史学義仲論文『義仲軍団の崩壊』

史学義仲論文『義仲軍団の崩壊』

 

はじめに

 

 木曽義仲に関心を持つ者にとって最大の疑問は、『平家物語』によると入京時に五万騎だった義仲軍は法住寺合戦の頃には七千騎と大幅に減少し、さらに鎌倉の義経軍六万騎に討たれたとなっている。もちろんこの数は軍記物語の誇張で実数はその十分の一程度で、入京時五千騎だったのが七百騎または千騎に減少した(参照: 『史学義仲』第八号十六頁。「有名無実の風聞」)。何故、これほどに早期に減少し、わずか半年ほどで崩壊したのだろうか。

 

一・ 義仲軍団の構成

 

 木曽義仲に関する最大の疑問は入京時五千騎だったのが半年ほどで七百騎または千騎に減少した事である。何故、これほどに早期に減少し、半年ほどで崩壊したのだろうか。
 その理由として単一のものではなく、いくつかの理由が考えられる。当時の右大臣「九条兼実(くじょうかねざね)」の日記『玉葉(ぎょくよう)』、貴族「吉田経房(よしだつねふさ)」の日記『吉記(きっき)』、「中山忠親(なかやまただちか)」の日記『山槐記(さんかいき)』、僧侶「慈円(じえん)」の歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』、鎌倉政権編集の『吾妻鏡(あずまかがみ)』、その他の論文や著書などにより考察した。

 

一・一 最大武力保持者と流動勢力の動向

 

 入京時の義仲軍五千騎は、次のような混成軍団であると推定した。
  ① 義仲の直轄軍は信濃と上野の一部の武士の約二千騎であった。
  ② 北陸勢は自立意思の高い在地武士と延暦寺・白山系の僧兵・神人(じんにん、神社の武士)など約五百騎だった。
  ③ 京都近国で反平家の活動をしていた軍事貴族級の武士団約千五百騎が同時に入京した。
  ④ 平家に従っていた東国の在京武士が約五百騎鞍替えして加わった。
  ⑤ 平家に従っていた京都近国の在京武士が約五百騎鞍替えして加わった。

 

 ここで最大武力数を持つのは木曽義仲の直轄軍であるが、入京後その他の軍勢は序々に離散し敵対した。
 まず義仲直轄軍を二千騎と推定する根拠は『愚管抄』の記述によると、法住寺合戦のとき「千騎の内五百騎で押し寄せた」となっている。つまり全軍出撃ということは少なく留守部隊として半数を残し、半数が出撃というのが普通の戦法のようである。「水島合戦」でも半数ていどが出撃し、大敗北でほとんど失われたと推測すると入京時は二千騎程度と考えられる。
 また「倶梨伽羅合戦」のとき、『玉葉』寿永二年六月五日の記述では平家軍四万騎、義仲軍五千騎以下となっている。義仲・北陸勢五千騎以下の内の半数が留守部隊として残り、その半数が京都まで来たと推定した。
 反平家の活動をしていた京都近国の軍事貴族級の武士団は、いずれも数十人から数百人の規模である。十郎蔵人行家に従う武士は二百七十騎ないし三百騎である(『玉葉』、『吉記』十一月八日)。京都市内の警備を命じられた武将十人の平均は百五十騎で合計は約千五百騎となる。
 平家に従っていた東国武士について、『吾妻鏡』文治元年四月十五日「自由任官の者」の文を解読すると、渋谷重助のように義仲に追従した経験がある武士は二十二人以上の内三人である。つまり約一割が義仲に追従した。鎌倉軍は六万騎とされているので、実数は多分五千騎とすると、その約一割は五百騎となる。
 京都に在中して平家に従っていた東国武士は平家に従い、木曽義仲追討軍として北陸道の倶梨伽羅峠に向かった。負けて京都へ引き返すときは義仲軍に鞍替えし平家追討軍となった。これは多田行綱(『玉葉』寿永二年七月二十二日)のように、京都近国の平家に従っていた武士も同じような行動をとったと推定される。
 このように④の平家に従っていた東国の在京武士や、⑤の京都近国の在京武士の大多数は平家軍の京都からの退却時は義仲軍に鞍替えした。さらに③④⑤は鎌倉軍入京時には鎌倉軍に鞍替えし義仲軍に敵対した。さらに後、義経と頼朝が敵対した時は頼朝側に鞍替えし義経に敵対した可能性が高い。このように流動勢力の③④⑤は平家、義仲、義経、頼朝(時政)の順に京都の最大武力保持者が交代するたびに鞍替えした。つまり流動勢力③④⑤の思惑が最大武力保持者の平家、義仲、義経の動向を決めたのである。

 

一・二 京都近国の近江・南都の動向

 

 一一八〇年(治承四年)四月に以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が発せ

られたが、すぐ計画が発覚し、五月には以仁王は平家軍に討たれた。しかし令旨は全国各地の源氏武将などに届き、各地で反乱が始まった。
 八月に「頼朝挙兵」、九月に「義仲挙兵」、十月十八・九日に「富士川の戦い」があり、『玉葉』にも「官兵は一・二千騎。武田方は四万騎」などの伝聞の記述がある。また、十一月六日 『山槐記』には「鳥数万が俄に飛び去る。近日、門々戸々、虚言甚だ多し」という伝聞の記述がある。
 以下に『玉葉』『吉記』『山槐記』などの記述から近江などの京都近国の反乱状況の概要を抜き出してみた。

 

五月は以仁王の伝聞情報が多い。
十五日 『玉葉』 「以仁王が配流(はいる)された」
十六日 『玉葉』 「以仁王は流罪(るざい)」「三井寺(みいでら)衆徒(しゅと、僧兵)が以仁王を守護した」「以仁王の若宮が逐電(ちくてん、逃亡)の聞こえ有り」
二十日 『玉葉』 「園城寺(おんじょうじ、三井寺)は以仁王を出し奉る事を承諾するも八条宮の使追い帰さる」
二十二日 『玉葉』 「頼政入道が子息等を引率し三井寺に籠る」「比叡山大衆(だいしゅ、僧兵)三百余人が味方した」 「奈良の大衆(僧兵)蜂起(ほうき)に京中の武士等は恐怖した」
二十六日 『玉葉』 「奈良大衆(僧兵)が上洛」「以仁王等は南都(奈良)に逃げ去る」「頼政等は誅殺(ちゅうさつ)された」「宇治川橋の合戦」「以仁王は自害するか」

(六月から八月の伝聞は少ない)

 

九月になると頼朝や義仲の挙兵の伝聞情報が多くなる。
三日 『玉葉』 「熊野別当が謀叛(むほん)を起こした」「源頼朝が伊豆(いず)・駿河(するが)を押領(おうりょう)した」「源行家が頼朝に味方した」
四日 『山槐記』 「頼朝が正義の兵を挙げた」
七日 『吾妻鏡』 「木曽義仲が挙兵した」
七日 『山槐記』 「頼朝が伊豆を横領した」
十一日 『玉葉』 「頼朝追討の宣旨(せんじ)が発された」「頼朝は箱根山に籠もる」「平廣常(ひろつね)等が頼朝に味方し事大事に及ぶ」
二十二日 『玉葉』 「東国勢は数万に及ぶという」
二十九日 『玉葉』 『山槐記』 「追討使が出発した」
  
十月になると追討軍の伝聞が多くなる。
七日 『山槐記』 「頼朝は安房(あわ、千葉県南部)の国を横領した」
十三日 『吾妻鏡』 「木曽義仲が上野(こうずけ、群馬県)国に入る」
二十日 『玉葉』 「延暦寺の衆徒(僧兵)蜂起の事」
二十八日 『山槐記』 「頼朝の党は駿河(するが、静岡県)の国の富士川辺りで合戦」

 

十一月になると追討軍の敗戦や京都近国の反乱の伝聞が多くなる。
一日 『玉葉』 「追討使が追帰された」「清盛の悪逆に依りその報いが上皇に懸る」
五日 『玉葉』 「清盛と宗盛が口論した」「敗残の追討使が入京した」「駿河(するが)国の高橋に宿泊した」
    「甲斐(かい、山梨県)武田城に寄せる」「武田方より維盛(これもり)の館に消息(しようそく、手紙)を送る」
    「富士川の戦い」
 去る月の十八日、富士川の辺に仮屋を構えた。明朝(十九日)攻め寄せる準備である。そうする間に、官軍の軍勢を計る処、彼是相並び四千余騎である。陣作りの手定めの議定がすでに終わり、各々休息の間に、官兵の方から数百騎が、たちまち降り落ち、敵軍の城に向かってしまった。引き留める力無く、残る所の軍勢は僅か一・二千騎に及ばず。武田方は四万騎という。敵対に及ぶべきではないと、ひそかに引退した。
    「官軍引退は忠清の謀略なり」「官軍の引退に清盛は大怒した」「清盛は追討使の入京を認めず」
六日 『山槐記』 「鳥数万が俄に飛び去る。近日、虚言甚だ多い」
二十一日 『玉葉』 「宗盛の郎従十余人が近江賊徒にさらし首にされた」「甲賀入道(柏木義兼、年来彼の国に住む。源氏の一族という)、並びに山下(本)兵衛の尉(同源氏)が反乱した」
二十九日 『吉記』 「近江の国の賊徒は、すでに勢多を越えたという」
三十日 『玉葉』 「近江武士が船を点取るため西岸に着いた」「柏木義兼は打ち入らんとするも武田を待ち暫く遅延した」

 

十二月になっても京都近国の反乱、追討軍の伝聞が多い。
四日 『玉葉』 「江州(滋賀県)の武士等併せて落ちた。三分の二が官軍に味方した。その残りは城に引き籠もるという」
十日 『玉葉』 「大衆(僧兵)と官兵が山科東の辺で合戦した」
十一日 『玉葉』 「延暦寺山僧(僧兵)と官兵が合戦した」
十五日 『玉葉』 「官軍が勝利した」「上洛の南都(奈良)衆徒(僧兵)は僅かにより、大衆(僧兵)は味方を表すも一致せず」「皇嘉門院(こうかもんいん)の御領地等を武士に召し上げられた」
十六日 『玉葉』 「近江の山本城を攻めたという」
二十四日 『吾妻鏡』 「義仲は上野より信濃に向かう」
二十五日 『玉葉』 「平重衡(たいらのしげひら)が南都(奈良)追討のため出発した」
二十九日 『玉葉』 「平重衡が南都征伐より帰京した」

 

 このように、頼朝や義仲以外にも、近江(滋賀)や南都(奈良)でも在地武士や大寺の僧兵などの反乱が起き、平家はその鎮圧に追われた。
 当時の比叡山延暦寺などの大きな寺は学生(がくしょう)、衆徒(しゅと)、堂衆(どうしゅ)、大衆(だいしゅ)などの区分があり複雑な構成であるが、ほとんどが武装化していた。一般には僧兵という。比叡山延暦寺には二千から三千の僧兵がいたという。白河法皇の「賀茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師。これぞ、わが心にままならぬもの」という言葉の山法師とは比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の僧兵の強訴(ごうそ)を嘆いたものである。また大きな神社にも武装化した神人(じんにん)がいた。

 

一・三 北陸道の反乱状況

 

 北陸道の神社や寺にも小規模ながらも僧兵・神人がいたようである。
 「安元(あんげん)の強訴」事件の発端は比叡山の強訴である。当時、後白河法皇と比叡山とは対立関係にあった。一一七六年(安元二年)、後白河法皇の近臣として有名な西光(さいこう)の子息の加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)とその弟の目代(もくだい)師経(もろつね)が、白山中宮の末寺(鵜川、うかわ)涌泉寺(ゆうせんじ)と所領問題をめぐり対立し、師経が同寺の堂舎を焼き払った。
 白山衆徒の訴訟(そしょう)を受けた本寺延暦寺は、朝廷に加賀守師高の配流を要求したという(『玉葉』三月二十一日条)。
 後白河法皇は三月二十八日に目代の師経のみを備後(びんご、広島県東部)国に配流したという(『玉葉』四月二日条)。
このように比叡山延暦寺と北陸の白山神社とは繋がりがあった。

 

 一一八一年(治承五年、養和元年)一月十九日 『玉葉』 「平宗盛を五畿内(きない、大和・山城・河内・和泉・摂津)及び伊賀・伊勢・近江・丹波等の惣官(そうかん)とす」 一月十九日に平宗盛が京都近辺の「惣官」に就任した。「惣官」の役目は京都近辺の兵糧米(食料)の調達や軍事力の動員を目的にしたものと思われる。
 一一八一年(治承五年)六月十三日に横田河原の合戦(『玉葉』治承五年七月一日)の後、北陸道の在地武士や僧兵などの反乱が始まったようである。
七月十七日 『玉葉』 「越中(富山)・加賀(石川県)等の国人(在地武士)等、東国に同意するという」
七月二十四日 『玉葉』 「能登・加賀(石川県)の住人が東国に味方したという」

 

八月になると、藤原秀衡(ひでひら)が陸奥(むつ)国守に、城(じょう)助職が越後(えちご)国守に任命された(『吉記』八月十五日)。
平通盛(たいらのみちもり)が北陸道追討使となる(『吉記』八月十六日)。 

 

九月になっても北陸の合戦の伝聞が続く。
 『玉葉』 「平通盛は北陸道の賊徒の征伐が出来なかった」
 「通盛朝臣、越前(福井県)・加賀(石川県)の国人等の為、大いに敗れた」
 『吉記』 「越前合戦において官軍は敗れた」
 『玉葉』 「平通盛軍は津留賀城に敗退した」

 

十月・十一月になると北陸合戦の伝聞は少なくなる。

 

一一八二年(養和二年)は養和(ようわ)の飢饉(ききん)の年であり、目立った軍事行動は見られない。
二月二十二日  『吉記』 「人食童の風聞あり」「人人を食う事実無し」
 伝聞、五条河原の辺で三十歳ばかりの童が死人を食うという。人が人を食う、飢饉の至極か。定説を知らずと雖も、珍事たるに依って、なまじいに、これを記録した。後聞、或る説に、その実事無しという。
九月十五日 『吾妻鏡』 「木曽義仲の追討軍帰る」

 

一・四 義仲軍入京直前の状況

 

一一八三年(寿永二年)、ようやく養和の大飢饉も脱し、軍事行動が始まる。

 

四月になると北陸へ義仲追討軍が出発する。
十三日 『玉葉』 「賀茂祭警護」「武士等狼藉(ろうぜき)」 武者の家来等が、近くの畠を刈り取る間に狼藉という。
十四日 『玉葉』 「武士等狼藉」 武士等の狼藉は昨日の如しという、凡そ近日の天下この乱暴狼藉により上下騒動した。人馬や雑物を通路で眼につくものは横より奪い取る。「平宗盛に訴えるも止まず」
二十三日 『玉葉』 「征討将軍が出発した」
二十七日 『百錬抄』 「越前(えちぜん、福井県)国の火打ちが城を落とす」

 

五月になると官軍の活躍と敗戦の伝聞が記述される。
 『玉葉』 「官軍が越前に攻め入る」、「官軍が加賀(かが、石川県南部)に攻め入る」、「官軍が越中(富山県)にて源義仲等と戦い大敗した」

 

六月になると北陸合戦の敗戦の伝聞が記述される。
四日 『玉葉』 「北陸の官軍が潰滅(かいめつ)した」、 『吉記』 「北陸合戦の伝聞あり」
五日 『玉葉』 「中原有安が北陸の官軍敗亡の子細を語る」「官軍は四万騎、敵軍は五千騎以下」
五日 『吉記』 「官軍敗北の説あり」
六日 『玉葉』 「官軍敗績後の事、計らい申すべき旨、院(法皇)より仰せられる」
六日 『吉記』 「敗軍が入洛」「建礼門院(けんれいもんいん)に参り平宗盛に謁(えつ)す」「追討について人々に諮問(しもん)す」
十二日 『吉記』 「院北面の武士に東海道へ下向を命ずとの風聞あり」、「源氏が江州に打ち入る」、
「平貞能(たいらのさだよし)が入洛の風聞あり」、「静巖が比叡山の動向を伝える」

 

七月になると義仲軍が入京する伝聞が現実のものとなる。
一日 『玉葉』 「賊徒は今日入洛すべし由、連日風聞」「義仲・行家が四方より寄せんとする」
十日 『吉記』 「比叡山衆徒の動向は変転する」「源氏が勢多に着く」
十六日 『玉葉』 「江州への院(法皇)使いにつき左大臣・内府(内大臣)に諮られる」
十六日 『吉記』 「源行家と平田家継が合戦した」「源信親が大和国に入る」「近江の源氏への院庁(いんちょう)下文(くだしぶみ)発給を決す」
二十一日 『玉葉』 「追討使が兼実(かねざね)家の傍を経て発向する」「其の勢は僅か千騎」
二十一日 『吉記』 「平資盛(たいらのすけもり)等が近江に出発する」
二十二日 『玉葉』 「江州の武士が入京は実説に非ず」「比叡山の僧綱が下京する」「行家が大和国に入り宇多郡に住むという」「源行綱が平家に謀反(むほん)、摂津(せっつ、大阪府)・河内(かわち、大阪府東部)に横行」「丹波(たんば、京都府)追討使が大江山まで引き退く」
二十二日 『吉記』 「源氏が比叡山に登るとの風聞あり」「院の北面の武士は甲冑を装着し待機」「知盛(とももり)・重衡(しげひら)等は勢多に向かう」「平頼盛(たいらのよりもり)が下向」
二十三日 『玉葉』 「六波羅(ろくはら)のあたり、嘆息(たんそく)の外他事無しという」「法皇が法住寺御所に渡御」
二十三日 『吉記』 「比叡山座主(ざす)明雲(みょううん)が参院し衆徒の申し状を奏す」
二十四日 『玉葉』 「法住寺御所に行幸」「兼実等は法性寺に避難」
二十四日 『吉記』 「興福寺(こうふくじ)別当(長官)が大和国の動向を摂政(せっしょう)に報告」「後白河院が資盛の召還を命ず」「多田行綱が院宣の請文(うけぶみ、答申)を進む」
二十五日 『玉葉』 「法皇が御逐電(ちくてん、逃亡)」「宗盛以下、安徳天皇を奉じ淀に向かう」
「法皇が御登山」「定能(さだよし)が比叡山に参ず」「平家は鎮西(ちんぜい、九州)に赴くにあたり公卿を連行しようとする」「平家の武士等、この最勝金剛院に城郭(じょうかく)を構えんとする」「兼実等は日野に向かう」「源氏すでに木幡山に在り」
二十六日 『玉葉』 「日野への路、塞がるにより出立出来ない」「法性寺に帰る」「定能より書札あり、比叡山に向かう」「源雅頼(みなもとのまさより)に出逢う」「慈円の青蓮院(しょうれんいん)の房に着す」「法皇の御所に参る」
二十六日 『吉記』 「所々に狼藉(ろうぜき)放火追捕(ついぶ)あり」
二十七日 『玉葉』 「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」「法皇が京都に還御(かんぎょ、お帰り)」
二十七日 『吉記』 「円融房(えんゆうぼう)に参る」「法皇に拝謁(はいえつ)」「法皇出御」「武士が前行」「蓮華王院(れんげおういん)に還御」

 

一・五 反平家軍との連携と入京

 

 寿永二年四月十七日に京を出発した平惟盛(たいらのこれもり)の率いる追討軍は四月二十三日までに順次出発し(『玉葉』)、四月二十七日には越前国燧(ひうち)城を落としている(『百錬抄(ひゃくれんしょう)』)。これに対して義仲軍は六月一日の加賀での合戦に勝利し(『一代要記』)、上洛を開始した。先陣は六月十三日以前に近江国東北部に入り、源重貞を追い払い(『吉記』)、六月二十九日には、先陣たる末々の源氏に続いて義仲自身も近江に入ったという(『吉記』)。七月十日に「源氏の勢、勢多に着く」とあるのは先陣が琵琶湖南端近くに迫ったようだ。その後義仲軍は七月二十二日から比叡山に「城郭を構え、居住する」(『吉記』)、入京したのは七月二十八日である(『吉記』『玉葉』)。
 つまり平家軍が十日もかからなかった距離を義仲軍は一ケ月以上もかけている。義仲軍の先陣は七月十日に琵琶湖南端近くまで到達し、平家方の防衛が不備となったようである。七月一日頃「賊徒今日入洛すべし由、連日風聞する」(『玉葉』)とあり、平家の劣勢は明らかであるが、義仲は京に接近しても、比叡山に城郭を構え、時間をかけている。その目的は近江以東の反平家勢力との連携工作である。また東国や京都近国の在京武士などの浮動勢力の連携工作である。京中守護の武士のうち、美濃の源光長や甲斐武田氏の安田義定などが考えられる。
 『吉記』七月二十七日には、比叡山に逃避していた後白河法皇の京への還御(お帰り)に「武士錦織(にしきごり)冠者(かじゃ)義経男(むすこ)、前行」とあり、近江の山本義経の息子の錦織義弘(義高)が義仲と同じ頃比叡山にいたようだ。
 義仲と近江以東の源氏諸氏との連携は、さらに大きな反平家連携の一翼となる。この一大連携の役割は源行家が仲介したと考えられる。行家自身も伊賀(いが、三重県西部)・大和(やまと、奈良県)を進み、その進軍経路周辺の反平家軍と連携して、京に迫った。義仲らが東坂本に着いた頃、京の西方では、多田行綱のように、中央の情勢に通じ、畿内(きない)近国を本拠とする京武者が反平家軍に同調している。さらに、もと平家に属していた在京武者が合流したことにより、反平家軍は京に近づくにつれてますます増加したようだ。
 比叡山で待機する義仲と大和から迫る行家、彼らを命主とする大規模な反平家軍の連携、もと平家に属していた畿内武士の同調、そして在京武士の合流を見た平家は七月二十五日に都落ちした。
 二十八日に義仲軍などの反平家軍が入京した。

 

一・六 義仲軍入京

 

七月二十八日 『玉葉』 「義仲・行家が入京した」
 今日、義仲・行家等が南北より、義仲は北、行家は南より入京したという。夕方になり左少弁(太政官(内閣)の事務官)の光長が来て話した。義仲、行家等を蓮華王院(三十三間堂の寺号)の御所に呼び寄せ、平家を追討せよとの法皇の命令を下された。検非違使(警察兼裁判官)長官の藤原実家が殿上の縁にてこれを伝えた。かの両人は御所であるため、地に膝まずいて謹んで聞いた。
「かの両人、権を争う意趣あり」
 参入の間、かの両人は共に横に並び、敢えて前後しなかった。共に先を争う意思ありと知る事が出来た。両人が退出する時、頭弁(とうのべん、弁官で蔵人頭(くろうどのとう)を兼任)の兼光が、京都市内の乱暴を停止するように命令を伝えたという。今朝、宰相中将定能卿が来た。弟の法印(慈円)は昨日、京都市内に戻った。

七月二十八日 『吉記』 「義仲・行家参上」「両人に平氏追討を命ず」「両人の容貌に驚目す」
七月二十九日 『吉記』 「降将等すでに播磨(はりま、兵庫県南西部)に至る由風聞」
七月三十日 『玉葉』 「院にて大事議定」「頼朝・義仲・行家への勧賞を如何(いか)に行わるべきか」
「頼朝の参洛待たず三人同時に行わるべし」第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家である。
「京中の狼藉及び兵糧(ひょうろう)用途如何すべきか」「関東・北陸の神社領等に使いを遣わし沙汰致すきか」
「勧賞行なわれるならば除目(じもく)の議、如何にすべきか」
(注釈)
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、物を賜ること。
除目(じもく)・・・上級役人の任命式。任官の名簿。
七月三十日 『吉記』 「京中の追捕(ついぶ)・物取り等すでに公卿の家に及ぶ」

      「京中守護について義仲が支配す」

 

二 義仲混成軍団の崩壊

 

 入京時の義仲軍五千騎は一・一のような混成軍団であった。義仲にとって重要な問題は兵糧の確保以上に、流動的な武士団の統合化であった。色々画策したが、あまり成功しなかったようであり、徐々に離散し敵対した。
 義仲混成軍団が減少し、崩壊した要因は次のようなものが考えられる。
 一 義仲軍は混成軍団であり、その統合や家人化が困難だった。
 二 兵糧米(食料など)の不足。
 三 治安回復の遅れ。
 四 水島の合戦に敗北した。
 五 後白河法皇・頼朝・行家の権謀術数(けんぼうじゅつすう)にはまった。
   一・後白河法皇の計略。北陸の宮の天皇の推挙に失敗。
   二・法皇から反義仲の召集があった。法住寺合戦対策の失敗。合戦には勝ったが。
   三・頼朝の計略(アメとムチ作戦)。
   四・頼朝に東海道、東山道の支配を認める宣旨が出た。
   五・行家の反義仲の動きと離反。
 六 義経軍の陽動作戦に負けた。
 七 公卿や官人の協力者が少なかった。
 八 戦略の不足。入京が早すぎた。挙兵が遅すぎた。

 

二・一 混成軍団の統合・家人化

 

 義仲は武士の棟梁(とうりょう、統率者)をめざした。信濃、上野、北陸では義仲に対抗する大勢力は城(じょう)氏以外には存在しなかった。「横田河原の合戦」で城氏に勝利したので、北陸の在地武士の家人化は容易であったようである。北陸の反乱勢力は在地武士と延暦寺系の白山宮などの僧兵・神人(じんにん、神社の武力)などの混成集団であった。
 『平家物語・延慶本(えんぎようぼん)』によると「北陸の平泉寺長吏(へいせんじちょうり)斎明威儀師(さいみょういぎし)の一党五十余人」、『平家物語・長門本(ながとほん)』によると「林六郎光明二百五十騎、倉光六郎成澄百騎、宮崎太郎二百五十騎」、『源平盛衰記』に「石黒・宮崎を先として五百余騎」などの記述から類推すると、北陸の武士の勢力は最大でも百騎以下のていどであり、合計でも数百騎ていどである。その他の武士以外の僧兵などの勢力もせいぜい数百人程度だろう。
 倶梨伽羅峠の合戦では、『平家物語』では平家軍が十万騎、義仲軍が五万騎とされているが、実数は多分、平家軍一万騎強、義仲軍五千騎弱だろう。その五千騎が京都まで来たかというと、そうではなく半分くらいは留守部隊として残し、京都まで来た軍勢は半分の二千五百から三千くらいだろう。
 そこに反平家の活動をしていた京都近国の軍事貴族級の武士団が加わる。いずれも数十人から数百人の規模の武士団である。例えば十郎蔵人行家に従う武士は二百七十騎ないし三百騎である(『玉葉』、『吉記』十一月八日)。市内の警備を命じられた武将約十人の平均は百五十騎で、合計約千五百騎となる。
 さらに平家に追従していた東国武士が約五百騎、同じく平家に追従していた京都近国の武士約五百騎が鞍替えし加わる混成軍団となった。
 その統合は困難だったようである。入京後、市内の警備を命じられた武将の顔ぶれを見ると、義仲のような前日まで無位無官の武将ではない。それほど高くはないが、何らかの位階・官職を受けた経験がある軍事貴族級の武士が多い。山本兵衛尉義経のように京都近国の武士であり、京都での勤務経験があり、京都の地理に明るい事が選抜の理由だろう。それが「従五位下(じゅごいのげ)」になったばかりの義仲に簡単に従うはずは無い。
 その他、領地の安堵を保証した例もあるが、少数のようである。
 さらに朝庭つまり法皇や公卿の評価は「第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家」と聞いては考えるだろう。
 その顔ぶれを見てみよう。

 

二・一・一 混成軍団

 

「義仲、京中守護を支配す」『吉記』寿永二年七月三十日。
 入京後、義仲は京中守護に任命され、その他の京中守護の武将を支配した。保田(安田)三郎義定は一條北より、東洞院東より、会坂に至る。仁科次郎盛家は鳥羽四至内を担当している。これを『吾妻鏡』では義仲、義定は頼朝の代官として入京したものとしている(『吾妻鏡』寿永三年三月一日)。
 京都入京後、市内の警備を命じられた武将は次の通りである。 
源三位入道子息・・・馬場源氏。頼政の孫。右衛門尉有綱。
高田四郎重家・泉次郎重忠・・・尾張源氏。尾張の国の住人。
葦数太郎重隆・・・尾張源氏。尾張の国の住人。佐渡の守。
出羽判官光長・・・美濃源氏。検非違使。伯耆の守。
保田三郎義定・・・甲斐源氏。遠江守。
村上太郎信国・・・信濃源氏村上系。右馬助。  
山本兵衛尉義経・・・近江源氏、甲斐源氏。伊賀の守、若狭の守。
甲斐入道成覺(義兼法師)・・・近江源氏。       
仁科次郎盛家・・・信濃領主、平姓。左衛門尉。
十郎蔵人(源)行家・・・備前守。

 この面々の中で最後まで義仲に従ったのは山本兵衛尉義経と甲斐入道成覺のみである。義仲は武士の棟梁をめざした。しかし、他の軍事貴族級の武将も数十騎ないし数百騎を従えた武士団であり、それぞれ武士の棟梁をめざした。義仲入京のうわさを聞きつけ、あわてて入京したか、源の行家の呼びかけに応じたか、京都近国の源氏軍である。国守級の軍事貴族の混成軍団に膨れあがった。そこで義仲の統制力が弱まるのは当然である。
 いずれも京都近国の武将が多いが、義仲軍入京の時、同時に入京したようだ。仁科次郎盛家や村上太郎信国は義仲と同一行動していたか、当時京都の警備の当番で在京であったが、平家と西国へ行かず、義仲軍に合流した。その後、市内の乱暴は軍勢が多すぎるのが原因と見る法皇方の意見により、京都近国の武将の兵は一部の警備兵以外は本国へ帰還したようだ。また義仲直轄軍も西国での水島合戦の敗戦によりかなりの軍勢が減少した。

 

二・一・二 朝廷の権威の利用

 

 義仲にとって兵糧米の確保とともに重要な問題が直轄軍以外の流動的な武士団の統制であった。流動的な京都近国の反平家の軍事貴族級の武士や平家に従っていた東国や京都近国の在京武士を朝廷の権威を利用して統制しようとしたが、かえって反発を招いたらしく、あまり成功しなかったようである。
 『玉葉』の安元二年十二月三十日「前兵衛尉義経(近江国の住人、為義一家という)を佐渡国に流す」
とあるので、山本義経は兵衛尉という官職についたことがあるようだ。
『玉葉』 八月十一日 「昨日の勧賞の聞書を見る」
 去る夜の聞書を見る。義仲、(従五位下、左馬頭、越後守)、行家、(従五位下、備後守と)。
『吉記』 十二月三日 「解官」
 佐渡守源重隆、右馬助源信国、左衛門尉平盛家、右衛門尉源有綱。
とあるので、重隆は佐渡守、信国は右馬助、盛家は左衛門尉、有綱は右衛門尉になった。
『吉記』 十二月十日 「臨時除目」
 若狭守源義経(元伊賀、不知其故)
とあるので、山本義経は伊賀の守、若狭の守に任じられた。
 義仲が最初に受けた位階の「従五位下(じゅごいげ)」は殿上人(てんじょうびと)の子が元服すると与えられる殿上人としての最下位の官位であった。清盛は十二歳で従五位下・左兵衛佐(さひょうのすけ)だった。頼朝も元服後十三歳で従五位下・右兵衛佐(うひようえのすけ)となった。
 義仲軍団は義仲直轄軍以外に同時期に入京した京都近国の武将や平家軍在京中は平家軍に追従していた武将達がいた。義仲は武士の統制に有効な方法として官位・官職を利用しようとした。義仲は入京時には無位無冠だった。義仲は在京武力の中心となることで、在京継続の武士や京と緊密に結合する畿内近国の土着在地領主が参集する対象となった。さらに法住寺合戦の勝利後は畿内近国の支配を強化しようとした。
 他の源氏武将と差別化を目指し、従五位下、左馬頭、越後守から従五位上、正五位下、従四位下、伊予守、院御厩(みまや)別当(長官)、征東大将軍と官位・官職を上げていった。伊予(いよ、愛媛県)国は当時、平家軍が占領していたから、実質的利益は無いが、伊予守とは四位の公卿昇進を目前とする受領(ずりょう、諸国の長官)の最高位であった。左馬頭(さまのかみ)は平重盛などが四位で補任されており、五位での補任は源義朝のみである。院御厩と左馬寮(さまりょう)は「保元の乱」後は藤原信頼と源義朝、「平治の乱」後は平家一門というように、最大級の在京武力を有する政治勢力が掌握していた。両機関の長官職は所管の馬や牧等の物質的軍事基盤は勿論、在京武力を統率する権威を有する。征東大将軍(せいとうたいしょうぐん)は平宗盛が任命された惣官(そうかん)と同じく臨時軍政官として鎌倉軍に対抗するために京都近国の在京武士を統合する権威の獲得を目指したものだろう。
 なお義経も従五位下、左衛門尉(さえもんのじょう)、検非違使(けびいし、警察兼裁判官)、院の御厩司(みまやつかさ)(元暦二年四月二十七日)、伊予の守(元暦二年八月十四日)に任じられている。

 

二・一・三 所領安堵の例

 

 頼朝が主従関係を保つために所領安堵(しょりょうあんど)をして、主従関係を厳密にしたが、義仲は所領安堵をしなかったので、主従関係があいまいだったという通説(俗説)がある。
 しかし、義仲の発行した所領安堵状が発見されており、『吾妻鏡』にも義仲の発行した所領安堵状を頼朝に見せ、頼朝がこれは義仲のものに間違いないと認め、所領安堵している記述例がある。
 武士は所領安堵をしてもらい主従関係を結び、さらに合戦で手柄をたて所領の増加を期待した。源平合戦のとき手柄をたてた武士には平家から没収した土地(没官領)が与えられた。

 

例一 一一八四年(寿永三年、元暦元年)二月二十一日 『吾妻鏡』 「木曽殿の御下文」
 尾籐太知宣と云う者がいました。これまで義仲朝臣に従属した。而るに内々頼朝の御意向を伺い、関東に参向した。武衛(ぶえい、頼朝)は今日、直接に詳細を質問された。信濃の国中野の御牧、紀伊の国田中・池田両庄を知行したいと申した。・・・

 

例二 一一八七年(文治三年)十一月二十五日 『吾妻鏡』「但馬住人山口家任の本領を安堵せしむ」
・・・

 

例三 一一八○年(治承四年)十一月十三日 『市河文書』(長野県立歴史館より)
 木曽(源)義仲は一一八○年(治承四年)九月に平氏打倒の挙兵をおこなう。本文書はその二カ月後に義仲が藤原(中野)助弘に対し、従来どおり、その所領を安堵した(支配することを認めた)下文である。木曽義仲の自筆花押(かおう、署名の下に書く判)があるものとして、現在知られている唯一の文書である。
 (『市河文書』・・・『史学義仲』第四号参照)

 

例四 一一八三年(寿永二年)十二月七日 『市河文書』(長野県立歴史館より)
 本文書の花押は源頼朝の弟である醍醐禅師全成(阿野全成・悪禅師)であり、源頼朝(「鎌倉殿」)の命をうけて、醍醐禅師全成が藤原(中野)助弘を高井郡中野郷西条の下司職に任じた下文である。
 頼朝が義仲亡きあとの信濃国の支配を本格的に進めるのは翌年の寿永三年であるといわれているが、本文書により、義仲在世中の寿永二年末には、頼朝の支配が信濃北部まで及びつつあったことが判明する。一一八○年(治承四年)に義仲から所領安堵を受けたが、その三年後には鎌倉から所領安堵を受けるという、中野氏の変わり身の早さがうかがえる。  
 信濃国でさえ、はやばやと鞍替えする武士がいたのだから、京都在中の東国や京都近国の武士は、さらに状況を冷静に分析し、有利そうな頼朝に鞍替えしようとする武士が多かったようである。

 

二・二 兵糧米(食料)の不足

 

 義仲にとって武士団の統合化と同じく重要な問題が兵糧の確保であった。義仲軍は信濃や北陸では食料は従った武将や豪族からの寄付で間にあった。しかし養和の大飢饉の直後である。京都では寄付では集まらない。義仲軍は朝廷から食料の支給を期待していたようである。しかし食料の支給は無かった。各自で算段せよということだった。平家追討の褒美として義仲に「伊予の国」、行家に「備前の国」が与えられたが、いずれも平家軍の占領地であり、直ぐ食料が手に入るわけではない。京都近郊の平家から没収した土地や皇族や貴族の荘園は与えられなかった。
 それまで平家軍は食料の調達は養和の大飢饉の直後から、官軍としての「追捕(ついぶ)」という官公庁、荘園、神社、仏寺からの取り立て、または「路次追捕(ろじついぶ)」という進軍経路の周辺の民家などからの取り立て(ほぼ略奪)が常態化していた。義仲軍は官軍となったので国司や荘園の持ち主の皇族や貴族、神社や寺からの追捕はしたようである。その他の源氏軍は一般市民からの路次追捕もしたようである。義仲軍は路次追捕のみは取り締まった。しかし逆に国司や荘園の持ち主の法皇、皇族、貴族、寺社からの追捕は厳しかったので、貴族や寺社の反発は大きかったようである。
 さらに食料不足の状況であったから、法皇から兵の数を減らせとの方針もあり、京都近国の武将は治安の回復に伴い、一部の警備兵以外は本国に引き揚げたものと思われる。
 法皇から西国の平家追討を命ぜられたが、食料調達を考えると直ぐ出発は出来ない。現地調達で寄付は期待出来ないし、追捕も平家軍が実施した後だから困難である。
 義仲没後で、一の谷合戦の後、寿永三年二月二十二日に『玉葉』の著者・九条兼実のところへ、左大弁の吉田経房が来て、「諸国兵糧の責め、並びに武士が他人の領地を押し取る事、停止すべき由宣旨を下され、武士が確実に申し行う」という。二十三日に大夫史の隆職(たかもと)が宣旨を知らせて来た。よってこれを続け加える施行、更に以て叶うべきもない事か。法ありて行わず。法無きに如かず。いくら宣旨を出しても武士が守らなければ意味が無い。

 

二・二・一 武士押妨停止の宣旨

 

一一八四年(寿永三年)二月二十三日 『玉葉』 「武士押妨(おうぼう)停止の宣旨」
 まさしく源の頼朝の威力による命令により、詳細を調査し意見を申し上げる方法で、武士達の神社・仏寺、並びに法皇・皇族・国司及び貴族領等を横領することを停止させるべき事。・・・
(宣旨:天皇の命令書)
 「一ノ谷合戦」後に、従来の年貢(ねんぐ)以上に兵粮米(将兵の食糧、武具、道具)の調達と称して、武士達があちこちで所構わず、自由勝手に取り立てを行なう「路次追捕」を停止せよと命令している。ただし必要な場合は頼朝を通じて申請せよという。つまり路次追捕という調達方法自体は認めている。要するに天皇または法皇の命令書(宣旨または院宣)が無く無断でやるなと言うことである。
 義仲追討のため北陸道に出発した平家軍は「路次追捕(現地調達)」をしながら進軍した。平家軍に追従した武士のほとんどが義仲軍に鞍替えし、同じく路次追捕をしたようだ。さらに後に鎌倉軍に鞍替えした武士たちは同じく路次追捕で進軍した。

 

二・二・二 公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨

 

一一八四年(寿永三年)二月二十三日 『玉葉』 「公田(くでん)庄園(しょうえん)への兵粮米を徴集停止の宣旨」
 まさしく速やかに諸国の長官に命令する。公田(くでん、国有地の田畑)及び荘園(しょうえん、貴族や寺社等の所有地)の田畑への軍用米の割り当て徴集を停止する事。・・・
 国家社会の衰退や人民の疲弊(ひへい)は元よりこれによるものである。「まして源義仲はこれを改めず、益々この悪法を続行した。・・・

 一ノ谷合戦後、武士達の「自由押妨の禁止」と、「公田庄園への兵粮米の徴収禁止」を宣言した。ここで注目すべきは「まして源義仲はこれを改めず、益々この悪法を続行した」という文面から推理すると、義仲は「武士達の自由横領」つまり「路次追捕の禁止」のみはつとめたが、この「公田庄園への兵粮米の徴収」は継続・強化したようである。つまり弱者たる庶民に被害の及ぶ路次追捕(略奪)は禁止したが、強者たる法皇、皇族、貴族、寺社、諸国の国司(長官)からは兵粮米の徴収を継続・強化したので、それらの反発は大きく、それに従属する武士も反発し離反したようである。

 

二・二・三 鎌倉軍は京都市外で追捕

 

 鎌倉軍は京都市内や京都近郊では追捕をしなかった。しかし、入京前に現地調達をし、さらに京都に長期滞在をせず、直ぐ西国に向かった。その途中、路次追捕(ついぶ)という現地調達をしながら進軍したのである。
 その例として、摂津(せっつ、大阪府)国の勝尾寺(かつおじ)が一の谷合戦に向かうために山陽道を下る梶原景時の軍勢によって焼き討ちされた。また摂津国の垂水(たるみ)東・西牧において追捕(略奪)をしたようである。
 『平家物語・延慶本』の「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」に一の谷の合戦場へ向かう途中の鎌倉軍の追捕乱暴の記述がある。
 「元暦(げんりゃく)元年(一一八四年)二月四日、梶原景時(かじわらかげとき)の軍勢が一ノ谷へ向かう途中で、近隣の民衆が勝尾寺(かつおじ、摂津、大阪府)に資材を隠している(または平家軍の残党が隠れている)らしいという話しを聞きつけて、軍勢が押し寄せたので、老人も若者も逃げ隠れした。衣類や食糧や資材を奪い取るだけでなく、たちまち放火したので、堂舎や仏閣は全て春の霞のように、仏像や経巻も合わせて夜の雲のように燃えつきた。・・・」
 その他、摂津国の垂水(たるみ)東・西牧において「路地たるにより、追討使が下向の時、雑人が御牧に乱入し、御供米を取りみだし、住人等を無実の罪をきせて、ひどい目にあわせた」(『平安遺文(へいあんいぶん)』八・四一三一)と訴えられるような追捕(略奪)をしながら進軍した。

 

二・三 治安回復の遅れ

 

 義仲軍の入京前、京都市内は平家軍が七月二十五日に西国に退却したので、無警察状態であった。平家軍残党、僧兵、市民が放火略奪を働いていた。その治安回復を期待し命令されたが、源氏軍も官軍としての追捕を行ったので、そのどさくさに紛れて市民などの略奪が横行し、治安回復は遅れたようだ。「玉葉」の記述からも九月五日までは治安が乱れていると記述されている。しかし九月六日以降は治安が乱れたという記述は無い。九月六日以降は治安が回復したようだ。一カ月もかかったと見るか、一カ月で回復出来たと見るかの違いである。朝廷としては、数日での治安回復を期待したようだ。

 

二・三・一 義仲軍入京前の混乱

 

 『吉記』七月二十六日には、「所々に乱暴放火追捕あり」「眼前に天下の滅亡を見る」の記述がある。
 比叡山の僧兵達などが、京都市内に入ってきた。道路付近の乱暴乱雑な状態は数え切れないほどだ。平家武将のゆかりの家だとして火を付けたり、追捕だと称して略奪する。人の住む家で完全な所は無くなった。「眼前に天下の滅亡を見る」思いだ。悲しい事だ。幸いにも私の家はこの災難を免れた。まさに神様仏様のお助けである」。
 『玉葉』七月二十七日には、「義仲や行家を乱暴の停止のため、早く入京すべきである」と義仲軍に乱暴の停止を期待している。
 「軍兵の乱暴を停止させるため」と記述しているから、平家軍の残党か義仲軍の先遣隊と兼実は誤解している。が、実は『吉記』や『愚管抄』によれば僧兵や京都市民の乱暴略奪のようだ。
 『愚管抄』によれば七月二十五日の平家軍都落ち後、予想外の混乱が発生した。「火事場泥棒が発生した」。さらに「たがいに追捕(略奪)をした」。市民同士が略奪したのか、市民と平家軍なのかは不明だが、警備の空白に発生した京都市内の混乱、比叡山僧兵や京都市民の放火や略奪の乱暴を停止させるには義仲軍や行家の早い入京に期待するしかない。この頃の朝廷には御所の少数の警備兵以外に直轄の軍隊や警察が存在しなかった。治安を平家や源氏の武士に頼っていた。当時の僧兵も外見は僧侶のようであるが、寺の警備兵として武力を振るった。

 

二・三・二 義仲軍入京後の追捕乱暴

 

  義仲軍が入京後、「京中所々に追捕あり」の記述が『吉記』寿永二年七月三十日にある。そして「京中の物取りが倍増した」の記述が『玉葉』八月六日にある。ここで義仲軍が取り締まりをしていたかのような伝聞もある。「武士十余人の処刑」の記述が『玉葉』八月二十八日にある。「伝聞によると、今日七条河原において、武士十余人の処刑をしたという」。さらに「四方の通路は皆塞がる」の記述が『玉葉』九月三日にあり、乱暴の記述が詳しい。さらに「人々の災難は法皇の乱政と源氏の悪行より生ずる」と続く。そして「京中の万人は存命不能」の大袈裟な記述が『玉葉』九月五日にある。『玉葉』には、入京後における源氏軍などの乱暴の描写が詳しい。しかし、兼実が直接見たのではない。これを兼実に報告している「ある人」とは誰かが問題である。普段報告に来る小槻隆職(おつきのたかもと)などの官吏ではないようである。「全て刈り取られた、全て奪い取られた、一切存命出来ない、殺されそうだ、餓死しそうだ。」と書いている。とすれば北朝鮮のように市内には餓死者があふれかえりそうであるが、そのような報告や伝聞・風聞は無い。追捕に逆らった一般人が殺されたという風聞すら無い。著者の兼実は病で寝込んでいて、ある人の話を確認も出来ずに書いているだけである。なお九月六日以後は乱暴の記述がほとんど無い。善意に解釈すると、ほぼ一か月で混乱を制圧したようである。あるいは八月二十七日より以前に制圧し、八月二十八日には特に乱暴した者を処分したようである。入京の寿永二年(一一八三年)七月二十八日は新暦の八月十七日であり、米の収穫時期の直前だったので、食料が最も不足していた時期だった。現実にも入京後の一カ月で米の収穫・流通が始まり略奪などの混乱は収まっている。

 

二・四 水島の合戦の敗北

 

 水島の合戦に敗北したことにより、「義仲軍不敗神話」が消えた。 またこの合戦の敗北で義仲軍主力は半減したものと推定される。
 京都市内の治安が回復し、食料調達のめどもついたので、ようやく西国の平家軍の追討に出発した。
 『源平盛衰記』によれば、追手は矢田判官代義清、搦め手は海野四郎幸弘を大将として、山陽道の者たちを多く源氏に従わせた。平家は讃岐(さぬき、香川県)国屋島にいたので、源氏は備中(びっちゅう、岡山県西部)国水島に陣を張った。義仲自身は万寿の庄(現在の倉敷市庄)の本陣に滞在。部下の武将二人が七千の兵を率いて、千隻余の船で乙島(現在の倉敷市玉島乙島常照院付近)に陣取った。平氏は義仲に京都を追われて九州・大宰府まで逃げていたが、このころは勢いを盛り返し、讃岐屋島を拠点に都をうかがっていた。源氏の到来に対応し、柏島(現在の倉敷市玉島柏島の玉島大橋西側付近)を本拠地として三百隻余の船に一万二千人が乗り込み、海上戦を仕掛けたとされる。(玉島大橋は源平大橋とも呼ばれる)
 平家軍は地勢をよく知っており、海戦に慣れていた。義仲軍は地勢不案内で海戦に不慣れであった。さらに当日は皆既日食があった。平家軍には朝廷の天文方の知識のある者がおり、日食があることを知っていた。義仲軍はその知識がなく混乱した。『源平盛衰記』にも記述がある。虎の子の半数、千騎が失われた。これを聞いた他の武将から「義仲軍不敗神話」が消えた。京都近辺で二千騎の最大武力保持者だった義仲軍主力が千騎程度に減少した。それを上回る数千ないし数万の鎌倉軍主力が近づいている情報を得た京都在中の武士、京都近辺の武士の浮動勢力は、いっせいに鎌倉軍に傾いたようである。やはり、この水島の合戦に大敗し、主力が半減した事が、義仲軍団崩壊の最大の原因だろう。当日の日食について、九条兼実も天文方から聞いて知っていたようである。(参考)閏十月一日 『玉葉』 天気晴れ、「日蝕」 この日、日蝕なり。予定時間と約四時間の差があった。

 

二・五 後白河法皇・頼朝・行家の権謀術数

 

 後白河法皇や頼朝・行家の権謀術数(けんぼうじゅつすう)にはまった。
   一・後白河法皇の計略により、北陸の宮の天皇の推挙に失敗した。
   二・法皇から反義仲の召集があり、法住寺合戦には勝ったが、対策の失敗。
   三・頼朝の計略(アメとムチ作戦)。
   四・頼朝に東海道、東山道の支配を認める宣旨が出た。
   五・行家の反義仲の動きと離反。

 

二・五・一 後白河法皇の計略:(権謀術数)

 

 当時、後白河法皇や朝庭は直轄の軍隊を持っていなかった。院御所の警備の西面・北面の武士や皇宮警察にあたる近衛府か衛門府のみである。兵部省(ひょうぶしょう)はあったが、ほとんど名前のみである。しかし、朝廷の権威、つまり天皇や上皇の権威は小さくはなかった。京都近国の武士や東国の武士も官位や官職を熱望した。それは名誉のみでなく、実益もあった。官職につけばいささかの報酬もある。受領(ずりょう、諸国の長官)や国司(こくし、地方官)などに任ぜられれば、徴税の義務と権利があるので、うまくすれば富を増やすことも出来る。
 後白河法皇は鳥羽天皇の四男であったので、天皇になれる見込みは少なかったが、運よく二十九歳のとき天皇に即位した。後に上皇となり、六十六歳で亡くなるまで院政を行った。院政とは幼い天皇に代わり、父君の上皇(院)が政務を担当するものである。保元・平治の乱を乗り切り、清盛・義仲・頼朝の武力に対抗して数十年間、治天の君(ちてんのきみ、天皇や上皇が複数の場合の最高権力者)として権謀術数(巧みに人を欺くはかりごと)により朝廷を運営した。朝廷の権威を背景に武士達を競わせ操ろうとした。源氏と平家、義仲と行家、義仲と頼朝、義経と頼朝などを対抗させた。治承三年には平清盛の武力により幽閉(ゆうへい)された。義仲にもその恐れがあると思い、法住寺に兵を集め、義仲を追放しようと画策したが逆の結果となった。しかし頼朝に期待し、あまり気落ちはしなかったようである。最大の失敗は義仲を排除しようとして頼朝に関東の支配権「寿永二年十月宣旨」を認めたことである。さらに義経に頼朝追討の院宣(いんぜん、上皇の命令書)を発行し、それを理由に義経追討の目的の「守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置」を認めさせた事である。この守護・地頭が公家の領域を侵食し、これにより貴族支配から武士支配の社会へと変換していくのである。

 

二・五・二 北陸の宮の天皇の推挙に失敗

 

 安徳天皇は平家軍が連れ去り、京都は天皇不在であった。後白河法皇は新しい天皇をたてようと、安徳天皇の弟の二人から選ぼうとした。後白河法皇が院政を行うには天皇は幼いほうが、都合が良い。義仲の推挙した北陸の宮(以仁王の子息)は十七才なので法皇は無視しようとした。つい先日までは無位無官の者が口出しすべきでないという。右大臣の九条兼実でさえ口出しすべきではないのだから。義仲の推挙した北陸の宮は無視された。義仲と後白河法皇の関係は不和となる。これを見た他の源氏武将の心は義仲から離れた。

 

二・五・三 義仲は以仁王の王子を推す

 

 天皇が平家軍に連れ去られたので、京都には新しい天皇を決める事にした。「践祚(せんそ、即位の前)の事につき法皇より意見を求められた」の記述が『玉葉』八月十四日にある。さらに「義仲が以仁王の王子を推薦した」と続く。そして「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」と記述する。王者(法皇)の裁断すべきことなので、臣下の指図すべきものではありません。(中略)。現代でも家の後継ぎは主人が決めるように、次の王は現王(法皇)が決めるべきである。他人特に臣下(家来)が口出しすべきでない。と兼実は考えている。しかし、この立王への口出しが法皇側の義仲への警戒心を大きくしたようである。後の「承久(じょうきゅう)の変」の北条義時や「南北朝」の足利尊氏(たかうじ)のように強引な策をとらなかった。頼朝は娘の「大姫」を天皇の妃にしようと画策し、九条兼実も娘の任子を妃にする事に成功したので、不仲になり兼実は失脚した。
八月六日 『玉葉』 「立王の事につき法皇より諮られる」「継躰(けいたい)天皇剣爾(けんじ)なく践祚(せんそ)の例あり」「天子の位一日も空しくすべからず」
八月十四日 『玉葉』 「践祚の事につき法皇より諮問せられる」「義仲以仁王の王子を推す」「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
八月十八日 『玉葉』 「院にて議定あり」「立王の事」「法皇の女房丹波の夢想により高倉院の四宮を立てられんとする」「再度占いを行われる」
八月二十日 『玉葉』 「後鳥羽天皇践祚せられる」
 (後の法住寺合戦は義仲が政変を企図したものではないが、義仲が勝利したので法皇に北陸宮を天皇に推挙出来たはずだが、その傾向は見られない)

 

二・六 法住寺合戦対策の失敗

 

二・六・一 法皇から反義仲の召集があった

 

 法住寺合戦の前に法皇から召集があった。他の源氏武将は法皇を崇拝していたので、まず村上、多田、石川が寝返った。義仲に従ったのは義仲直轄軍以外では志田義弘と近江源氏の山本義経と甲斐入道成覺(義兼法師)のみである。山本義経と甲斐入道成覺は早期に挙兵したが、敗れて頼朝に従っていたこともある。志田義弘は頼朝に敗れて義仲を頼ってきた。いずれも従う人数は少ない。このころ水島の合戦の敗戦で、義仲直轄軍は千騎程度に減少していたようである。義仲は法住寺合戦には勝ったが、法皇御所を攻撃したことは他の武将や公家の反感をかった。村上太郎信国は法皇方に付き、法住寺合戦の時討たれたようだ。合戦の後、仁科盛家は解官されているので、合戦後に義仲離反を決めたようだ。天台座主(延暦寺の長)明雲が殺害されたので、延暦寺や白山宮系の僧兵等が離反したようだ。安田義定はこの時期に名前が無く、『吾妻鏡』の寿永三年(一一八四年 )二月五日には義経の平家追討軍に従っているので、法住寺合戦の前に離反し頼朝に追従したようだ。しかし後に他の多くの武将と同じく頼朝への謀反の疑いをかけられ建久五年(一一九四年)八月十九日殺害された。

 

二・六・二 合戦の人数

 

 『平家物語』では、法皇方が法住寺御所に二万人を集めた。義仲軍は七千騎で攻めたとなっているが、例の軍記物語の特徴でおおげさな表現による。実際は多分、十分の一の法皇側が二千人と義仲軍が七百騎程度だろう。『愚管抄』でも木曽軍は千騎のうち五百騎が押し寄せたとなっている。入京時、約五千騎(『平家物語』などでは五万騎)だった木曽義仲混成軍も一部は引き上げ、更に「水島の合戦」で、かなり減少し、更に法皇側に追従したものなどがあり、総兵力は千騎程度に減少していたようである。法皇側は御所の警備兵たる近衛府などの兵士、比叡山延暦寺の僧兵(寺の警備兵)、三井寺の僧兵、民兵(京都市民の応募者など)、義仲軍からの寝返り組などで、二千人をかき集めたようである。

 

二・六・三 合戦には勝ったが離反者が増えた

 

 義仲は後の「承久の変」の北条義時や「南北朝」の足利尊氏のように強引な策をとらなかった。北条義時は後鳥羽上皇を隠岐島(おきのしま)へ流罪にした。足利尊氏(あしかがたかうじ)は後醍醐(ごだいご)天皇を隠岐の島へ流罪にした。
 法住寺合戦は義仲が政変を意図して起こした事件ではないが、結果として勝利したので自身の意に沿うことを後白河法皇に強要することが可能となった。つぎの様な院庁下文を発した。
十一月二十八日 『吉記』 「平家追討を命ずる院庁下文」
十二月五日 『吉記』 「義仲に平家領惣領を命ずる院庁下文」
十二月十日 『吉記』 「頼朝追討を命ずる院庁下文」
十二月十五日 『吉記』 「平泉の藤原秀衡宛ての頼朝追討を命ずる院庁下文」
 しかし、あまり効果はなかったようである。ますます離反する武将が増えた。

 

二・七 頼朝の計略(アメとムチ作戦)

 

 頼朝は「十月宣旨」を得るまでは法皇に下手に出てアメをばらまいた。「源氏と平氏を対等に」とか「横領された土地は元にもどすべし」など。しかし、義仲や平家を滅ぼした後は武力を背景に法皇を威嚇するムチ作戦に変更した。「朝務への干渉」、「守護・地頭の設置」、「兵糧米の徴収」などがある。
 頼朝は義朝(よしとも)の三男として生まれた。母は熱田神宮の神官大宮司藤原季範(すえのり)の娘だった。義朝の長男は鎌倉の義平である。義仲の父義賢(よしかた)は義平に討たれた。頼朝は十三歳で元服し、従五位下(じゅごいげ)右兵衛佐(うひょうえのすけ、兵衛府の次官)だった。義朝は頼朝に京武者として期待し、義平には関東鎌倉の在地経営を期待したようだ。頼朝は平治の乱で父の義朝に従軍し、敗戦となり賊軍とされた。死罪となるところを運よく助けられ、伊豆に流罪となり二十年を過ごした。以仁王の令旨により挙兵し、石橋山の合戦では敗れたが、運よく助かり、その後は幸運に恵まれた。
 頼朝は朝廷工作に成功した。義仲入京前から朝廷に連絡を取っていたので、義仲は頼朝の代官とみなされた。三カ条の甘い提案により、十月宣旨の獲得に成功した。宣旨が絶対有効でもないが、いくらかの効果はある。
 例えば富士川の合戦のとき、平家軍は頼朝追討の宣旨を持っていたのに集まりが悪かった。後白河法皇は義仲や義経にも頼朝追討の院宣を乱発するが効果は少なかった。やはり情報分析により、有利そうな勢力になびくのが常である。頼朝の計略により、義仲軍入京の頃、法皇や公卿の間では既に平家追討の功績は頼朝第一、義仲第二、行家第三とみなしていた。にもかかわらず、義仲は頼朝など無視しようとする。さらに天皇の後継問題にも口出しする。気に入らないので、頼朝の方がましと期待したようである。
 九条兼実は平家や法皇と意見の対立があり、義仲入京前(寿永二年七月)や、法住寺合戦のとき(寿永二年十一月)、義仲に一時期待したこともあったが、まだ見ぬ頼朝に期待を抱いたようである。しかし、後に頼朝が次々と繰り出す巧妙な作戦に、もしや我が朝庭は滅亡かと不安を抱くが、それは永い年月を経て現実のものとなる。後に頼朝の推薦により、関白(かんぱく)・太政大臣(だいじょうだいじん)になるなど朝廷の権力中枢(ちゅうすう)となるが、結局、公家政権から武家政権への手助けをしたことになった。

「頼朝上洛の風聞」
一一八一年(治承五年) 『玉葉』 五月一日 「伝聞、頼朝上洛せんとする」に始まり、
一一八四年(寿永三年) 『玉葉』 八月十七日 「伝聞、頼朝上洛の風聞あり」まで、十回くらい記述がある。
 頼朝が実際に入洛したのは、一一九○年(建久元年)であった。

 

二・七・一 頼朝の密奏

 

一一八一年(治承五年)八月一日 『玉葉』 「源頼朝が密かに法皇に申し上げることあり」
 頼朝は源平両氏を共に用いるべき旨を申しました。
(解説)
 挙兵から一年でこのような密書を法皇へ出している。多分その後も度々出しているだろう。その結果が次の「第一は頼朝、第二は義仲」となったようである。

 

二・七・二 第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家

 

一一八三年(寿永二年)七月三十日 『玉葉』 「頼朝・義仲・行家への勧賞(けんじょう)如何に行わるべきか」
「頼朝参洛待たず三人同時に行わるべし」
 第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家である。
(解説)
 鎌倉を一歩も出ない頼朝が「第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家」となるのは、法皇も公家も頼朝の密書にうまく騙されたものである。

 

二・七・三 頼朝上洛不可能

 

一一八三年(寿永二年)十月九日 『玉葉』 「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」
一は京都へ上る跡に陸奥の藤原秀衡や関東の佐竹隆義等が鎌倉へ攻め込む恐れがある。
二は数万の軍勢を率いて、京都へ上ると京都市内の兵粮が不足し堪えることが出来ない。
「頼朝本位に復す」
 叉頼朝が罪人扱いから元の兵衛の佐(ひょうえのすけ)に復帰するように命令下されたという。
(解説)
 現在、京都に駐在している義仲軍は食糧調達を路次追捕(略奪)もしくは諸国への兵粮米徴収によっている。そこへ鎌倉軍が入り重ねて食糧調達のための路次追捕(略奪)もしくは諸国への兵粮米徴収をしたら、京都市内の食糧が不足し堪えることが出来ない。もし鎌倉軍が持参する食糧のみで間に合い、路次追捕(略奪)しないならこのような事は言わないはずである。義仲軍と同様の路次追捕(略奪)方式で進軍しようとする証拠である。つまり、当時の大軍の遠征に食糧調達のための追捕は当然の軍事活動であった。
 また頼朝は約二十年前、兵衛の佐(兵衛府の次官)だったが、平治の乱の結果、死罪になるところを運良く助けられ流罪となっていたが、それを解除し、復職したようである。

 

二・七・四 頼朝三ケ条の申請

 

一一八三年(寿永二年)十月一日 『玉葉』 「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」
十月二日 『玉葉』 「頼朝三ケ条の事」
 ある人が言いました。頼朝が申請した所の三ケ条の事は、
一は平家が横取りした所の神社仏寺の荘園領地は、たしかに本のように本社本寺に戻すべきよう、天皇の命令を下さるべきです。平氏の滅亡は、仏神の加護によるとの理由です。
二は法皇、皇族、公家諸家の荘園領地も、同じく平氏が多く以て横取りしています。是も又本のように本の主に返されて、臣下の心配を取り除くべきです。
三は降参して来る武士等は、各其の罪をゆるし、死刑にすべきではありません。・・・
(解説)
 神社、仏寺、法皇、宮家、公家諸家の領地、荘園は北陸、関東にも多かったようである。平家その他に横取りされた領地を元に返すと、甘い餌をまいている。喜んだ法皇や公家は寿永二年十月宣旨で頼朝に関東の支配権を与えた。

二・七・五 寿永二年十月宣旨

一一八三年(寿永二年)閏十月十三日 『玉葉』 「頼朝に東海道、東山道の支配を認める宣旨が出た」
「頼朝、東海・東山道の荘園公領を領知すべき宣旨」
「義仲を恐れるにより北陸道は入らず」
 頼朝が東海・東山・北陸三道の荘園・国領、本の如く領有して支配したいと申請したのに宣旨では北陸道は義仲を恐れて外した。兼実は法皇は弱腰だと非難している。しかしこの宣旨は頼朝の関東における支配権を認めたものであり、鎌倉幕府の始まりでもある。義仲を牽制するために頼朝に与えた関東の支配権が後に公家政治の終わりに向かう。
 頼朝の計略により、頼朝に東海道、東山道の支配を認める宣旨(天皇の命令)が出た。義経がその宣伝に出てきた。東海道は頼朝の支配地だから、やむをえないが、東山道の信濃や上野は義仲の支配地を含み、北陸はやはり義仲の支配地でもある。北陸の在地武士のなかには心配する者も出てきた。宣旨が万能ではないが、いくらかの効果はある。これで頼朝軍に参加する武将が増え、義仲軍から離れる武将が増えた。
(注)閏(うるう)月・・・当時の暦では、一ケ月が二十九日と三十日だったので、おおむね三年に一回閏月を設けた。

 

二・八 行家の反義仲の動きと離反

 

二・八・一 行家の概要

 

 行家は源為義(みなもとのためよし)の十男として生まれた。熊野新宮に住い新宮十郎と呼ばれた。為義の長男が義朝(よしとも)、次男が義賢(よしかた)である。頼朝は義朝の三男、義仲は義賢の次男であるから頼朝や義仲にとって伯父(おじ)と従兄弟(いとこ)ということになる。行家は自立して活動したが、敗戦続きで、頼朝に加わるも厚遇されず、義仲に加わると厚遇された。にもかかわらず相変わらず自立を目指し、義仲より上に立とうと画策していた。最後まで義仲の足を引っ張った。
 『平家物語』や『吾妻鏡』によると以仁王の令旨を八条院の蔵人に任命されて、行家と改名し、頼朝や義仲へ伝達する役目を担ったとされている。八条院は鳥羽天皇の皇女であるが、全国に多数の荘園を所有していた。行家がこの八条院の荘園をたどって令旨を伝えた。またはこの荘園の連絡網を使い令旨が伝達されたかもしれない。行家は使者の役目以外に本人も独自の行動をとり平家打倒の兵を揚げた。一一八一年(養和元年)三月に平重衡・惟盛の軍と墨俣(すのまた)で合戦したが敗走した。一一八二年(寿永元年)五月伊勢神宮や延暦寺との提携は不調だった。このように戦は上手ではなく、敗戦続きで、頼朝や義仲を頼ったようである。
 義仲軍入京前に京都近国の源氏武将をまとめ、同時入京を画策したのは行家の役目のようである。入京後は相変わらず自立を目指し、義仲より上に立とうと画策した。後白河法皇に近づき、法皇と双六をする関係にまで接近した。最後まで義仲の足を引っ張った。このように行家は、戦は上手ではないが、話術や交渉能力は高く、流動的な武士をまとめる能力がある。
 法住寺合戦後、義仲は義経軍が近づいているにもかかわらず、兵力をさいて樋口次郎兼光に行家討伐を命じたのは、単なる怒りや恨み以外に行家の巧みな交渉能力で京都近国の武将を反義仲にまとめられる事を恐れたようだ。恐れは現実のものとなり、京都近国の武将や、京都在中で今まで中立で様子見だった武将までもが義経軍に鞍替えし始めた。行家は義仲没後には義経に近づき頼朝に対抗したが、義経と同じく頼朝に追討された。
 
二・八・二 行家の令旨の伝達と反乱

 

一一八〇年(治承四年)
四月九日 『吾妻鏡』 「頼政が以仁王の令旨を受ける」「行家が八條院の蔵人に任命され東国に向かう」
四月二十七日 『吾妻鏡』 「以仁王の令旨が頼朝に届く」
九月三日 『玉葉』 「熊野別当が謀叛」「源頼朝が伊豆・駿河を押領」「源行家が頼朝に与力」
十一月七日 『吾妻鏡』 「広常以下、合戦の次第を報告」「志太義廣・行家ら来謁」

一一八一年 (治承五年、 養和元年)
二月一日 『玉葉』 「源行家の勢、尾張の国に超え来る」「官兵疲弊し寄せる事能わず」
二月九日 『玉葉』 「源義基の首及び弟二人を渡す」「関東の反賊、尾張の国に越え来り」
 また聞く、関東の反乱軍等は半ばに及び、尾張の国に越えて来た。十郎蔵人義俊(行家)が大将軍であるという。「官軍度々の合戦に疲れ弱気有り」「平知盛所悩により帰洛」「大将軍の帰洛は不吉の徴なり」
二月十七日 『玉葉』 「熊野法師、阿波国を焼き払う」「源義俊(行家、為義の子、世十郎蔵人と称す)は尾張の国に居住」
二月二十一日 『玉葉』  「坂東軍陣甚だ物騒」
三月十三日  『玉葉』  「去る十日墨俣にて合戦あり。源行家敗れる」
十月二十七日 『玉葉』  「頼朝上洛という」「行家は、すでに尾張国内に入る」

 

二・八・三 行家の義仲との連携

 

一一八三年(寿永二年)
五月十六日  『玉葉』 「官軍、越中にて源義仲、行家等と戦い大敗」
七月二日    『玉葉』 「義仲・行家四方より寄せんとする」
七月十六日  『吉記』 「行家、伊賀の国に入る」
七月二十二日 『玉葉』 「行家、大和国に入り宇多郡に住む」
七月二十四日 『吉記』 「行家は大和の国に着く」
七月二十七日 『玉葉』 「義仲・行家に狼藉を停止させるため、早く入京すべき」
七月二十八日 『玉葉』 「義仲・行家入京した」「かの両人権を争う意趣あり」
七月二十八日 『吉記』 「義仲・行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」
七月三十日  『玉葉』 「頼朝・義仲・行家への勧賞を如何に行わるべきか」

 

二・八・四 行家が反義仲の動き

 

八月十一日 『玉葉』 「昨日の勧賞の聞書を見る」
 去る夜の聞書を見た。義仲は従五位下(じゅごいのげ)、左馬頭(さまのかみ)、越後守(えちごのかみ)、行家は従五位下、備後守(びんごのかみ)という。
八月十二日 『玉葉』  「行家は勧賞の懸隔に忿怨(ふんおん)」
 伝聞、行家はてあつい賞に非ずと称し怒り恨むという。且つ是は義仲へ与えた賞と程度のはなはだしき故である。門を閉じ辞退したという。
九月二十三日 『玉葉』 「義仲、行家を避ける」
閏十月二十日 『玉葉』 「静賢、法皇の使として義仲亭に向かう」
 「源氏一族、義仲宅に於いて会合すという」「源行家、密かに委細を天聴(法王)に達せしむ」
閏十月二十七日 『玉葉』 「源義兼来る」「義仲と行家不和という」
 「義仲、其の功奪われる事を恐れて行家に具して下向せんと欲する」
閏十月二十八日 『玉葉』 「行家・義仲等は征伐のため下向した」
閏十月二十九日 『玉葉』 「法皇と行家が双六の間、信円空しく退出した」
十一月八日 天気晴れ、『玉葉』 「平氏追討の為、行家二百七十余騎進発した」
 「兼実、密かに神鏡等無事を第一とする旨を行家に示す」
十一月八日 『吉記』 「源行家、三百余騎平氏追討に進発した」
十一月十三日 『玉葉』 「義仲、頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」
十一月十三日 『玉葉』 「今朝、行家は鳥羽を出発」
十一月二十八日 『吉記』 「国尚、書状を以て備前国合戦を報ず」「平氏、室泊に着く事」
十二月二日 『玉葉』  「平氏と和親」「去る二十九日、室山に於いて平氏と行家軍合戦した」

一一八四年(寿永三年、元歴元年)
一月十三日 『玉葉』  「平氏が入洛せざる三つの由緒」
 三、行家は渡野陪(わたのべ)に出で逢いて、一矢射るべき由を称したという。この事に因って遅延した。
一月十六日 『玉葉』  「義経勢は、数万に及ぶ」「義仲、行家を追伐」
一月二十日 『玉葉』 「義仲の軍勢は元々幾ばくもあらず。而るに勢多・田原の二手に分けた」
              「東軍入京」
二月三日 『玉葉』 天晴 「行家が入洛」

 このように行家は、戦は上手ではないが、話術や交渉能力は高く、流動的な武士をまとめる能力があるようだ。義仲は義経軍が近づいているにもかかわらず、兵力をさいて樋口次郎兼光に行家討伐を命じたのは、単なる恨み以外に行家の巧みな交渉能力で京都近国の武将を反義仲にまとめられる事を恐れたようだ。
 行家は義仲の叔父とはいいながら、十才ほど年上に過ぎない。義仲が二才の頃から二十数年を信濃の山国で過ごしたのに対し、行家は二十歳ころまでは京都で成長した。平治の乱(一一五九年)で身を隠したとしても、京都と縁故の深い熊野の新宮であった。山国育ちの義仲よりは京都の様子をかなり熟知していたと思われる。彼が以仁王の令旨を諸国の源氏等に触れたとき、単に令旨を伝えるだけでなく、色々談合したようだ。各地の源氏等が蜂起したところをみると、彼の説得力は相当なもので、弁舌に長けていたようだ。しかし、頼朝や義仲に比較すると武運はつたなく、劣等感にさいなまれたようだ。
 弁舌に長け行動力もある行家は各地の武士団を決記させた功績は大きい。しかし、武将としての最大の能力である武略の才には恵まれなかった。墨俣川の戦以来、行家は敗戦の連続である。倶梨伽羅峠の戦いでも搦め手の志雄責めの大将であったが、義仲の応援により、ようやく勝ったようだ。入京を期に、こうした不名誉の挽回を一挙に計ろうとしたようだ。
 行家は義仲を支援するよりも、むしろ競争者としての行動を始めた。上洛においても、木曽義仲軍が近江に近づいてからは、別動隊として伊賀から大和方面へ進撃した。
 七月二十八日、大津口と宇治口とに別れて入京した義仲と行家は法皇の御所へ参上した。この両人が相並んで法皇に拝謁するのを見た公家は両人の対立関係を敏感に感じたようだ。九条兼実も両人参入の状況を聞いて「参入の間、かの両人相並び、あえて前後せず、権を争う意趣、これをもって知るべし」と記録している。
 行家は義仲に対する競争心を露骨にし始めた。如才なく公家達に取り入り始め、法皇御所にも出入りし、法皇の双六の相手もするなど、法皇やその近臣に近づいた。これも義仲と同等またはそれ以上の官位官職を得ようとしたものだろう。
 人づてに初参入の模様を聞いただけで、兼実は両者の悪感情に気づいた。古来、権謀術数を弄するのは貴族のお家芸である。みずからの武力を持たないので、武士達を互いに対立させ、彼らを思いのままに操るというのが、後白河法皇らの伝統的政策である。法皇は悉くに両者を対立させた。平家追討の院宣をめぐり、義仲と行家はますます離反させられ、数か月の対立は義仲・行家にとっても貴重なエネルギーの浪費となった。
 翌寿永三年正月、頼朝の代官として上洛する範頼、義経の両従兄弟に率いられた大軍と最後の決戦を控えた義仲が、その戦いの直前に残り少ない兵力のなかから、一部を割いて河内へ向け樋口次郎兼光を差し向けたのは、前年末からそこに退いた行家が、義経に呼応して反義仲の旗をあげたからである。

 

二・九 義経の計略・陽動作戦

 

二・九・一 義経の概要

 

 一一八三年(寿永二年)閏十月、義経は頼朝の代官として範頼と共に上洛した。鎌倉の義経軍は前もって貢物(みつぎもの)を届けるとの名目で約五百騎が京都近国でうろうろしていた。その間に京都近国の武将を味方にしようと画策していたようだ。『玉葉』『吾妻鏡』の記述を見てみよう。

 

二・九・二 義経上洛

 

一一八三年(寿永二年)閏十月十七日『玉葉』に「頼朝の弟上洛という」と義経の伝聞が初めて記述される。
十一月になると二日 『玉葉』 「頼朝、去月、鎌倉城を出るも上洛を停止し、弟義経を派遣した」
三日 『玉葉』 「九郎冠者、五千騎の勢を」、四日 『玉葉』 「頼朝代官、不破関に着く」
四日 『吉記』 「義経、代官として上道した」、
五日 『玉葉』 「義仲下向すべからず。頼朝の軍兵と雌雄を決すべし」
六日 『玉葉』 「平頼盛、鎌倉に赴き頼朝と対面す」
七日 『玉葉』 「頼朝代官、弟(九郎)僅か五六百騎。只物を院に供せんための使い」
十日 『玉葉』 「頼朝の使い供物に於いて江州に着いた。九郎猶近江に在り」
十五日 『玉葉』 「義仲、頼朝代官の入京を承伏す」
十二月一日 『玉葉』 「大江公朝、頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」「当時九郎の勢、僅かに五百騎」
一一八四年(寿永三年、元歴元年)一月十三日 『玉葉』 「九郎の勢、僅かに千余騎」
一月十四日 『玉葉』  「関東飢饉か」
一月十六日 『玉葉』  「義経勢、数万に及ぶ」「義仲、行家を追伐」
このように、義経に関する伝聞が記述される。

 

二・九・三 義経軍入京

 

一一八四年(寿永三年)一月二十日 『吾妻鏡』 「範頼・義経、義仲追討のため上洛した」「義仲戦死」
        『玉葉』 「東軍入京」

『平家物語』『源平盛衰記』によれば六万騎という。多分実数は五・六千騎だろう。その構成は
  ① 関東からの範頼軍は約二千騎。
  ② 義経の手勢は従来から約五百騎。
  ③ 京都近国の反平家の活動をしていた軍事貴族級の武士団約千五百騎。
  ④ 平家、義仲に従っていた東国の在京武士が約五百騎鞍替えして加わった。
  ⑤ 平家、義仲に従っていた京都近国の在京武士が約五百騎鞍替えして加わった。
  ⑥ 伊勢平氏の一部が加わった。
と推定される。

 

二・十 公卿や官人の協力者

 

 当然予想出来ることであるが、武士が公卿の既得権益を追捕や路次追捕により侵害するので、公卿や官人の協力者は少なかったようである。
① 公卿では平清盛により権力中枢から追放されていた松殿基房(もとふさ)のみが協力したようである。法住寺合戦後に義仲は松殿基房に政治を委託した。
② 官人では前の右馬の助季高・散位宗輔等が義仲滅亡後に解官されているので協力者だったかもしれない。
一一八四年(寿永三年、元歴元年)二月二十三日 『吾妻鏡』
 前の右馬の助季高・散位宗輔等、義仲朝臣に同意するに依って、これを召し禁(いま)しめられ、検非違使庁(警察兼裁判所)に下さるという。
 頼朝の場合は右大臣の兼実が協力者となった。官人の親能や大江広元、三善康信などが協力した。
③ 関東や京都近国の在京武士のなかには「平家」「義仲」「義経」と最大武力の中心に従わざるを得ない者も多かったようである。(参照 『吾妻鏡』一一八五年 (元暦二年)四月十五日)

 

二・十一 戦略の不足

 

二・十一・一 入京の急ぎ過ぎ

 

①  法皇や公家から早期に入京して治安を回復するよう要請された。
②  義仲は武士の棟梁をめざしていた。頼朝より早く入京して朝廷から棟梁のお墨付きを得たかった。
③  京都近郊に勢力を持つ行家が早期入京を主張した。
④  入京時期をもう少し遅くすれば、米の収穫が終わり食料不足は解消し、混乱は少なかったはずである。
  義仲は武士の棟梁をめざしていた。しかし頼朝の計略のほうが上だった。さらに法皇や貴族の期待よりも治安回復が遅れたので、頼朝への期待を高めてしまい、頼朝に関東の支配権を認めさせた。

 

二・十一・二 北陸政権の構想

 

 北陸へ撤退して北陸政権の構想は行家・義定・光長・重隆などの京都近郊の軍事貴族級の武士に反対された。特に法皇を連れて行く事は反対された。反対しなかったのは近江の山本義経と甲賀入道成覚などである。

 

二・十一・三 平氏との和平工作

 

 平氏との和平は失敗した。
一一八四年(寿永三年、元歴元年)一月九日 『玉葉』 「平氏との和議」
 伝聞、義仲と平氏が和平の事すでに一定した。この事は去年の秋の頃より連々謳歌した。様々の異説有り。忽ち以て一定した。
「義仲鋳する鏡の事」
 去年月迫る頃、義仲は一尺の鏡面を鋳て、八幡(或る説では熊野)の御正体を顕し奉る。裏に起請文(仮名と)を鋳付け、これを遣わした。これによって和親したという。

 

二・十一・四  奥州との共闘と頼朝追討の下文

 

 法住寺合戦の結果、義仲自身の意に沿うことを後白河法皇に強要することが可能となった。奥州の秀衡に呼びかけ頼朝を攻撃する案は秀衡が応じなかった。
十二月十日 『吉記』 「頼朝追討の院庁下文」
十二月十五日 『吉記』 「平泉の藤原秀衡宛ての頼朝追討を命ずる院庁下文」
 院庁の御下文が到来、鎮守府将軍(藤原秀衡)に仰せられた。その書状に曰く、早く左馬頭源義仲と相共に陸奥出羽両国の軍兵を率い、前兵衛佐頼朝を討つべしと、判を加え返し給いた。
 
二・十一・五 征東大将軍

 

一一八四年(寿永三年)一月十五日 『玉葉』 「義仲を征東大将軍となす」
 隆職が来た。語り言う、去る夜、御斉会の内、論議無し。即位以前たるに依るという。叉云う、義仲は「征東大将軍」たるべき由、宣旨を下されたという。(参照 『史学義仲』第十二号三十六頁)
 征東大将軍は平宗盛が任命された「惣官」と同じく臨時軍政官として鎌倉軍に対抗するために京都近国の武士を統合する権威の獲得を目指したものだろう。

 

二・十一・六 鎌倉軍の情報不足・退却の遅すぎ

 

 義経軍が約五百騎で近くにいる事は知っていた。急激に数千騎ないし数万騎に増加するとは予想できなかったようだ。
一一八三年(寿永二年)閏十月十七日 『玉葉』 「頼朝弟上洛という」
      十二月一日 『玉葉』 「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」「九郎の勢、僅かに五百騎」
一一八四年(寿永三年)一月十三日 『玉葉』 「九郎の勢僅かに千余騎」
      一月十六日 『玉葉』 「義経勢数万に及ぶ」 「義仲行家を追伐」
「北陸への退却が遅すぎた」。
  義仲は武士の棟梁をめざしていた。棟梁となり、朝廷の宣旨を得られれば、畿内近国の武将が味方になり、頼朝にも勝てると思いこんでいたようだ。しかし、流動の時代である。優勢そうな勢力に従い、家系の存続を図ろうとするのが人情である。
 義仲は法皇の権威を利用しようとした。また義経軍に法皇を利用させないため、北陸へ撤退の時期には法皇を連れて行こうと考えていたようである。

 

三、結論

 

 入京時の義仲軍は一・一のような混成軍団であった。最大武力数を持つのは木曽義仲の直轄軍であるが、入京後その他の軍勢は序々に離散し敵対していった。
 このなかで従来あまり重要視されなかったが、渋谷重助のように平家に従っていた東国の在京武士④、多田行綱のように平家に従っていた京都近国の在京武士⑤の大多数は平家軍の退却時は義仲軍に鞍替えした。
 京都近国で約二千騎の最大武力保持者だった義仲軍主力が水島の合戦の敗北により約千騎に減少した。それを上回る数千ないし数万騎の鎌倉軍主力が近づいている情報を得た京都在中の武士、京都近国の武士の浮動勢力は、いっせいに鎌倉軍に傾いたようである。やはり、この水島の合戦に大敗し、主力が半減した事が、義仲軍団崩壊の最大の原因だろう。③④⑤は鎌倉軍入京時には鎌倉軍に鞍替えし義仲軍に敵対した。さらに後、義経と頼朝が敵対した時は頼朝側に追従し義経に敵対した可能性が高い。このように流動勢力の③④⑤は平家、義仲、義経、頼朝(時政)の順に京都の最大武力保持者が交代するたびに追従した。つまり流動勢力③④⑤の思惑が最大武力保持者の平家、義仲、義経の動向を決めたのである。

 

(紙面の制約により、引用文を大幅に少なくした。詳細は拙著『旭将軍・木曽義仲・軍団崩壊』をご覧下さい)

 

参考文献

 一、『訓読玉葉』   高橋貞一著   高科書店
 二、『全訳吾妻鏡』  永原慶二監修  新人物往来社
 三、『吾妻鏡・玉葉データベース』 福田豊彦監修 吉川弘文館
 四、『新訂吉記二』  高橋秀樹    和泉書院
 五、『愚管抄全註解』 中島悦次     有精堂
 六、『木曽義仲の畿内近国支配と王朝権威』 長村祥知 古代文化六十三号 
 七、『治承・寿永内乱期の在京武士』 長村祥知 立命館文学六二四号
 八、『木曽義仲の上洛と『源平盛衰記』』 長村祥知 軍記と語り物四十八号 
 九、『源行家の軌跡』 長村祥知 季刊iichiko2011No.110
 十、『史学義仲』 第四、八、十二号 木曽義仲史学会
 十一、『朝日将軍木曽義仲洛中日記』 高坪守男 オフィス・アングル
 十二、『市河文書』 長野県立歴史館 古文書一覧