「義仲は征東大将軍説」

解説 「義仲は征東大将軍説」

 

一.概要


 朝日将軍木曽義仲は正式には征夷大将軍(注一)に任命されたというのが従来の通説である。
 櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」(『明月記(注二)研究』九号、二〇〇四年)により、義仲が任官されたのは実は「征東大将軍(注三)」だったという説が発表され、それ以降その説の支持者が増えているようである。

 

二.朝日将軍と征夷大将軍説


 まず朝日将軍というのは、『平家物語・覚一本』などの語り本系において、平家追討の功績により後白河法皇より頂いた名誉称号とされている。「寿永二年八月十日、木曽義仲は左馬頭(さまのかみ、注四)になって、越後の国(現新潟県)を賜わり、朝日の将軍という院宣(法皇の命令)を下された。義仲は越後をきらったので、その代わりに伊予(現愛媛県)を賜った」とある。義仲の最後の粟津原の合戦のとき、「木曽の冠者、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源の義仲である」と名乗っている。また、鎌倉の頼朝は寿永二年十月に「征夷将軍」の院宣を賜ったことになっている。
 『平家物語・延慶本』や『長門本』などの読み本系や『源平盛衰記』には寿永三年一月に征夷大将軍に任命されたという記述がある。
 さらに鎌倉幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』の寿永三年一月十日に「伊予の守(源)義仲は征夷大将軍を兼官したという。およその先例を調べてみると、鎮守府将軍(注五)兼官の宣旨(天皇の命令)が下されたのは、坂上田村麻呂の中興以後、安元二年三月の藤原範季に至るまで七十回に及ぶけれども、征夷使兼官の宣旨は、わずかに二回である。つまり、桓武天皇の御代の延歴十六年十一月五日、按察使(あぜち、注六)兼陸奥守(むつのかみ)坂上田村麻呂卿が補(ぶ)され、朱雀院の御代の天慶三年正月十八日、参議(さんぎ、注七)右衛門督(うえもんのかみ、注八)藤原忠文朝臣が補された例はあるが、これ以降、天皇二十二代、二百四十五年にわたり、絶えてこの職に補された例がなかったところに、今ここに三度目の例が開かれた。世に希な朝恩というべきであろう」となっているが、藤原忠文は征東大将軍のようだ。ただし吾妻鏡は幕府開設からかなり後に史料を集めて編纂したものである。
 唯一、右大臣の九条兼実の日記『玉葉』の寿永三年一月十五日に小槻隆職(おづきたかもと)が語りて言う「義仲は征東大将軍たるべき由、宣旨を下されたという」とある。このころ九条兼実は右大臣ではあるが、権力中枢から外れており、重要な会議に参加出来ず、伝聞を記録していた。
 『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。『神皇正統記』には義仲は「征夷将軍」としている。 
 義仲を征夷大将軍とする認識は「吾妻鏡」だけでなく、かなり浸透していたようだ。ということで、従来は「征夷大将軍」に任官したものと見なされていた。

 

三.征東大将軍説


 櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」(『明月記研究』九号、二〇〇四年)により、義仲が任官されたのは実は「征東大将軍」だったという説が発表された。それ以降その説の支持者が増えているようである。
 国立公文書館蔵の『三槐荒涼抜書要(さんかいこうりょうぬきがきのかなめ)』は『三槐記』と『荒涼記』からの抜書きである。『三槐記』は『山槐記』を指し内大臣となった中山忠親の日記である。また『荒涼記』は藤原資季(藤原定能の孫)の日記である。
 『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久三年(一一九二年)七月九日条によると義仲が補任されたのは「征東大将軍」だったようである。もちろん征伐すべき東のものとは、当時敵対関係にあった坂東の源頼朝である。
 建久三年七月は源頼朝が征夷大将軍に任じられる時期であるが、この前後の資料は「吾妻鏡」しか残されていない。この資料は、任官の経緯を教えてくれる貴重な資料である。
 頼朝は建久元年に上京し、十一月九日に権大納言(大納言の次)、二十四日に右近衛(うこのえ、皇宮警察の一つ)大将(長官)に任じられている。しかし、鎌倉に帰る際、両職を辞退し、以後は前右大将を名乗っている。
 そして一一九二年源頼朝が望んだ官職は「征夷大将軍」ではなく「大将軍」だったようである。
前出の『山槐記』建久三年(一一九二年)七月九日条には次のような記載がある。

 「(蔵人)頭大蔵卿の宗頼朝臣が関白(九条兼実)の使いとして来て言う、前右大将の頼朝が、前大将の号を改め、大将軍を仰せらるべきの由を申す。そこで大外記(事務官)の師直、大炊頭(大炊寮(注九)の長官)の師尚朝臣が例えを問われるところ、考え申す旨この如し。何号を賜るべしや」といえり。私は申し言う。「「惣官」や「征東大将軍」の近例は不快である。平宗盛が惣官となり、木曽義仲が征東となった。田村麿(坂上田村摩呂)の例により、征夷大将軍がよろしかるべしか」といえり。大蔵卿は同じく別当(長官)の兼光に問われるところ、申し言う、「上将軍か、征夷将軍の間、よろしかるべしか」の由申すところなり。私は言う、「上将軍は漢家(中国)にこの号が有る。征夷大将軍は本朝に跡が有るの由。上田村麿は吉例を為す。強いて異朝(大和朝廷以外)に求めるべからずか」。
 同十二日、大蔵卿の宗頼が関白の命を奉じて伝送して言う、「大将軍の号の事、田村麿の例に依り、征夷と称すべし。しかるに天慶三年に(藤原)忠文朝臣を以って征東将軍に任ぜられるの時、除目(じもく、注十)に載せられた。養和・元歴に二度宣旨を為した。両様の間、宣下の例は殊に以って不快か。今度は除目を為すべしか。その条然るべしか、勅任(注十一)か、奏任(注十二)か。この三条、たびたびの外、除目並びに宣下の間の事、所見が詳細でないの由、外記・官人が申す所なり。天慶の例において、奏任を為した。しかるに今度、尚差別有るべしや。かつこれ天慶の忠文、時に四位参議の上、大将軍という者は、位は三公(左大臣、右大臣、内大臣)の下にあるという。そこで尚勅任がよろしかるべしやの由、いささか予議有るか」。私は申し言う、「征夷大将軍に任ぜられるの事、今度はもっとも除目を行われるべし。件の官は奏任を為すべしか。
天慶の例がすでにこれに在り、更に本官本位の尊卑に依るべからず。その身四品と為すといえども、八省(注十三)の卿(長官)に任ぜられるの時、勅任を為す。その身公卿(くぎょう、注十四)に為すといえども、按察使(あぜち)に任ぜられるの時、奏任を為す。忠文は四位品参議を為すに依り、奏任を用いるかの由、在らざるものなり。先跡が有るの上、道にかなった趣旨この如し。但しまた時宜にあるべし」といえり。
去る九日、大将軍の号の沙汰が有り。私は征夷大将軍の宣の由を申す、申す旨用いられるか。
 今夜、小除目が行われた。
     征夷使
     大将軍源頼朝
後聞、将軍は勅任と為すという。大外記の師直が申し言う、「大外記の公忠の抄物(抜書き)に、観察使(注十五)は勅任と為すべしの由をこれに書く。もしくはこれに準じ、勅任と為すべしか」。師尚が申し言う、「按察使は勅任と書くの例、一二有り。将軍の事、希代の例を為す。勅任と為すべしか」。これより先形勢に随い、非を申すか。奏任を為すといえども、別紙なんぞ軽々しくあるべしや。ただ旧跡並びに理に依るべきなり。忠文は奏任を以って仰せられました、いかに。観察使は参議といえども、・・官なり。すでに公卿か。使の字を守るべからずか。按察使の例、定めてこれを誤り、一二の違例を以って、これを用いるべからず」。

 大蔵卿の宗頼が関白(九条兼実)の使いとして来て、内大臣の中山忠親の意見を求めた。前右大将の頼朝が前大将の号を改め、大将軍を仰せらるべきの由を申した。大下記の師直、大炊頭の師尚朝臣が例えを問われるところ、考え申す旨この如し。何号を賜るべしか。中山忠親は申し言う。中山忠親の意見は頼朝に与える官職の候補として、「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」の三つを挙げた。その中で治承五年(養和元年)一月十九日に平宗盛が就任した京都近辺の「惣官」、寿永三年(元暦元年)一月に義仲が就任した「征東大将軍」などは前例が不快である。坂上田村麻呂の例により「征夷大将軍」がよろしい。大蔵卿宗頼は別当兼光の意見により「上将軍」「征夷将軍」を挙げた。結局「征夷大将軍」が関白などの選定によって決められたようである。
 「玉葉」治承五年正月十九日に、大外記の頼業が来た。昨日左少弁の行隆が語りていわく、「前大将平宗盛朝臣を以って、五畿内(きない、注十六)及び伊賀(三重西部)、伊勢(三重)、近江(滋賀)、丹波(京都)等の総官と為すべき由、すでに宣下せらるべしという」といへり」と伝聞の伝聞がある。
 征夷大将軍と征東大将軍の違いはなにか。征夷大将軍とは平安初期に蝦夷(えみし)征討のため臨時に派遣された遠征軍の指揮官である。征東大将軍は大和朝廷の勢力範囲内での平将門の討伐の為に派遣された藤原忠文などの例がある。
1.義仲は「征夷大将軍」ではなく「征東大将軍」であった。
2.頼朝は「大将軍」を望んだのであって、「征夷大将軍」を望んだわけではない。
3.朝廷では、「征夷」「征東」「惣官」「上将軍」等から「征夷大将軍」を選んだ。
4.頼朝は「征夷大将軍」を徐目・勅任であたえられた。
 つまり、頼朝はあくまでも「大将軍」の称号が欲しかったのであり、その上に「征夷」がつくかどうかはさほど気にしていなかったということらしい。 また征夷大将軍は通称で、正式には征夷使・大将軍・源頼朝となる。
 中山忠親の記憶では、寿永三年(元暦元年)一月に義仲が「征東大将軍」に就任したとなっているが、当時、中山忠親は権大納言の一人であり、決定の会議に参加していたのか、どのような宣旨が下されたかは記録が無い。

 

四.征夷使大将軍源頼朝


 『吾妻鏡』建久三年七月二十日に、大理(検非違使庁の長官、一条能保)の飛脚が鎌倉に到着した。「去る十二日に頼朝が征夷大将軍に任じられました。その除書(任官者を記した名簿)は勅使(天皇の意思を伝達するための特使)を定めて進められます。」と申し送られたという。
七月二十六日に、勅使である丁官が鎌倉に到着した。征夷大将軍の除書を持参したのである。
除書は次の通り。(中略)
    建久三年七月十二日
  征夷使   大将軍源頼朝
  (中略)
 将軍の事、もとより御意にかけられるといえども、今にこれを達せしめ給わず。しかるに法皇崩御(天皇などの死去)の後、朝政の初度、殊に沙汰ありてこれに任ぜらる。

 頼朝の征夷大将軍就任についての通説として、頼朝は征夷大将軍になりたかったのだが、後白河法皇の反対により実現せず、後白河院の没後にようやく任命されたというものがある。これは二十六日に「将軍の事、もとより御意にかけられるといえども、今にこれを達せしめ給わず。しかるに法皇崩御の後、朝政の初度、殊に沙汰ありてこれに任ぜらる」による。
 「いい国(一一九二年)作ろう鎌倉幕府」という有名な年号が鎌倉幕府成立の年になるかの議論がかなり昔から行なわれている。もちろん一一九二年に源頼朝が征夷大将軍になったことは事実である。その後の鎌倉、室町、江戸幕府も「征夷大将軍」に就任した人が幕府のトップに立つ。その後の幕府のトップの称号となる「征夷大将軍」が決まる経緯が前記の通りだった。頼朝の立場からすれば「大将軍」かそれに近いものだったらなんでもよく、「征夷大将軍」の官職を選定したのは朝廷だったということは意外である。この「征夷大将軍」決定までの経緯、そして義仲が実は「征夷大将軍」になっていなかったという事実は今後の幕府の成立論議にどのような影響を与えるのか。

 

五.山槐記と玉葉


 『山槐記(さんかいき)』は中山忠親の日記である。中山忠親は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿で当時内大臣だった。書名の「山槐」とは忠親の家号「中山」と、大臣家の唐名(槐門)を合わせたものに由来する。現存する伝文によれば、記載時期は仁平元年(一一五一年)から建久五年(一一九四年)までの四十年間あまりである。詳細な記事が多いが、欠失部分も多い。
 中山忠親は後白河院や源頼朝に重用され、日記の現存期間は平氏の興隆から全盛、滅亡の時期にあたる。平氏政権時代から治承・寿永の乱での東国情勢などについて独自の記事も多く、重要史料として扱われている。保元の乱・平治の乱の記事は欠けているが、治承二年(一一七八年)の安徳天皇誕生、同四年(一一八〇年)の即位、元暦元年(一一八四年)の後鳥羽天皇の即位と大嘗会の記事は緻密で、忠親が朝儀や政界の情勢に通じていたことが分かる。
 平重盛の出家、清盛による大輪田泊の改修、以仁王の挙兵、富士川の戦いなどにおいて、平家物語や源平盛衰記などの軍記物語とは異なる記述があり、史実の相違を示している。
 『玉葉』の著者九条兼実は藤原忠通の三男として生まれた。幼少時に母を亡くしたので、皇嘉門院(藤原忠通の娘)の猶子となった。九条家を創設した。若くして右大臣となったが、後白河法皇や平家と意見の相違する事が多く、権力中枢から外され、ご意見番的な存在だった。九条家の創設者として、権力中枢についた場合に備え、朝廷の儀式の様子を知人や部下などから詳細に聞きとり、記録し、自己及び子孫の参考にしようとした。頼朝の推薦により、摂政となり、建久三年当時は関白だったが、建久三年三月十三日に法皇が亡くなると、なぜか日記の記述が少なくなり、建久三年七月の記述が無く、頼朝に関する記述も見られない。

 


 一、征夷大将軍 平安初期に蝦夷(えみし)征討のため臨時に派遣された遠征軍の指揮官。
 二、明月記 藤原定家の日記。一一八〇から一二三五年。
 三、征東大将軍 大和朝廷の勢力範囲内での反乱の討伐の為に派遣された軍の指揮官。
 四、左馬頭(さまのかみ) 官馬を扱った役所(馬寮)の長官。
 五、鎮守府将軍 蝦夷を鎮撫するため陸奥の国に置かれた官庁の長官。
 六、按察使(あぜち) 諸国の行政を監察した官。
 七、参議(さんぎ) 大中納言に次ぐ重職、四位以上から任ぜられた。
 八、右衛門督(うえもんのかみ) 皇宮警察の長官。
 九、大炊寮(おおいりょう) 宮内省に属し、食料の出入りをつかさどった。 
 十、除目(じもく) 諸司・諸国の主典(さかん)以上の官を任ずる儀式。任官の人名を記した目録。
 十一、勅任(ちょくにん) 勅命(天皇の命令)によって官職に任ずること。
 十二、奏任(そうにん) 天皇に奏聞してから任命すること。
 十三、八省(はっしょう) 八の中央行政官庁(中務(なかつかさ)、式部、治部、民部、兵部(ひょうぶ)、
           刑部    (ぎょうぶ)、大蔵(おおくら)、宮内(くない))
 十四、公卿(くぎょう) 公(太政・左・右大臣)と卿(大・中納言、参議および三位以上の朝官)。
 十五、観察使 諸国の治績を観察させた参議相当の官。
 十六、畿内(きない) 大和(奈良)、山城(京都南部)、河内(大阪東部)、和泉(大阪南部)、摂津(大阪)。

 

参考文献


櫻井陽子 『名月記研究九号』頼朝の征夷大将軍任官をめぐって
川合康   『日本の中世の歴史三 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)
元木泰雄 『源義経』(吉川弘文館)
五味文彦・本郷和人編 『現代語訳吾妻鏡五 征夷大将軍』『本巻の政治情勢』(吉川弘文館)
五味文彦・本郷和人編 『現代語訳吾妻鏡二 平氏滅亡』(吉川弘文館)
本郷和人 『武力による政治の誕生』(講談社)