年(養和二年)は全国的な飢饉となり、「腹が減っては戦は出来ぬ」ので大規模な合戦は無かった。
「頼朝が信濃に侵攻」
 一一八三年(寿永二年)春、頼朝が義仲の勢力拡大を警戒して信濃に侵攻した。義仲は子の義高を人質に出して和平を結び、頼朝は鎌倉へ帰還した。
「北陸道の合戦」
 四月、平家は、またもや惟盛(これもり)を総大将とする十万騎の義仲討伐軍を北陸道へ派遣した。十万騎というのは『平家物語』の誇張で、実数は一万騎と推定される。
 養和の大飢饉の後なので兵糧米(ひょうろうまい)が不足した。そこで平家軍は官軍として追捕(ついぶ)という現地調達方式で進軍した。その現地調達の実態は略奪に等しく、人民は山野に逃散した。
 五月、平家軍は石川・富山県境の倶梨伽羅(くりから)峠を越えてきた。これを義仲の部下の今井四郎兼平(かねひら)が率いる軍勢が般若野(はんにゃの)で撃退した。
「倶梨伽羅(くりから)峠の合戦」
 平家軍は倶梨伽羅峠まで退却し夜営していた。義仲軍は五万騎(実数は五千騎未満)の軍勢で夜討ちをかけ平家軍は敗退した。『源平盛衰記』によると牛の角に松明を付けた「火牛(かぎゅう)の計」により平家軍は敗退したという。
 さらに篠原(しのはら)の合戦で平家軍は敗退し、ほぼ半減したという。この合戦で手塚太郎光盛が義仲の命の恩人である斎藤実盛(さねもり)を討ったという。
 義仲軍は追撃し、京都に迫った。京都周辺の反平家の源氏の武士が合流し、さらに平家軍に追従していた武士も寝返り、木曽軍は五万騎(実数は五千騎)に増加した。平家軍は実数二千騎と推定される。
「平家軍は京都退却」
 七月二十五日、平家軍は平家屋敷などに放火して安徳天皇を連れて西国へ退却した。その前日に後白河法皇は比叡山へ逃れた。
 それまで京都の警察・治安維持は平家軍が担当していたので無警察となり、市民や僧兵の火事場泥棒や放火・略奪が横行した。これは公家の日記『玉葉』・『吉記』や『愚管抄』に記述がある。この混乱が『平家物語』などでは義仲軍のしわざにされている。法皇や公家は京都の治安回復を義仲軍に期待した。
 「僧兵」とは、大きな寺の警備員である。大きな神社には「神人(じんにん)」と呼ぶ警備員がいた。 参照 『史学義仲第八号』『朝日将軍木曽義仲洛中日記』。
「義仲軍の無血入京」
 七月二十八日(太陽暦八月十七日)木曽軍五万騎(実数五千騎)は無血入京した。
 義仲と行家は法皇に謁見(えっけん)し、平家追討と治安回復の命令を受けた。この時、義仲を見て、顔つきや服装を記録した公家がいる。『吉記』の著者・吉田経房である。残念ながら服装は詳細に記述しているが、顔つきは「年齢三十才位」の記述のみである。
 この頃、法皇・公家の武士への評価は、「企画した頼朝が第一、実現した義仲は第二、行家は第三」であった。これは前から法皇側に連絡をとっていた頼朝の巧妙な計略による。義仲は頼朝の代官とみなされた。もちろん独自に行動していた義仲は知らなかった。
 八月十日、義仲は従五位下(じゅごいげ)、左馬頭(さまのかみ)、越後守(えちごのかみ)、行家は従五位下、備後守(びんごのかみ)とされた。「朝日(旭)将軍」は正式な官職名ではなく、『平家物語』の創作である。後に義仲は伊予守(いよのかみ)に、行家は備前守(びぜんのかみ)に転じた。
「治安回復の遅れ」
 義仲は京都市内の治安回復を命令されたが、入京軍の兵糧米は現地調達、官軍としての追捕(ついぶ)、実態は略奪に近いものであり、どさくさにまぎれ京都市民などの略奪が横行し、治安回復は遅れたようである。『平家物語』では義仲軍のみが略奪したように記述している。『玉葉』にも九月五日(太陽暦九月二十三日)までは、市内の混乱を記述している。九月六日以後に混乱の記述は無い。この頃になると米の収穫、入荷が始まり、治安は回復したようである。
「義仲軍は規律違反者を処罰した」
 『玉葉』には「伝聞、武士十余人の首を切る」、『吉記』には「伝聞、行家は乱暴した者の手を切る」の記述がある。義仲軍が規律違反者を処罰したかもしれない。
 義仲軍の洛中での兵糧調達は持てる者、すなわち貴族や寺社への追捕(ついぶ)のみにした。持たざる者、すなわち庶民に被害の及ぶ路地追捕(ろじついぶ)は取り締まった。これは『玉葉』の寿永三年二月に「武士押妨(おうぼう)停止の宣旨」、「公田(くでん)庄園(しょうえん)への兵粮米を徴集停止の宣旨」の記述がある。義仲軍滅亡後に、鎌倉軍や平家軍が乱暴な調達を続けているので停止せよと命じている。義仲軍のみが乱暴していたのなら、このような命令を出す必要は無い。「義仲は公田・荘園への兵粮米の徴集を強化した」の記述がある。
「皇位継承問題」
 平家軍が安徳天皇を連れて西国へ逃げたので、京都に天皇が不在となった。京都の新天皇を誰にするか。義仲は北陸宮(以仁王の子)を推薦した。しかし後白河法皇は高倉天皇の四の宮を新天皇(後鳥羽天皇)と決めた。この件により後白河法皇は義仲を警戒し、さらに頼朝に期待するようになった。
「水島の合戦に敗北」
 義仲は、矢田義清、海野行広の二人を大将として西国へ平家追討軍を派遣した。
閏(うるう)十月一日、水島(岡山県倉敷市)で合戦となった。この合戦は海上の船の戦となり、義仲軍は不得手であった。大将の矢田義清、海野の二人が討ち死にした。
 この日は日食があった。『玉葉』にも記述がある。朝廷には天文博士(天文係)がいて、上級貴族には知らせていた。平家軍も知っていたようだが、義仲軍は知らなかったのが敗因の一つかもしれない。急いで義仲も西国へ出陣した。
「十月宣旨(せんじ、天皇の命令)」
 義仲が京都を留守にしている間に、後白河法皇は頼朝の申請により「東山道(とうさんどう、道州制の道)、東海道は頼朝の支配とする」という宣旨を出した。信濃は東山道に含まれているので義仲は反発し、急いで帰京した。
「法住寺合戦」
 後白河法皇は義仲を京都から追放するため、法住寺御所に僧兵や義仲軍からの寝返り組など『平家物語』では二万騎(実数は二千人)を集めた。義仲は追討命令に対抗し、十一月十九日、義仲軍は『平家物語』では七千騎(実数は千騎のうち五百騎)で法住寺御所を攻め合戦に勝利した。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。義仲が政治の実権を得た事になる。義仲は政治を前関白の藤原基房(もとふさ)にまかせた。基房は十二才の子で師家(もろいえ、)を内大臣にした。義仲は院厩(うまや)別当(長官)に任命され、左馬頭を辞退した。「頼朝追討命令」などを発した。しかし、頼朝軍の大軍が近づいているうわさ話があり、味方する者は少ない。
「義仲・征夷(東)大将軍」
 一一八四年(寿永三年)一月、義仲は「征夷(東)大将軍」に任命された。
「義仲戦死」
 『平家物語』では木曽冠者義仲は「左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲」と名乗る。
正確には「院厩(うまや)別当兼伊予守征東大将軍源義仲」となる。
 一月二十日(太陽暦三月四日)、義仲は粟津原で義経軍に討たれた。数え年三十一才であった。「数え年」というのは、生まれた時が一才、次の正月で二才と数える。

一・二・二 義仲の没後

「一ノ谷合戦」
 一一八四年(寿永三年)二月、「一ノ谷合戦」で鎌倉軍が平家軍に勝ち、平家軍は西国へ退却した。
「屋島の合戦」
 一一八五年(文治元年)二月、「屋島の合戦」で鎌倉軍が平家軍に勝ち、平家軍はさらに西国へ退却した。
「壇ノ浦の合戦」
 一一八五年(文治元年)三月、「壇ノ浦の合戦」で「平家」(清盛一門)は滅亡し、安徳天皇も亡くなった。その後、義経と頼朝は反目し敵対した。
「守護・地頭の設置」
 十一月 頼朝は「義経追討」の名目で、各地に守護(しゅご)・地頭(じとう)を設置した。さらに「反当たり五升」の軍用米の徴収(約五パーセントの増税)を決めた。
 (注) 守護(しゅご)・・・治安・警備などに当たる。
   地頭(じとう)・・・税の徴収などを行う。
「奥州藤原氏滅亡」
 一一八八年(文治四年)、奥州で義経が藤原氏に討たれた。三十一才であった。
 義経をかくまったという理由で奥州藤原氏も頼朝に討伐された。
「後白河法皇死去」「頼朝が征夷大将軍」
 一一九二年(建久三年)、後白河法皇が死去し、頼朝が征夷大将軍に任命された。
 一一九二年(いいくに作ろう鎌倉幕府と覚えたが?)
 頼朝が征夷大将軍に任命されたのは一一九二年ではあるが、鎌倉政権(幕府)の成立の時期については諸説ある。徐々に体制を整備していったのである。
 頼朝に味方した関東の武将は北条氏を初めほとんど平氏系である。頼朝は平家追討に功績のあった義仲、義経、範頼、重忠、甲斐源氏などの武将を追討した。しかし、源氏も頼家(よりいえ)と実朝(さねとも)の三代で終わった。実権を握った北条氏などの関東武士の策略だろう。

一・三 義仲の虚像と実像

一・三・一 「HP」や「知恵袋」の虚像

 インターネットのHP(ホームページ)や「知恵袋」には「木曽義仲軍の乱暴」の記述が目立ちます。「木曽義仲の軍は、何故洛中で狼藉を働いたのですか」など。
その対策として、次のような反論を書き込んでいる。

結論  「木曽義仲の軍は、洛中で狼藉を働いていません」

 歴史の通説(俗説)では義仲軍が乱暴なので討伐されたとなっていますが、これは「勝てば官軍、負ければ賊軍」のとおり捏造(ねつぞう、作り話)です。当時はひどい飢饉だったので、平家軍は片道分の食料を現地調達という乱暴な方法で取り上げて進軍しました。官軍としての「追捕(ついぶ)」と言います。取られる側から見ると略奪に等しいものです。源氏軍も同じです。この乱暴な方法を木曽義仲軍のみがしたようにされているのです。
 その他、『平家物語』によると、義経は三草山の合戦の前に民家に火を点け松明がわりにした。『平家物語・延慶本』によると、義経は宇治川の合戦で民家を焼き払ったので、逃げ遅れた女・子供・老人・病人が焼き殺された。
(参考までに)
「木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相」
 いわゆる源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴狼藉(略奪)を働いたというのが『平家物語』その他の書物による通説(俗説)になっていますが、これは『平家物語』やその(解説)者の捏造(ねつぞう、作り話)です。さらに京都の公家の日記『玉葉』の誤解です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述しにくい。敗者については悪事を強調し捏造して記述される。「猫おろし」「牛車」「法住寺合戦」も権力者となった鎌倉などの関東武士を義仲に置き換えて非難したものである。

 1.『平家物語』や『玉葉』にも平家軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。
   (北国下向の場面)
 2.『平家物語・延慶本』には鎌倉軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。
   (梶原 摂津国 勝尾寺 焼き払う)
 3.『吉記』には義仲軍入京前に僧兵や京都市民の放火略奪の記述がある。
 4.『愚管抄』には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や京都市民の
   略奪の記述がある。義仲軍入京後には放火略奪などの記述は無い。
 5.『吾妻鏡』には鎌倉軍の守護・地頭の乱暴狼藉の記述が多数ある。

 つまり通説とは逆に義仲軍以外は全て乱暴狼藉(略奪)を働いていた。『平家物語』は琵琶(びわ)法師による庶民への語り物として広まった。その時庶民の乱暴狼藉を語る事は出来ない。また勝者となった権力者の頼朝や朝廷の批判は出来ない。
 「乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である」。
 当時の京都の警察(治安維持)は平家軍が担当していた。七月二十五日に平家軍が西国へ退却したので、京都市内は無警察状態となり、元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民などが放火・略奪を始めた。その鎮圧を近くに来ていた義仲軍に期待し、命令した。七月二十八日に入京したが、『玉葉』の伝聞によれば、九月五日までは市内の乱暴が記述されているので、その鎮圧には一か月を要したかもしれない。
 義仲軍の洛中での兵糧調達は持てる者、すなわち貴族や寺社への追捕のみにした。持たざる者、すなわち庶民に被害の及ぶ路地追捕は取り締まった。
 これは義仲軍が滅亡し、一の谷合戦の後に、武士達が自由勝手に兵糧調達を行う路地追捕や、国司や荘園の持ち主の貴族や寺社への兵糧調達のための追捕を止めるように宣旨が出されている。義仲は国司や荘園の持ち主の貴族や寺社への追捕を強化したとある。
 参照『玉葉』寿永三年二月二十三日 「武士押妨(おうぼう)停止の宣旨」「公田(くでん)庄園(しょうえん)への兵粮米を徴集停止の宣旨」

『玉葉』は右大臣・九条兼実の日記です。
『吉記』は左大弁・吉田経房の日記です。
『愚管抄』は僧侶・慈円の歴史書です。(慈円は九条兼実の弟)
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録(北条氏より)とされています。

参照
詳細は『朝日将軍木曽義仲洛中日記』
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
http://yosinaka.jimdo.com/

一・三・二 虚像か実像か

 軍記物語の『平家物語』や『源平盛衰記』、『市町村誌』・「地方の伝説」には実像と虚像が含まれている。それのみでは事実かどうか判定が出来ない。
 木曽義仲は『平家物語』『源平盛衰記』などの物語以外の史料の『吾妻鏡』『玉葉』『吉記』『愚管抄』に記述されているので、その存在は真実だろう。それ以外の生誕地、生育地、合戦の詳細などの実像はほとんど不明である。
 『平家物語』や『源平盛衰記』は現代の歴史小説のようなもので、事実かどうか判定出来ない。(以下『平』『源』と略す)
 『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録とされている。約百年後に北条氏により編纂されたという。義仲の活躍した寿永二年や、頼朝の死亡した年などの記録が無い。(以下『吾』と略す)
 『玉葉』は右大臣(名目のみ)・九条兼実の日記である。信用度は高いようだ。義仲については伝聞のみである。(以下『玉』と略す)
 『吉記』は法皇御所の書記官、吉田経房の日記である。最も信用度は高いが、欠落が多い。(以下『吉』と略す)
 『愚管抄』は九条兼実の弟で、僧侶の慈円が晩年に書いた歴史書である。(以下『愚』と略す)
 京都朝廷には書記官による公式式記録があるはずだが、このころ京都御所は火災により焼失し、天皇の御所が無かったので、貴族の別荘などを借り上げて皇居としていた。会議の記録は書記官が自宅に保管したか。公家の日記などが当時の混乱や、その後の戦国時代などでも運良く保存され残った。
 『平』や『源』には、あたかも見てきたかのような記述がある。誰が見て聞いて誰が書いたのか不明である。所詮作り話か。
 初期には琵琶法師の口伝とされ、数十種類の『平家物語』が生まれ内容に微妙な差がある。後に覚一という人が統一したものが語り本系「覚一本」である。
 口伝の語り本系以外に文書で伝わる読み本系がある。語り本の代表が『平家物語・覚一本』、読み本系の代表が『平家物語・延慶(えんぎょう)本』である。以下『平』『延』と略す。
 『源』は約百年後に、『平』『延』などを参照して、さらに加筆したという。
 また「地方の伝説」は事実かどうか判定が困難である。正確な木曽義仲側の記録は皆無に近い。

一・三・三 規律違反者の処罰

 現代の沖縄の米軍は実数五万人である。数人の米兵が乱暴すると、米軍人全員が乱暴者とみなされ非難される。しかし、ほとんどの軍人は規律正しい。
 木曽軍も全員が規律正しかったとは限らない。『玉葉』には「伝聞、武士十余人の首を切った」、『吉記』には「伝聞、行家は乱暴した者の手を切った」の記述がある。義仲軍も規律違反者を処罰したかもしれない。
 義仲と同時に入京した将兵は信濃からの直轄軍約二千騎以外に、北陸から数百騎、
近畿地方の反平家の源氏軍、平家軍からの寝返り組など数千騎が加わり、合計約五千騎となった。
 平家軍の寝返り組の将兵は「路地追捕」は当然として実行した。それを見た他の軍の将兵も真似をしたのだろう。
 義仲軍の洛中での兵糧調達は持てる者、すなわち貴族や寺社への追捕のみにした。持たざる者、すなわち庶民に被害の及ぶ路地追捕は取り締まった。

一・三・四 木曽義仲の子孫

 木曽義仲の子孫です。家系図もあると言う人がいる。これは証明が困難である。
「家系図の捏造」は歴史では有名な話である。戦国時代の信長が平氏、秀吉が藤原氏、家康が源氏などの子孫と称し、家系図を捏造したという。
 木曽にも木曽氏の子孫という家がある。千村氏、黒川氏、古畑氏、贄川氏などがある。
 明治時代の初め、武士以外の平民も自由に苗字を登録しても良い時期があった。木曽地方では「源」氏や「木曽」氏を申請すると「原」氏に変更させられたという。木曽郡に木曽氏はいない。木曽以外では何の制限も無かった。長野県の佐久市には数十人、広島県の尾道市・向島には数百人の木曽氏がいる。「今井」「樋口」氏は全国に数万人ずついる。今井兼平の子孫と称する人は少なくない。
 十代さかのぼると単純計算だが、千人の親がいる。さらに十代さかのぼると、その千倍つまり百万人の親がいる。つまり日本人は皆、(天皇家と)遠い親戚となるかもしれない。
 人類の祖先はアフリカの草原から始まったという。人類はみな遠い親戚である。

一・三・五 義仲専門の歴史学者・研究者はいない。

 義仲の虚像のみが横行し、正しい実像が得られないのは何故か。義仲専門の歴史学者・研究者がいないからである。これには理由がある。
 義仲についての確実な歴史史料が少ないので、歴史論文が書けない。これでは博士号もとれず、教授にもなれないので生活出来ない。
 やむをえず確実な歴史史料の多い分野でとりあえず歴史論文を書き、博士号をとり、教授などになり生活費を得る。さらに義仲に関心のある人が片手間に小論文を書き、投稿し、講演する事になる。
 逆に小説家は史料が少ないので、自由に空想して書けるから都合が良い。『平』には、義仲は運命的な出生と成長、礼儀知らずの田舎者、乱暴者、みめかたち良き男、ユーモアセンスのある男、スピード出世、反逆者、征夷大将軍になった、悲劇的な最後の英雄として書かれており、小説の主人公として都合が良い。有名な作家などが『平』を参考にして書き、一般にはそれが広まり、その「虚像が史実として誤解」されている。
 だが、義仲の実像が田舎者だが礼儀正しかった。おとなしかった。色黒のブ男だった。ユーモアのない堅物だった。征夷大将軍になっていなかった。ぶざまな最期だったなど正反対の、ごく普通の人物だとしたら物語として全然面白くない。

一・三・六 講演会の講師

 木曽義仲に関する講演会などの講師としては「有名作家」「大学教授」「郷土史家」などが選ばれることが多い。しかし、いずれも確かな史料・実像が少ないため実像を語る事は出来ない。
 有名作家は書くのは得意だが、講演が上手な人は少ない。ある歴史小説家は「小説家はデータを集め過ぎてはいけない。想像して書けなくなる」と言いました。義仲については伝説のデータは多いが、確実なものは非常に少ない。
  逆に歴史研究者は確実なデータが少ないと「歴史論文」が書けない。普通の物語などは確実なデータとは言えない。ある歴史事実を発見したと論文に書いて発表しても、それを読んだ何人かの研究者がその論文を引用する程にならないと認められない。 一般に戦国時代より前は確実なデータが少ないので、ある人物の通説、俗説は全く逆だという事がある。江戸時代以後はデータが割合多いが、それでも人物の通説、俗説は全く逆だという事がある。例えば、赤穂浪士事件の悪役として登場する吉良氏は名君だったようである。
 大学教授は義仲について史料が少ないから片手間なので義仲の話題は少なく、自分の専門の話で埋めることになる。
 義仲や義仲軍は『平』に記述されるような乱暴者ではない。「乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である」。これは歴史初心者でも、『吉』、『愚』を見てすぐ判る。著名な歴史研究者や有名作家ならすぐ判るはずである。歴史研究者は真実を話すべきである。
 郷土史家は地元の歴史・伝説には詳しい。義仲については『平』のコピーである。
 結局、聴衆は雲をつかむような気分に包まれる。

一・三・七 史料は、どこかに眠っている。

 史料は、どこかに眠っている。多分、公家の子孫や地方の旧家の土蔵、博物館、歴史館、図書館、美術館などに積んである。
「義仲は征夷大将軍」
 「義仲は征夷大将軍」というのが通説である。実は「征東大将軍」だったかもしれない。これは『玉葉』にも記述があるが、ほとんどの史料では「義仲は征夷大将軍」とある。
  この「義仲は征東大将軍」説を発表した文学博士・櫻井陽子氏は国立公文書館蔵の『三槐荒涼抜書要(さんかいこうりょうぬきがきのかなめ)』による。これは『三槐記』と『荒涼記』からの抜書きである。『三槐記』は『山槐記』を指し内大臣となった中山忠親の日記である。『荒涼記』は藤原資季(藤原定能の孫)の日記である。
「義仲の下し文」
 いわゆる所領安堵状などである。『市河文書』つまり市河家の古文書から発見された。市河氏は北信濃の武将で、義仲に付き、頼朝に付き、後の戦国時代には上杉氏に付き米沢へ移転した。明治の廃藩置県で米沢から北海道へ移転した。文書は山形県酒田市の本間美術館に所蔵されている。
「得田章通への下文」
 能登国の得田地頭に与えた下文の写しのようだ。文書は石川県立図書館に所蔵されている。
 その他の史料が見つかっているようである。
 参照「木曽義仲の発給文書」長村祥知『信濃』信濃史学会第六十五巻第十二号。

一・四 義仲の謎

 「勝てば官軍、負ければ賊軍」の通り、勝者が「正義は勝者にあり、敗者は悪人」と宣伝する。
 義仲は敗者となったので後世の評価は高くない。義仲は悪者説が横行している。
NHKの大河ドラマにはなりにくい。NHKのドラマの戦国時代はさらに四百年後の話しである。
 平成二十二年に大河ドラマ「清盛」が放映された。『平家物語』には清盛や義仲は悪役として登場する。「義仲」の大河ドラマ化を期待した。
 しかし画面が汚い、筋書がわかりにくいという理由で視聴率が低下した。「義仲」の大河ドラマ化の期待は遠のいた。

一・四・一 生誕地は嵐山町(らんざんまち)か

 義仲の生誕地は現在の埼玉県嵐山町であるというのが通説である。
① 埼玉県比企(ひき)郡嵐山町(らんざんまち)の伝説によると、木曽義仲は現在の嵐山町で一一五四年に生まれたという。
② 群馬県多胡(たこ)郡吉井町(高崎市)の説もある。これは当時、上野(こうずけ、群馬県)の国府が多胡郡にあり、父の義賢はこの辺りの館に滞在していたという。
③ 東京都世田谷の大蔵説もある。
 『平』には「父・義賢が悪源太義平に討たれた」と、地名の記述は無い。
 『延』には「父義賢が上野(こうずけ、群馬県)国多胡(たこ)郡に居住し、秩父重隆の養君になり武蔵(埼玉、東京、横浜)国比企郡に通い、悪源太義平に大蔵の館で撃たれた」とある。
 『源』には「父義賢が武蔵国多胡郡に居住し、秩父重澄の養子になり武蔵国比企に通い、悪源太義平に相模国(神奈川県)大倉口で討たれた」とある。
 『吾』には「父義賢が武蔵国(埼玉、東京、横浜)の大倉の館で悪源太義平に討たれた」とある。
 このように『物語』の記述は父義賢の没地のみで、義仲の生誕地は特定出来ない。母(小枝御前?)は秩父地方の豪族の娘と推定される。しかし、遊女説もあり、京都か途中の宿場の人か。

一・四・二 成長地は木曽か

 義仲は現在の長野県木曽郡で成長したというのが通説である。信濃は山間地が多く、どこでも隠れ住む事は可能である。今井、樋口、落合の地名は多い。
① 義仲は現在の長野県木曽郡木曽町で成長したというのが通説である。
② 「松本成長説」によると、義仲は長野県松本市南部、塩尻市、朝日村小曽部(木曽部)で成長したという。
③ 「佐久成長説」もある。義仲四天王の今井、根井については佐久市に根井氏館跡、今井、落合の伝説がある。佐久穂町には楯氏館跡、矢田義清の城跡、樋口次郎兼光の伝説がある。佐久市の近くの山間地であれば可能である。
 駒王丸が木曽に逃れた年齢は二・三才の頃で、木曽で二十数年生育された。養父は中原兼遠で信濃の権の守(県の副知事)だという。
 『平』には「義仲二歳、母が抱えて」、『吾』には「義仲三歳、中原兼遠が抱えて」とある。
 『平』には「義仲二歳。母が抱えて信濃へ越え、木曽中三兼遠が処に行き。木曽と言う所は、信濃にとりても南の端、美濃(岐阜県南部)境なれば」とある。
 『延』には「信濃国(しなののくに)安曇郡木曽、木曽の山下で木曽仲三兼遠が育てた」とある。
 『源』には「義仲、名を駒王丸という。信濃国安曇郡に木曽という山里へ。木曽の中三権頭。木曽は」とある。
 『吾』には「義仲三歳。乳母の夫である中三権守(ごんのかみ)兼遠は義仲を抱いて信濃国(しなののくに)の木曽に逃れ、木曽は」とある。
 当時、木曽は美濃(岐阜県南部)国か信濃国か境界争い中であり、鳥居峠が境界のようだ。
 『吾』文治二年(一一八六年)には「大吉祖庄」の記述がある。「大吉祖庄」は木曽郡北部と推定されている。
 『高山寺(京都市右京区)文書』永仁六年(一二九八年)には「小木曽庄」の記述がある。『高山寺文書』延慶三年(一三一〇年)には「美濃(岐阜県南部)国小木曽庄」の記述がある。「小木曽庄」は木曽郡南部と推定されている。 
「義仲元服地」の謎
『平』には、「八幡大菩薩の御前にて十三才で元服」とある。
木曽町日義の旗挙げ八幡か。京都の石清水(いわしみず)八幡宮ともいう。

一・四・三 木曽四天王と巴の謎

 木曽四天王とされる今井四郎兼平は松本市今井地区、樋口次郎兼光は辰野町の樋口地区、根井幸親は佐久市根々井、楯六郎親忠は根井の息子で佐久穂町の武将とされている。樋口次郎兼光は塩尻市広丘高出地区、佐久穂町の説もある。
 『源』には「樋口次郎兼光、今井四郎兼平、巴御前は中原兼遠の子供で兄弟、巴御前は義仲の妾」とある。
 木曽義仲は三十才位で琵琶湖のほとりの粟津が原で討たれた。今井もここで自害した。樋口は後に捕虜となり斬首された。根井と楯は京都市内で戦死した。巴は落ち延び富山で九十一歳まで長生きしたという。
 これらの関係や、これからの説明はほとんど伝説である。確かなのは木曽(源)義仲や樋口次郎兼光、今井四郎兼平の存在のみである。
『吾』には
 養和元年九月四日。根井行親が越前国水津に。
 元暦元年一月二十日。今井四郎兼平敗北。 
 元暦元年一月二十一日。樋口次郎兼光逮捕。
 元暦元年一月二十六日。今井四郎兼平、根井らの首、囚人の樋口兼光。
 元暦元年二月二日。樋口次郎兼光の首。
の記述がある。
『愚』には「山田・樋口・楯・根の井と云四人の郎従ありけり」とある。山田は今井の誤りか。
「太夫坊覚明の謎」
 義仲に加わるのはかなり後のようだ。『平』には「藤原氏の大学にいた。出家して最乗房信救と名乗る。清盛の悪口を書いたので、追われて北国に落ち、木曽義仲の手書きとして太夫坊覚明と名乗る」。入京後、あまり登場しない。法住寺合戦の後、登場する。『吾』には「義仲没後、箱根山中に住む。一一九五年(建久六年)」とある。
「以仁王の令旨伝達の謎」
 以仁王は後白河法皇の第二王子で、運が良ければ天皇にもなれたはずである。
弟のほうが平家(清盛)の縁戚で高倉天皇となり、さらにその子が安徳天皇になる。
平家の横暴を征伐せよとの命令(令旨、りょうじ)を発した。
天皇の命令は宣旨(せんじ)、法皇の命令は院宣(いんぜん)という。
 源行家は源為義の十男で、義仲の父義賢の弟であり、義仲や頼朝の叔父である。
八条院の使者となり、令旨を伝達したという。
 八条院(暲子内親王)は鳥羽天皇の皇女で後白河法皇の妹である。全国に多くの荘園を所有していた。行家は八条院の荘園を利用したか。

一・四・四 義仲が「木曽」義仲と名乗った謎

 木曽義仲の正式名(官職に使う名前)は「源義仲」である。何故「木曽義仲」と名乗ったのか。
 当時の武士は源氏か平氏系が多かった。他者との区別のため、領地の地名から苗字を名乗るか、領地の地名に苗字を当てるのが普通であった。単純に他の源氏との区別のため「木曽」を名乗ったとしても不思議ではない。多分、当時、信濃に「木曽」を名乗る武士は居なかったか。美濃国岐蘇(きそ)を参考にしたか。養父の中原兼遠か親戚が木曽氏であったかは不明である。
 現在の木曽郡は、当時は地名としての「キソ」は古い文献の『続日本紀』大宝二年(七○二年)には「始開美濃国岐蘇(きそ)山道」とある。十一年後和銅六年「吉蘇路」が開かれた。美濃(岐阜県南部)国衙(こくが)関係者が報償されている。
 一六六年後『三代実録』によると元慶三年(八七九年)「県坂上岑(あがたのさかかみのみね)」(鳥居峠)をもって、信濃・美濃両国の国境とされた」とある。
 木曽には「吉蘇村」と「小吉蘇村」があり、美濃国恵那(えな)郡絵上郷に属すると記録されている。
 「吉蘇(きそ)路」」、「吉蘇村」、「小吉蘇村」などの記述があり、「岐蘇」か「吉蘇」の文字が使用されいてた。
 「木曽」の初見は鎌倉前期の千二百年前後に成立の『平』か、『吾』である。『平』には「信濃国に木曽冠者義仲という源氏有り」、『吾』には「源氏木曽冠者義仲は、信濃国木曽に」とある。『吾』には「信濃国大吉祖庄(木曽北部か)」が出てくる。『玉』『吉』にも「木曽冠者義仲」とある。
『玉』には「九郎の軍兵加千波羅平三」とある。「梶原」の当て字だろう。
 『平』には「義仲。信濃へ越え、木曽中三兼遠が処に行き。木曽と言う所は、」
 『延』には「信濃国(しなののくに)安曇郡木曽、木曽の山下で木曽仲三兼遠が育てた」
 『源』には「義仲、信濃国安曇郡に木曽という山里へ。木曽の中三権頭。木曽は」
 『吾』には「義仲、中三権守(ごんのかみ)兼遠は義仲を抱いて信濃国(しなののくに)の木曽に逃れ、。木曽は」とある。
 『源』には横田河原の合戦のとき木曽中太・弥中太が登場する。その他『保元物語』『平治物語』にも木曽中太・弥中太が登場する。『平』『延』には登場しない。
 『平』の「那須与一」に続く「美穂屋」の項目に「信濃国の住人木曽忠次」が登場する。多分、各『物語』の創作だろう。
 義仲は信濃国「木曽」という地名の所で育ち、木曽氏を名乗った。義仲滅亡後、頼朝の報復を恐れ、子孫や関係者が逃げ、周囲の者は口を閉ざすと、木曽という地名は消えて判らなくなる。
 「松本成長説」では、朝日村小曽部(こそぶ)という地名が木曽部だったという。現在の木曽郡に木曽という地名・地区は存在しない。「小木曽」はあるが江戸時代は荻曽村だった。
 現在の木曽町日義は平安時代の「小吉蘇村」、鎌倉時代の「大吉祖庄」と推定されている。江戸時代は宮越村、原野村だった。明治初期の合併で日義村になり、平成の町村合併で木曽町日義となった。

一・四・五 義仲の容貌

 『平』には義仲の容貌の記述は無い。『延』には「義仲はみめ形きよげにてよき男にて」、『源』には「義仲は顔形はすっきりして美男」とある。
 『吉』には「年令は三十才余」「錦の直垂(ひたたれ)、黒皮威(おど)しの鎧 (よろい)、石打の羽の矢、折烏帽子(おりえぼし)」と服装、装備の記述は詳細である。著者の吉田経房は法皇御所の書記官であり、義仲が後白河法皇に謁見したとき、近くで義仲を見て記録していたのだが、残念ながら容貌の詳細な記述は無い。
「頼朝の容貌」
 『平』には「顔おおきに背低く。容貌優美にして、言語分明なり」、『延』には「容顔悪しからず、顔大きにて少しひきぶとに見え、かんばせ優美に、言語分明にして」、『源』には「顔が大きく身長が高く、顔立ちが派手なつくりで、」とある。
 『玉』には「一一八三年(寿永二年)伝聞、頼朝の為体(ていたらく、風体)、威勢厳粛、その性強烈、成敗分明、理非断決」とある。しかし、一一九一年(建久元年)頼朝と会見後に頼朝の容貌についての記述は無い。なんだ、普通のオヤジだと思ったか。もっとも両者共に四十代のオヤジである。
「義経の容貌」
 『平』には「九郎は色白う背小さきが、向歯の」、『延』には「九郎は色白う背小さきが、向歯の」、『源』には「面長して身短く、色白して歯出たり」とある。これは義仲に味方した山本義経という武将と誤解したか。わざとデマを流したと推定されている。『義経記(ぎけいき)』には「九条院の常盤が腹にも三人有り。今若七歳、乙若五歳、牛若当歳子である。常盤と申すは日本一の美人なり。九条院は事を好ませ給ひければ、京中より容顔美麗なる女を千人召されて、その中より百人、又百人の中より十人、又十人の中より一人撰び出だされたる美女なり」とある。母が美人なら男子は美男かもしれない。
「平維盛(これもり、清盛の孫)の容貌」
 『平』には「容儀体拝(姿)絵にかくとも筆も尽くし難し」とある。
 (注) 容儀・・・礼儀作法にかなった姿。
    体拝・・・(太刀を身に帯びた)姿。
 『延』『源』には「みめかたちすぐれたり」とある。
 『玉』には「一一七五年(承安五年五月二十七日)「少将維盛、衆人(大勢の人)中、容顔(顔かたち)第一」とある。

一・四・六 「所領安堵状」の誤解

 頼朝は所領安堵状を出し、忠誠を誓わせた。が、義仲は所領安堵状を出さなかったという誤解がある。
 義仲も所領安堵状を出していた。『市河文書』や『得田文書』などがある。
 『吾妻鏡』一一八四年(元暦元年)二月二十一日に「尾籐太知宣参向、信濃中野御牧、紀伊(和歌山県)田中・池田両庄を安堵せしむ」(義仲の下文)の記述がある。
『吾妻鏡』一一八七年(文治三年)十一月二十五日にも「但馬住人山口家任の本領を安堵せしむ」の記述がある。

一・四・七 征夷(東)大将軍の宣下

 寿永三年一月十日、義仲は征夷大将軍に任命されたというのが今までの通説である。しかし、最近は征東大将軍に任命されたという説が有力なようである。
「征夷大将軍」説は『延』、『源』、『吾』などの記述による。
「征東大将軍」説は『玉』、『三槐荒涼抜書要』などの記述による。
 『玉』によると、義仲は最初は従五位下(じゅごいのげ)、左馬頭(さまのかみ)、越後守(えちごのかみ)に任命された。後に『吾』によると伊与守に転任した。法住寺合戦後、『吉』によると院厩(うまや)別当(長官)に任命され、左馬頭を辞退した。左馬頭や院厩(うまや)別当は当時の武士にとって名誉な職であり、兼任しないのが慣例だった。さらに『玉』によると「征東大将軍」に任ぜられた。
 『平』では「左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲」と名乗るが、正確には「院厩(うまや)別当兼伊予守征東大将軍源義仲」となる。任命されて直ぐ亡くなったので、一般に知られる事が無かったのだろう。
 伊予守もやや疑問である。『玉』に義仲が伊予守に任官した記述が無い。備前守行家は記述がある。後に義経が伊予守に任官した(文治元年八月十六日)記述があり、「未曾有、未曾有」と驚いている。伊予守は当時の武士に与えられる国司の最高位であり、名誉な職だった。
参照 『旭将軍木曽義仲軍団崩壊』。
   「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」櫻井陽子 『名月記研究』九号。

一・四・八 義仲の母・兄弟・養父

「母・小枝(さえ)御前」の謎
 『平』『源』『吾』には「母」とのみ記述され、『源』では「父義賢が秩父次郎大夫重澄の養子に」とある。母は秩父次郎大夫重澄の娘か。
 『尊卑文脈』には「遊女」とあり、これは『平・長門本』の「兼遠の、是は相知る游君の父無子を生みて」から類推したものらしい。『尊卑文脈』は姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に編集された。
 『木曽家伝』によると「三位中将の娘小枝(さえ)」とある。
 『平』に「以仁王の秘蔵の小枝という御笛」または、「一の谷合戦のとき熊谷次郎直実に討たれた平の敦盛の持っていた笛が小枝(さえだ)という」の記述がある。これから創作したか。
 兄の「仲家」がいた。『平』によると頼政の養子になり、橋合戦のとき治承四年五月二十三日に討ち死にしたという。
 妹の「宮菊」がいた。『吾妻鏡』によると美濃(岐阜県南部)国遠山庄内の一村を与えられたという。一一八五年(文治元年)五月「頼朝、義仲の妹に美濃(岐阜県南部)遠山庄を与える」
一一八五年(文治元年)五月「頼朝、義仲の妹に扶持を加える」

「養父・中原兼遠」の謎
 『平』には「木曽中三兼遠、乳母の夫」、
 『延』には「木曽の山下で木曽仲三兼遠が育てた」、
 『源』には「木曽の中三権頭」、
 『吾』には「乳母の夫である中三権守兼遠」、
「林昌寺(長野県木曽町日義、中原兼遠の菩提寺)の記録」には「但馬(兵庫県北部)の人」とある。
 『木曽参考』には「但馬国城崎の人」とある。
 『岐蘇古今沿革史』には「但馬国城崎の人」とある。
「木曽中太・弥中太、忠次」の謎
 『源』には横田河原の合戦のとき木曽中太・弥中太が登場する。その他『保元物語』『平治物語』にも木曽中太・弥中太が登場する。『平』『延』には登場しない。
 『平』の「那須与一」に続く「美穂屋」の項目に「信濃国の住人木曽忠次」が登場する。多分『物語』の創作だろう。

一・四・九 木曽軍五万騎の謎 (実数五千騎か)

 木曽の現在の人口は三万人以下であり、昭和の最大でも約五万人である。江戸時代も約三万人、平安時代は約三千人と推定される。さらに戦いに参加出来そうな若者は木曽出身は数百騎以下、信濃全体でも約二千騎以下、北陸勢は約五百騎、京都周辺の反平家の源氏、平家軍からの寝返り組などの勢力が約二千五百騎などとなる。
 参照『旭将軍木曽義仲軍団崩壊』。
 木曽義仲軍のみが乱暴の誤解がある。実は義仲軍以外が乱暴を働いた。
「乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である」。参照『朝日将軍木曽義仲洛中日記』、『やさしい木曽義仲法廷日記』。

一・四・十 義仲の没年月日

 『平』『延』によると寿永三年一月二十一日、
『長門本』『源』『吾』『玉』によると寿永三年一月二十日とあるので、多分、寿永三年一月二十日が正しいだろう。太陽暦では三月四日となる。
「義仲を討ったのは誰か」
 『平』では「石田次郎為久」、『延』『源』では「石田小太郎為久」、
 『吾』では「石田次郎」とある。『愚』では義経の部下「伊勢三郎」とある。

一・四・十一 義仲の墓

 義仲の墓は複数ある。
①「義仲寺」の墓
 滋賀県大津市にあり、義仲の遺体が葬られたという。松尾芭蕉の墓が隣にある。
②「法観寺」の墓(首塚)
 京都市東山にあり、義仲の首が葬られたという。元は近くの私有地にあった。
③「徳音寺」の墓
 長野県木曽町日義にあり、義仲の遺髪が葬られたという。
 元は徳音寺地区の柏原寺であり、土石流を避けて移転したという。
④「興禅寺」の墓
 長野県木曽町福島にあり、義仲の子孫の木曽氏が建てたという。

一・四・十二 兼実は義仲の味方か

 『玉葉』の著者、九条兼実が義仲を褒めている文章がある。これだけを読むと兼実は義仲の味方と勘違いする。
 法住寺合戦の前、兼実は後白河法皇が義仲追放のため、直接に命を下し兵を集めたのが気に入らなかった。十一月十九日、法住寺合戦の後、「義仲は、これ天の不徳の君(後白河法皇)を戒める使いである」とある。
 しかし、後に義仲が義経軍に追討されたとき、寿永三年(元歴元年)一月二十日「天は逆賊を罰した」とある。
 兼実は若くして右大臣となったが、実権を握る後白河法皇や清盛と意見が合わず、単なるご意見番であった。いつか権力中枢にと期待していた。兼実は義仲が入京した時や、法住寺合戦の後、一時義仲に期待したこともあった。十一月二十一日「義仲が善政を行うなら、私もその任に当たる」とある。兄の松殿基房が義仲に選ばれたので、加担しなくて良かったと負け惜しみを言っている。後に鎌倉の頼朝に認められ、関白や太政大臣となりようやく念願を果たした。

一・五 合戦の謎

一・五・一 初戦の謎

 『平』では「麻績・会田の戦い」が初戦となっている。松本から善光寺平へ進出のため、麻績氏や会田氏との戦いか。『源』では「信濃国平定の戦い」、『吾』では「治承四年九月七日、市村(市原)の戦い」となっている。

一・五・二 横田河原の合戦

 横田河原は後の南北朝時代の「大塔合戦」や戦国時代の「川中島の合戦」と同じ長野県長野市(善光寺平)にある。
『平』では「寿永元年九月二日、城軍四万余騎、義仲軍三千余騎」、
『延』では「治承五年六月二十日過ぎ、城軍六万余騎、義仲軍二千余騎」、
『源』では「治承五年六月二十五日、城軍六万余騎、義仲軍二千余騎」、
『吾』では「寿永元年十月九日」、
『玉』では「治承五年六月十三日、十四日。城軍一万余騎、信濃源氏等(キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田党一手)三手に分かれ、反撃す」
『吉』では治承五年六月二十七日、「越後城資職信乃の国に寄せ攻む」
「風聞に云く、越後国の住人資職(城太郎資永弟、資永去る春逝去)、信乃国に寄せ攻め、すでに落ちたりと」とある。合戦の年月日については、公家の日記『玉』の信用度が高い。
 『延』『源』には「杵淵小源太重光が刀を口にくわえて最期を遂げた。義仲は感心した」とある。後に今井兼平が粟津原で刀を口にくわえて最期を遂げたのも、これを見たか聞いて真似をしたかもしれない。

一・五・三 倶利伽羅峠の合戦

 『平』『源』には「寿永二年五月十一・二日、平家軍十万余騎、義仲軍五万余騎」とある。多分、平家軍一万騎、義仲軍五千騎だろう。
 牛の角に松明をつけた「火牛の計」は『源』の創作という。これは五百頭の牛が集まるか。牛の角に松明をつけると後ずさりしてしまう。道も狭い。中国の田単将軍の場合は平原の城の周囲の敵に向け、牛の角には剣を付け尾にはわらを結び付け、火をつけて追い立てたという。歩兵の松明で牛の両側から追い立てれば前進するという。
 『玉』には「平家軍四万余騎、義仲軍五千騎に満たず、平家軍の過半は死んだ」とある。

一・五・四 水島の合戦
 『平』では「寿永二年閏(うるう)十月一日、平家軍千余艘、義仲軍七千余騎、五百余艘」、『延』では「平家軍五百余艘、義仲軍五千余騎、千余艘」、『源』では「平家軍七千余騎、三百余艘、義仲軍五千余騎、百余艘」とあり、かなりバラつきがあり、どれが真実か全く判らない。
 『玉』閏十月十四日、「人告げて言う、平氏の兵は強し、前陣の官軍は多く以て敗れられた。よって播磨(はりま、兵庫県西南部)より更に義仲は備中(びっちゅう、岡山県西部)に赴くとの事が風聞した」
 『玉』閏十月十五日「今日、義仲が入京した。その軍勢は甚だ少なしという」

一・五・五 法住寺合戦

 義仲を京都から追放しようとした後白河法皇が、法住寺御所に比叡山の僧兵や義仲に味方してい武士からの寝返り組などを集めた。十一月十九日、義仲軍が法住寺御所を攻撃し義仲軍が勝利した。『平』によると、「法皇側は二万騎、義仲軍は七千騎で攻めた」と記述される。これは例の軍記物語の大袈裟な表現で、実際は法皇側は二千人、義仲軍が七百騎だろう。『愚』によると「義仲軍は千騎の内五百騎で攻めた」とある。
 『平』では「義仲軍が乱暴の間、鼓判官知康が使者として義仲を訪ね、侮辱されたため合戦となった」とされている。しかし、『玉』には九月五日までは治安が悪いと嘆いているが九月六日以後に治安が悪いという記述は無い。また使者は澄憲法印または主典代(大江)景宗であり、鼓判官知康は登場しない。知康は法皇の側近として勤めていたので、合戦後に解官された。
「法住寺御所は焼け落ちていない」。周囲の民家が燃えただけである。
 多くの解説者が、法住寺御所が焼け落ちたと解説しているが、これは平家軍の平重衡が奈良を攻撃した時、「東大寺が焼け落ちた」のと混同しているようである。
『平』には、「今井四郎兼平が火の付いた鏑矢(かぶらや)を放った。頼朝は法住寺御所が焼けたと聞いた」とある。
『延』には「御所の北の在家に火を懸けて」、『吉』には「御所の四面に皆全て放火した」、『玉』には「河原の在家を焼き払うという」とある。
『吾』一一九二年 (建久二年)十月一日「法住寺御所、文治元年の地震により傾いたので、頼朝の命令で修理した」とある。やはり燃えていないようだ。

一・五・六 粟津が原の最期

 『平』には「寿永三年一月二十一日(太陽暦三月五日)、征夷大将軍の宣下の十日後、数万騎(実数は五千騎)の鎌倉軍が京都へ進攻した。
 義仲軍が入京したとき義仲軍に味方した京都近国の源氏の武将や、平家軍に追従していた武将も寝返り、鎌倉軍に加わった。義仲軍は数千騎(実数は千騎)以下であった。今井兼平が大津方面を、志田義弘が宇治方面で守るも敗退した。義仲は今井兼平と共に北陸へ逃れるつもりで、京都を脱出した。運良く今井兼平と合流したが多勢に無勢となり、三十一才で戦死した。その前に巴は逃がした」とある。
 『延』には「巴は乱戦ではぐれてしまった」とある。
 『源』、『玉』によると、寿永三年一月二十日(太陽暦三月四日)である。
『源』や富山の福光町の「伝説」によると、巴は富山で九十一歳まで長生きしたという。

一・五・七 平安時代の服装、武具

 「直垂(ひたたれ)」は武家の代表的衣服である。「狩衣(かりぎぬ)」は公卿の常用略服、「水干」は、のりを使わず、水張りにして干した布で作った狩衣。古くは下級官人の公服、公家や上級武家の私服、少年の式服である。
 「鎧・兜」の重量は二十ないし三十キロある。装着したらテレビドラマのように素早い動きは出来ない。弓矢を射るのも大変である。騎馬武者の主要武器は弓矢・刀である。巴は騎馬武者のようであり、巴の主要武器は弓矢・刀である。

一・六 巴御前の謎

 巴は『平』や『源』に登場するのみなので、存在自体も疑問視される。しかし、女性の名前は記録に残りにくい。頼朝の娘の大姫というのは「長女」を意味する通称で本名は不明である。清少納言や紫式部ですら本名は不明である。
 『平』には「幼少より義仲と共に育った便女(美女、召使い)」、『源』には「今井四郎兼平、樋口次郎兼光、巴御前は中原兼遠の子供で兄弟、巴御前は義仲の妾」とある。

一・六・一 巴御前は妾ではない

 この問題は、婚姻について、当時は現在のような厳格な一夫一婦制でなく、何の規制も無い。一夫多妻も多い。現在のような「不倫」の言葉は無い。嫁入り婚でなく、婿入り婚も多いので、義仲にも何人もの妻がいた可能性がある。
 巴は単なる女武者、美女、侍女か。『源』は『平』より約百年後に成立したという。
 右大臣の九条兼実には数人の女房(妻)がいた。その子に母親による差別は無い。嫡妻、本妻、妾妻の区別をしている貴族もいた。九条兼実は葬式に区別するのが適当であるか質問している。明法博士(みょうほうはかせ)は若干の差を付けるのが宜しいと回答している。回答を聞いた九条兼実は何も記述していない。
 明治初期は一夫多妻だった。明治三十一年に欧米諸国を真似て一夫一婦制に変更した。イスラム教では正妻は四・五人まで可のようであ。アフリカには一夫多妻制の国もあるという 。

一・六・二 巴は薙刀を持たない

『平』には「巴は色白く髪長く、容顔誠にすぐれたり。大太刀・強弓持たせて」、
『延』には「巴といえる美女である。重籐の弓に、うすべうの矢を負い」、
『源』には「巴は矢二十四本を背負い、重籐の弓に・・・。女も弓を引かなかった。女も太刀に手をかけず」とある。巴は騎馬武者のようである。
 なぎなたは、当時は歩兵の従者や僧兵の武器である。騎馬武者は弓矢が主、刀が従の武器である。南北朝時代から槍が増え始め薙刀はすたれた。江戸時代に、武家の女性の護身用として復活したので、薙刀は女性、女性は薙刀という図式が定着したようだ。巴がなぎなたを持つ絵が多いが。

一・六・三 巴御前は絶世の美女か

 『平』には「巴は色白く髪長く、容顔誠にすぐれたり」、『延』には「巴といえる美女なり」、『源』には「長い黒髪」とある。
 絶世の美女は後世の創作、伝説だろう。

一・六・四 巴と板額御前

 『源』には「巴は鎌倉に連行され、和田義盛の妻となり、朝比奈三郎義秀を得た。和田合戦の後、富山で尼となり、九十一才でなくなった」とある。
 これに良く似た話が『吾』に「越後の城氏の謀反が建仁元年(一二○○年)に起こり、城資盛のおばの板額御前が男勝りの活躍をした。捕虜となり、鎌倉に連行されたが、阿佐利与一義遠が板額を得て甲斐国へ下向した」とある。

一・六・五 義仲の妻の謎

 「巴」は『平』と『源』に登場する。『源』によれば「巴は中原兼遠の子で義仲の妾」である。
 「山吹」は『平』にのみ登場する。「葵」は『源』にのみ登場する。
 「伊子」は『平』にのみ登場し、松殿・前関白の藤原基房(兼実の兄)の姫とされる。しかし『玉』(兼実の日記)や『愚』(兼実の弟の歴史書)に記述は無い。
 『西筑摩郡誌』に「若菜」の記述がある。
『源』によれば「信濃国を出し時、妻子が」とある。巴以外の妻を信濃に残していることになる。
 「伊子」を正妻、その他を妾とする通説があるが、当時は一夫多妻が多いので、義仲にも複数の妻がいたと推定される。
「長男優先、男尊女卑」の勘違い
 平安・鎌倉時代は男尊女卑ではない。貴族社会は競争社会であり、長男だから父親と同じ官位・官職になれるとは限らない。
 鎌倉幕府の『御成敗式目』に後継ぎは娘でも良いとなっている。さらに戦国時代までは縁故・能力・実力主義であった。長男優先、男尊女卑ではない。
 長男優先、男尊女卑になったのは江戸時代の三代将軍家光の頃からで、相続争いを防ぐためである。

一・七 ゆかりの地の伝説

一・七・一 義仲関係史跡

 全国に数百か所の義仲・巴ゆかりの地、史跡伝説がある。これは生誕地が埼玉県比企郡嵐山町、成長地が長野県木曽とされ、長野で挙兵し、新潟、富山、石川、福井、滋賀と北陸道廻りで上京し、中国地方へ出陣し、琵琶湖のほとりで戦死した。義仲が討ち死に後、子孫や家来が群馬、広島、愛媛など各地へ落ち延びたという伝説がある。
 長野県の市町村には殆ど義仲・巴の伝説がある。信濃・木曽に二十五年もいたので、あちこち出かけたと推定されるので、まんざら架空でもないだろう。
 その他に埼玉、群馬、新潟、富山、石川、福井、滋賀、京都、兵庫、岡山、広島、愛媛などに伝説が残る。
 上田市(旧丸子町)は、挙兵の地の伝説があり、挙兵の地の塔が建てられている。
石川・富山県境の倶利伽羅峠は合戦の地とされ、富山県にも伝説が多い。
 篠原の合戦場は合戦と斉藤実盛(義仲を助けた武将)の伝説がある。
参照『やさしい木曽義仲法廷日記』付録。全て実地確認済みである。

一・七・二 木曽町新開と日義

 信濃国木曽には「吉蘇村」(大桑村)と「小吉蘇村」(木曽町日義)があり、「美濃(岐阜県南部)国恵那郡絵上郷に属する」と記録されている。
日義の「お玉の森」遺跡から、「大野保、政所」の皿が出土した。
「中原兼遠屋敷跡」が木曽町新開上田地区にある。義仲(駒王丸)が元服するまで、ここで育てられたという。近くに「手習い天神」がある。義仲の学問所として建てられたという。
 元服後は木曽町日義の宮ノ越地区に館を建て住んだという。近くの「旗挙げ八幡」は旗挙げをした八幡宮という。
「義仲ふるさとの碑の文」は江戸時代に山村代官が建て、旗挙げ八幡にある。
「らっぽしょ」という「義仲の旗挙げ祭り」が木曽町日義の宮ノ越地区で、八月十四日に行われる。昔はたいまつ行列だったが、現在はちょうちん行列である。
「羅」は連ねるの意味、「炎」を「あっぽ」といい、「しょ」は「しよう」ということで、倶利伽羅峠の合戦に松明を使用したことに由来し、たいまつ行列を始めたという。

一・七・三 挙兵地の伝説

① 木曽町日義では日義の「旗挙八幡宮」で旗挙げしたという。
② 上田市(旧丸子町)では丸子「依田館」で挙兵したといい、挙兵の地の塔を建てた。
③ 東御市では横田河原合戦前に「白鳥河原」で挙兵したという。
 『源』『延』によれば、千余騎が集まったという。多分、軍記物語の大げさな表現なので実数は数百騎以下だろう。

一・七・四 木曽義高の伝説

 人質として鎌倉にいた義仲の子の義高は、頼朝の命により殺された。義仲には数人の妻がいたようだから、その他の男子も殺されたか各地に逃げ隠れたという。
① 埼玉県狭山市の「清水八幡宮」は義高が討たれたとされる地(入間川)に鎮座する神社である。義高を祭神とする。
② 埼玉県狭山市の「影隠地蔵」は義高が隠れて追手から逃げたという。
③ 神奈川県鎌倉市の「常楽寺」には義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。
④ 長野県上田市(丸子)御岳堂の「正海清水」は清水冠者館跡という。
⑤ 長野県長野市の「箱清水」は義基の乳母が住んでいたという。
⑥ 長野県木曽町新開志水は志水冠者館跡という。
⑦ 栃木県田沼町は義高が佐野義基と名乗り隠れ住んだという。
⑧ 長野県小諸市諸の「若宮八幡」は義高が元服したという。清水が豊富。
⑨ 長野県松本市清水の「槻井(きつい)泉神社」は義高生誕地という清水。
⑩ 長野県松本市の「松岳寺」は義高が関東に向かうとき参拝したという。
⑪ 長野県松本市の「生安寺」は義高を弔う古い石仏がある。

一・七・五 巴御前の伝説

① 長野県木曽町の「徳音寺」には巴の墓がある。
② 長野県木曽町の「巴淵」には巴の龍神伝説がある。
③ 長野県松本市の「落馬観音」には巴の馬の碑がある。
④ 長野県上田市には「巴御前お歯黒の池」がある。
⑤ 長野県上田市富士山には「巴と山吹の五輪塔」がある。
⑥ 富山県福光町には「巴塚」と「巴松」がある。
⑦ 富山県小矢部市には「巴塚」と「葵塚」がある。
⑧ 滋賀県大津市の「義仲寺」には「巴塚」がある。

一・七・六 山吹御前の伝説

① 埼玉県嵐山町の班渓寺に「山吹の墓」がある。山吹が開基という。
② 長野県麻績村には「山吹堂」がある。
③ 長野県上田市富士山には「山吹の五輪塔」がある。
④ 長野県下条村京野塚には「山吹の墓」がある。
⑤ 京都市東山区には「山吹の塚」がある。
⑥ 滋賀県大津市義仲寺には「山吹供養塚」がある。
⑦ 滋賀県大津市駅には「山吹地蔵堂」がある。
⑧ 滋賀県高島市の「願慶寺」は山吹の子が開基という。山吹の梅の木がある。
⑨ 滋賀県長浜市の「蓮通寺」は山吹の子が開基という。
⑩ 兵庫県たつの市の淨運寺には「友君(山吹)の塚」がある。
⑪ 愛媛県伊予市には「山吹御前」(神社)がある。

一・七・七 今井兼平の伝説

① 長野県松本市今井には今井神社、宝輪寺、諏訪神社などがある。
② 長野県佐久市今井には今井の城跡がある。
③ 長野市川中島には今井神社がある。
④ 長野市鬼無里には今井城跡がある。
⑤ 長野県岡谷市(今井)には今井神社がある。
⑥ 新潟県糸魚川市中谷内には今井城跡がある。
⑦ 富山県富山市白鳥城跡は今井が陣地としたという。
⑧ 福井県福井市小羽町には今井神社、今井城跡がある。
⑨ 岐阜県多治見市諏訪町には今井の墓がある。
⑩ 滋賀県大津市には今井兼平の墓がある。
⑪   群馬県下仁田町下栗山には今井兼平の墓がある。

一・七・八 樋口兼光の伝説

① 長野県辰野町には樋口次郎兼光の墓、荒神社などがある。
② 長野県塩尻市広丘高出地区には樋口氏が多い。
③ 新潟県南魚沼市上田の直江兼続は樋口兼光の子孫という。
④ 長野県佐久穂町には樋口次郎兼光の伝説がある。
 全国に木曽氏は約千三百件、今井氏は約四万件、樋口氏は約三万件ある。
今井兼平の子孫と称する人や地域は多いが、樋口兼光の子孫と称する人や地域は少ない。これは『平家物語』の影響だろう。今井は感動的な最期として描かれている。樋口は捕虜となり、斬首された。やや残念な最期として描かれている。事実かどうかは判らない。

一・八 木曽家のその後

一・八・一 戦国時代の木曽家

 一夫多妻の時代だったので、木曽義仲にも数人の妻がいて、数人の子供がいたはずだが、頼朝の追及を逃れて各地に隠れた。
 戦国時代、木曽義仲の子孫と称し、木曽を支配した木曽氏は藤原氏を名乗ったこともある。木曽義昌は秀吉の命により関東(千葉県旭市)へ配置換えとなり、その子の義利は不祥事で改易となり木曽氏は断絶した。義昌は一時秀吉に従い、家康に敵対したことがある。木曽の領地は徳川幕府領となり、木曽氏の家来だった山村氏が「関ヶ原の合戦」の功績により、木曽の代官となった。山村氏の石高は五千七百石だったが、木材の収入を含めると、一万石以上となり大名扱いとなった。その後、木曽は尾張藩領となるが、江戸時代二百六十年間、山村氏が木曽の関所代官を務めた。

一・八・二 江戸時代の代官(悪代官と悪徳商人はいない)

 徳川八百万石、旗本八万騎などという。実際には旗本・御家人・その部下を含めて八万人のようである。旗本・御家人などの一部が幕府直轄地の代官として赴任した。
 代官というと、テレビドラマでは悪代官と越後屋などの悪徳商人の結託が見られるが、実際にはそのようなことのないように数年毎に交替していた。山村氏が木曽の関所代官として江戸時代二百六十年間務めたのは珍しい事である。

一・八・三 「木曽五木」はヒノキの保護

 戦国時代の秀吉、江戸時代初期に家康、尾張藩は木曽の山からヒノキを切り過ぎた。尾張藩はヒノキの保護に転じた。「ヒノキ」と外皮が類似で誤伐を防ぐため「さわら」、「あすひ」、「ねずこ」、「こうやまき」を含め「木曽五木」は、「木一本、首一つ」の例えのように厳しく切るのを禁止した。五木以外は自由に利用出来た。木曽五木は外皮では識別が困難だが、葉の裏で識別が可能である。

一・九 松尾芭蕉と新井白石と芥川龍之介

一・九・一 松尾芭蕉(まつおばしょう)

 木曽義仲の終焉(しゅうえん)の地、滋賀県大津市の義仲(ぎちゅう)寺に木曽義仲の墓がある。義仲の遺体が葬られたという。その隣に俳人の松尾芭蕉(一六四四・・一六九四年)の墓がある。俳諧を好む人は必ず訪れるという。
 芭蕉の墓を見た人は、何故、隣に義仲の墓なのかと言う。義仲の悪評を若干知る人は更に何故かと言う。芭蕉は生前、遺体は義仲の墓の隣に葬るように遺言したという。普段は江戸に住んでいたが、たまたま大阪で句会があり、大阪で亡くなったので、門人達が琵琶湖のほとりの義仲寺まで運んで義仲の墓の隣に埋葬したという。芭蕉は義仲を慕っていたらしいが何も語っていない。それぞれの生い立ちや境遇に感ずるものがあったかもしれないが真意は不明である。
 義仲寺や燧が城で詠んだ句「義仲の寝覚めの山か月かなし」、実盛の兜がまつられている小松市の多太神社や斎藤実盛の首塚での「むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす」、「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」の句などにヒントがあるかもしれない。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は、芭蕉の弟子の又玄(ゆうげん)の作である。

一・九・二 新井白石(あらいはくせき)

 江戸時代中期の旗本・政治家・学者、新井白石(一六五七・・一七二五年)
の『読史余論』によると、「すべて平家の兵をやぶりて都を追いおとせし事は、ことごとく義仲の功績である。頼朝のように四年ほど東国を横領して、自らの事のみを営みしが如くにはあらず。ただ法住寺殿を攻めた一事のみは罪ありしといえども、鼓判官知康の讒言(ざんげん)のためである」としている。『玉葉』『東鑑』『愚管抄』を参照して考察し、義仲には同情的で、頼朝にはやや批判的である。

一・九・三 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)
 『羅生門(らじょうもん)』などで有名な小説家の芥川龍之介(一八九二・・一九二七年)は旧制中学の時、『義仲論』を書いている。「平氏政府」、「革命軍」、「最後」の三部に分かれている。『平家物語』を中心として、その他の歴史知識により、芥川龍之介の独特の文学的木曽義仲論が展開されている。